秋田の海べ-象潟から八郎潟-「秋田県散歩」1


『街道をゆく』の「29 秋田県散歩」のうち、海沿いの地をめぐった。
東日本大震災からまもない2011年6月のことで、縁のある人がいるのでもなく、ボランティア活動をするのでもないのに被災地に行っていいものかためらいがあるけれど、八郎潟までたどったところで秋田から離れて、後半は太平洋岸に向かった。

第1日 秋田へ(泊)  
第2日 象潟から秋田港 [蚶満寺 国際教養大学 旧国立新屋倉庫 秋田市立土崎図書館 秋田(泊)] 
第3日 八郎潟から盛岡 [八郎潟 寒風山 大潟観光パレス 盛岡(泊)] 
第4日 盛岡から仙台・石巻 [石ノ森漫画館 石巻ハリストス教会 水澤屋旅館 日和山 せんだいメディアテーク 大崎八幡宮] 

* 第4日の仙台・石巻は→[東日本大震災後の石巻と仙台-「仙台・石巻」1(2011)]) 
* 「秋田県散歩」のうち、この旅で行かなかったところには6年経って出かけた。→[秋田の内陸へ-大館から鹿角-「秋田県散歩」2]

第1日 秋田へ(泊)
* 東北新幹線に乗り、盛岡で乗り換え、秋田へ夜になって着いた。

第2日 象潟から秋田港 [蚶満寺 国際教養大学 旧国立新屋倉庫 秋田市立土崎図書館 秋田(泊)]
* 秋田駅近くでレンタカーを借り、南に向かった。
山形県境に近い象潟に着き、蚶満寺(かんまんじ)の駐車場に車を置く。


■ 蚶満寺
秋田県にかほ市象潟島

景勝の地、象潟のこの寺に、『街道をゆく』「秋田県散歩」の取材で、司馬遼太郎と須田剋太が1986年に訪れている。
芭蕉が来た17世紀ころは海で、小さな島々がポツリポツリと浮かんでいた。今も田の中にかつての島が小高い盛り上がりとして点在していて、かわった景観を見せている。

須田剋太「象潟水田」 象潟
須田剋太「象潟水田」

司馬遼太郎と軍隊でいっしょだった人が蚶満寺の住職をしていて、司馬は秋田の旅のはじめにその古い友人を訪ねた。それでゆっくり過ごしたためもあるか、須田剋太はこの寺で挿絵用の絵を10点も描いている。
限られた1カ所でこんなにたくさん描いたことは、ほかにあまりない。

もちろん、寺に絵を誘う眺めが多いこともあったろう。
それに、たまたま住職が知り合いだったというものの、蚶満寺はたいへんな名刹で、いろいろな由緒がある。
北条時頼が植えたつつじ、親鸞が腰かけた石、西行が歌に詠んだ桜などが庭に点在している。
でも、それぞれに長い説明はなく、ただ「西行法師の歌桜」というふうに、黒い文字で記した小さな白い板が立っているだけ。簡素で明快。
司馬はこの庭を案内されたときの様子をこう書いている。
あちこちを見せながら、当の熊谷はここが宇宙の中心だと思っているから、
「これは、いかがわしいんだが」
といったような、ちっぽけなことは言わない。たとえば、古梅の前にくると、
「これは、管秀才(かんしゅうさい)の梅だ」
とだけ、ぽつりというのである。(『街道をゆく 29』「秋田県散歩」 司馬遼太郎。以下引用文について同じ。)
こんなふうに司馬を案内した熊谷能忍師は数年前に亡くなられた。
年月が経ち、代が替わっても、宇宙的におおらかな気風は今も受け継がれているようだ。
庭の樹木はよく手入れされているし、地面は今朝にも掃かれたろう跡がある。すっきりして、すがすがしい。
須田剋太が挿絵を描いた場所を、今の景色と見比べながら探していく。
鐘楼を背景に描かれた芭蕉の木や、高い木に囲まれた山門などはすぐわかるが、石仏が並ぶ絵になると、それらしいところがいくつもあって特定しがたい。
そんなことをしながら境内をあちらこちらさまよっていても、端正で落ち着いたたたずまいなので、何だか気分がいい。

須田剋太「覚林蚶満寺」 蚶満寺
須田剋太「覚林蚶満寺」

本堂にお参りすると、その内部もじつにすっきりしている。整然として、あるべきものだけが、きっかり置かれている。
あちこち旅しているうちに、ちょっとした文化財があると観光施設のようになっていたり、あるいは雑然と物が配置されて生活臭があったり、精神の場とはいいがたいような寺をしばしば見かけてきた。
庭といい、本堂といい、この蚶満寺は別格に感じる。

ところで「秋田県散歩」には、こういうことも書かれている。
背後で若い娘さんの声がした。はずんだ声だった。
「おぼえていらっしゃいます?」
 と、家内にきいている。家内もとびあがるような声で、
「チエコちゃんでしょう?」
と、いった。
 どうもおそれ入るほかない。二十五年前、熊谷智恵子さんに会ったときは、彼女はたしか、自分を、
「チーちゃん」
 とよんでいる二、三歳の幼女だった。
 それが参道まで出てきて私どもを待っていてくれていたのである。
 目の前にいるのはモデルさんのようにすらりとしたお嬢さんで、豆のような「チーちゃん」から家内はとっさに寄算掛算(よせざんかけざん)していまの熊谷智恵子さんを推定したらしい。
しばらく庭を気持ちよくさまよったあと、本堂の脇の玄関から訪ねてその智恵子さんにお会いできた。司馬遼太郎が幼児から25年を経て会ったあと、さらにちょうど25年が経っている。そのときどきそうであったろうように、今も魅力的な方だった。

このところ僕は『街道をゆく』で須田剋太が訪れた地をいくつか訪ねている。
それなりに由緒があるところでも、必ずしも司馬が文を書き、須田が絵を描くにあたって、いちいちそこの人に断わっているとは限らない。むしろ司馬と須田は、可能な限りは'週間誌に連載のための取材'というのではなく、'さりげない旅'を心がけていたようだ。
それで、いくつか挿絵を描いた場所を訪ねてきたが、実際に須田剋太に会い、絵を描いているところに立ち会った人には、初めてお会いできた。
須田剋太はひょうひょうとして、絵を描くのが早かったと言われる。

ちょっとだけごあいさつするつもりで寄ったのだが、家の中にも須田剋太が描いたところがあるのを勧められて見せていただいた。
禅室は修行の部屋で、三方を僧が座る場が回廊状に取り巻いている。
当時、この禅室を新しく作ったところで、父もぜひ見てもらいたかったのだろうと言われる。

須田剋太「禅堂蚶満寺」 蚶満寺
須田剋太「禅堂蚶満寺」

この日須田剋太が「父の肖像を描いているところを見ていた」と言われる。
須田剋太は『街道をゆく』の旅では、興に応じて、『週間朝日』への掲載に必要とされる以上の絵を描いている。
「須田剋太『街道をゆく』挿絵原画全作品集」という本が出版されていて、僕はそれを参考にして須田剋太の旅の跡をたどっているが、個人を描いてプレゼントしていったものは当然その中には収められていない。
時にはこういうこともあったのかと思う。

話をお聞きしたあと、もう一回り庭を歩いた。
風景や建築で「立ち去りがたい」という思いになるかどうかが、僕には感覚的な評価基準なのだが、この寺は去りがたい。
庭や本堂のたたずまい。
信仰の場の厳しい精神性と、(信仰者以外にさえも)優しい包容性がある。こういう風格はいったい何に由来するのだろうと謎に思えた。
教義によるだろうか。あるいは由緒ある歴史か。住職の個性あるいはその継承か。土地の風土も影響しているだろうか。
謎は解きがたいが、立ち去りがたい気分を何とかおさめて去る。

山門近くにある受付の女性が感じのいい人だった。庭の木のことなど教えていただいた。
駐車場にある売店の女性も和やかな印象の人で、本堂でも焼香に使っていた香りのいい線香を買った。

* 秋田空港に近い国際教養大学に向かう。

■ 国際教養大学図書館
秋田市雄和椿川字奥椿岱193-2

今回の秋田行きは、この図書館に行きたいというのがそもそものきっかけで思い立ったのだが、写真を見て惹かれていたとおりの、期待どおりの、すばらしい図書館だった。

国際教養大学図書館

平面図でいえば半円形の場に、立面図では階段状に書架と閲覧席が積層している。
直径30cmの秋田杉の丸太が6本立ち、堂々として、ダイナミックで、気持ちも広々してくる。
高いところに窓を巡らし、外光がおだやかに館内に入っている。
書架が積層する迫力ある眺めは、司馬遼太郎記念館の高い書架の壁も思い出させる。

半円形なので、本を探して歩いていると体の向きが変わっていく。
階段を上下すると、体のレベルも上下に移動する。
固定した1方向に考えるのではなく、違う角度から考えたり、見おろしたり、見上げたりする。それはものを考えるのに基本的に必要な態度で、この図書館内の散歩は思考のメタファーでもある。
しかも半円の閲覧席からの視線が向かう先は緑の芝生で、樹木が並んで、ふっと気がしずまる。
ほんとうによく考えられている。

この図書館も立ち去りがたいところだった。
蚶満寺とこの図書館とで、今日はもうたっぷり満ち足りた。
これでもう日が暮れてもいい。
一日を楽しく思い出しながら、一杯飲みたいような気分だ。

* 雄物川の河口に向かう。

■ 秋田市立新屋図書館(旧・国立新屋倉庫)
秋田市新屋大川町12-26  tel. 018-828-4215

雄物川の河口近くの左岸に、1935年に建った米の倉庫が並んでいる。
最上川の河口にある酒田の山居倉庫と同様、米どころの重要な施設だった。
1990年に米の倉庫としての役を終え、解体されそうになったが、秋田公立美術大学の一部に取り込まれて再生した。

8棟あって、美大のアトリエやギャラリーとしてつかわれ、そのうち1棟は市立図書館の分館の1つの新屋図書館になっている。
図書館としては、倉庫南端の1棟のさらに南に現代建築の1棟を加えてある。(写真右奥)
秋田市立新屋図書館

司馬遼太郎は「秋田県散歩」で、秋田の景観におおいに落胆している。
秋田にくれば、農家や農村のたたずまいを楽しもうと思っていたのである。それほどあこがれてきたのに、新建材で建てかえてしまった農家が多く、それも一様にデザインがわるく、プラスチック製のビール箱を見るようで、楽しくなかった。
ついては、
(秋田へは、江戸時代にくるべきだった)
とまでいう。
ここでは農村風景のことをいっているのだが、都市景観も関心するようなものではなかったのだろう。
僕もそんなものかもと予想してきたのだが、国際教養大学の美しい図書館、新屋倉庫をいかした図書館と大学-というふうに見てきて、秋田は建築的な創造・蓄積の意志を強く持っているといっていいのではないか、と感じた。

* 秋田市街の北部、秋田港に向かう。
港の近くのホテルにチェックインする。
7階の部屋の窓から見おろすと、秋田港と旧雄物川河口が眼下にある。
こういう景色を見るために、市街から離れたホテルを選んだ。


ホテルのすぐ前、港近くに展望のためのタワーがあり、夕景色を見に上がる。
旧雄物川の対岸では、夜になっても製紙工場から白い煙が上がっている。
北の方の水平線に光が並んでいるのは、男鹿半島南岸のあかりのようだ。
秋田港と旧雄物川河口

展望台へのエレベータは無料で、他には男女のペアや、親子連れなど、数組の人に出会った。

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第3日 八郎潟から盛岡 [八郎潟 寒風山 大潟観光パレス 盛岡(泊)]

* 秋田市から男鹿半島に向かって、ほぼ海岸沿いの道を車で行く。
途中でひとつ河口らしき流れを越える橋がある。
橋の手前で道をそれて、先端まで行ってみた。


■ 河口ビューイング/船越水道(八郎潟)

ソラマメの形の八郎潟干拓地をぐるりと囲む水路の南端が海に接するところで、もとは陸地だったのを切り開いて、海と、内部の八郎潟調整池がつながっている。
眺めとしては、まったく河口で、左右の岸の先端から細い堤防が海に突き出している。堤防にはさまれたところは平たく静止した水面だが、堤防の外側では波が岸に寄せている。
ほかに何台か車が置いてあって、堤防の先端で釣りをしている人がいる。

船越水道(八郎潟) 写真は河口から内陸方面を振り返って撮る。橋の向こうに八郎潟と海を区切る水門がある。

■ 赤神神社五社堂
男鹿市船川港本山門前字祓川35

男鹿半島のほぼ南西端にある。

長い階段を上がると5つのやしろが並んでいる。
中央のやしろだけ扉が開いて、お参りできるように整えられている。朝早くに階段下の神社の人が開くのだろう。
赤神神社五社堂

数ある円空仏のなかでも最適のロケーションにあるそうなのだが、円空仏がおさまるやしろは閉じられていた。

■ 男鹿市立鵜木小学校
秋田県男鹿市鵜木字松木沢境90 tel. 0185-46-2520

八郎潟を囲む西側のもとから陸地だったところに、明治時代からある古い学校。
現校舎は1988年に建った。
細くうねる農村集落の中の道を抜けると、塀のない校地に独特の表情の校舎が現れた。楕円形の校舎棟と、体育館棟とを、互いの2階どうしを連絡通路で結んでいる。
男鹿市立鵜木小学校

設計したのは毛綱毅曠(もづな きこう 1941-2001)という建築家で、異形の建築をつくる。
しかもただ驚かしてるのではなくて、裏打ちになる大きな世界観を持っている。いいようによっては、世界観というよりほら吹きともいえるほどで、だからますますおもしろい。


■ 寒風山
男鹿半島の付け根にある山で、車で山頂真下まで行ける。
『街道をゆく』の「秋田県散歩」で、須田剋太はここの絵も描いている。

須田剋太「寒風山」 寒風山
須田剋太「寒風山」

着いて絵と風景を見比べてみたけれど、絵のように見えるポイントがない。
右の写真の、右の山の上まで行って見おろしても違う。
中央の鞍部を越える道の先まで行っても、それらしいところがない。
左の絵の下半分は崖かもしれないと見当をつけて、さらに先まで下ってみたが、山から離れてしまって山の姿がとても小さくなってしまう。
かなり高い位置から見おろさないと絵のように道が見えなそうだから、須田剋太の魂が上空まで飛んでいたろうかと思う。

■ 大潟村干拓博物館
秋田県南秋田郡大潟村字西5-2 tel. 0185-22-4113

干拓のことを説明する博物館。
干拓前後の航空写真とか、干拓の工法とか、おもしろかった。

● 大潟観光パレス
『街道をゆく』で司馬遼太郎と須田剋太は、寒風山を降りてから八郎潟にきて、「湖心のあたりの食堂」でカレーライスを食べている。
「大潟観光パレス」という、アルミサッシを多用した店だった。
と、店の名もでてくる。
僕も同じものを食べようかと行ってみた。

大潟観光パレス ちょっと寂れた印象があり、ちょうど昼時なのにしまっている。ドアに携帯の番号がメモしてあるのでかけてみると、今は事前予約だけ受けているとのことだった。

干拓博物館の隣にある道の駅に戻り、うどんを食べた。

* ふたたび秋田市街に戻る途中で、県立博物館に寄った。
(ここには数年後に「秋田県散歩」をもう一度たどったときにも寄った。)

秋田駅近くでレンタカーを返した。レンタサイクルに乗り換えて、夕方の電車に乗るまで、駅の近くを回った。


■ 秋田市立千秋(せんしゅう)美術館
秋田市中通2-3-8 tel. 018-836-7860

美術館のコレクションから、秋田蘭画を揃えて展示してあった。
藩主の佐竹曙山の絵がみごとだった。はじめ狩野派を学び、のちに蘭画を知って学んだという。
練習用らしい写生帖が遺っていて、その現物は、きれいな蝶や、色鮮やかな鳥のページを開いて展示してあった。でも全ページのコピーをおさめたファイルをめくって見ると、ゲジゲジとか、芋虫なんかも描いている。5本足の奇形のカエルもあり、生物学的興味がうかがえる。
「燕子花にナイフ図」にも驚かされた。縦長の紙に、スラリと端正な姿をした鉢植えのカキツバタが描かれている。それだけでも名品だが、左下に小さなナイフが斜めに置かれている。まるでシュールレアリスム!
花の手入れにナイフを使うのかもしれないが、それを画面に描きこむところに近代的感覚を感じる。
『街道をゆく』で、漂白の人、管江真澄が、秋田に滞在して、藩主に信頼され、藩主を信頼したことが書かれている。
秋田蘭画を見て、そういう伝統をなるほどと納得する思いもした。

* 東日本大震災から4か月目の仙台では、ホテルはとんでもなく高価なのしかあいていなくて、3日目の夜は盛岡で泊まって、次の日に仙台に向かった。

第4日 盛岡から仙台・石巻 [石ノ森漫画館 石巻ハリストス教会 水澤屋旅館 日和山 せんだいメディアテーク 大崎八幡宮]

このあとの仙台の旅は→[東日本大震災後の石巻と仙台-「仙台・石巻」1)(2011)]) 

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参考:

  • 『街道をゆく 29』「秋田県散歩」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1987
  • 3泊4日の行程 (2011.6/30-7/3)
    (→電車 -レンタカー =バス ▷自転車 …徒歩)
    第1日 東北新幹線盛岡経由→秋田駅…秋田ビューホテル(泊)
    第2日 -蚶満寺-国際教養大学-旧国立新屋倉庫-秋田公立美術工芸短大-雄物川河口-秋田市体育館-秋田市立土崎図書館-ホテルルートイン秋田土崎(泊)
    第3日 -八郎潟-赤神神社五社堂-寒風山-男鹿市立鵜木小学校-大潟村干拓博物館-大潟観光パレス-道の駅大潟-秋田県立博物館・旧奈良家住宅-秋田駅▷秋田県立図書館▷秋田市立中央図書館▷千秋美術館▷秋田駅→盛岡駅…岩手県立図書館…ホテルルイズ(泊)
    第4日 盛岡駅→仙台駅=石巻駅…石ノ森漫画館…石巻ハリストス教会…水澤屋旅館…日和山…石巻市図書館…石巻駅=仙台駅…せんだいメディアテーク=大崎八幡宮=仙台駅