米沢から狐越街道を山形へ-「羽州街道」


『街道をゆく 』「10羽州街道」 の旅は1976年秋のことだった。
もう40年ほど経っている。
司馬遼太郎と須田剋太は山形空港から入り、文章では明らかではないが帰るのも山形空港からだったろう。
僕らは(この旅も妻が同行した)山形新幹線米沢駅から始めて北に行き、山形から新幹線で帰った。

第1日 米沢市 [上杉神社 米沢市上杉博物館 吉亭 上杉家廟所 西米沢駅 林泉寺 直江石堤 湯の沢温泉時の宿すみれ(泊)]  
第2日 米沢市から山形市へ [遅筆堂文庫 最上川橋梁 荒砥駅 狐越街道 春雨庵 シベールアリーナ&遅筆堂文庫 東北芸術工科大学 La Jomon  リッチモンドホテル山形駅前(泊)]
第3日 山形市と、寒河江市・天童市に寄り道 [立石寺 寒河江市役所 山形市郷土館 恵埜画廊 明善寺]


第1日 米沢市 [上杉神社 米沢市上杉博物館 吉亭 上杉家廟所 西米沢駅 林泉寺 直江石堤 湯の沢温泉時の宿すみれ(泊)]

* 1日目は米沢市内をまわって、米沢郊外の宿に泊まる予定。
新幹線を米沢駅で降りたところでレンタカーを借り、まず上杉神社に向かった。


■ 上杉神社
山形県米沢市丸の内1丁目4-13

上杉神社は米沢城址(松が岬公園)にあって、上杉謙信を祀っている。
上杉謙信は1578年に越後春日山城で急死したが、跡を継いだ上杉景勝が会津~米沢と移ったのにあわせて、謙信の遺骸も米沢にきた。
明治時代になって謙信の遺骸は城内から上杉家廟所に移されたが、城内では神式で祀るために上杉神社が建てられた。
社殿は、1919年の火事で焼失したあと、米沢生まれの建築家、伊東忠太の設計により1923年に再建された。
上杉神社

須田剋太『積照殿宝物館 愛の文字のあるかぶと』
須田剋太『積照殿宝物館 愛の文字のあるかぶと』

境内に稽照殿という宝物殿がある。
上杉景勝を支えた武将、直江兼続の「愛」の文字をのせた珍しい兜がある。
全体が小柄なのに驚く。

今も須田剋太の絵のとおりに展示されているが、撮影禁止になっている。

仏教では、愛欲、愛着、愛執といったように悪いことば(煩悩や我執をあらわすことば)として使用された例が圧倒的に多い。(中略)
 そういうことから考えると、戦国末期に直江兼続が、戦いをするための兜に「愛」という金文字を前立に大きくかかげたというのは何か異様な感じがするほどにおもしろい。伝承では「愛民」の意味をこめた「愛」だったという。(『街道をゆく 10』「羽州街道」 司馬遼太郎。以下ことわりのない引用文について同じ。)

『上杉神社』『米沢市上杉神社』と文字をかきこんだ挿絵がある。
神社のなかをさがしたが絵のような場所は見つからなくて、あとで行った上杉家廟所にあった。

* 稽照殿を出て、神社の参道を歩いていたら、天気情報ではまったく雨の気配はなかったのだが、急にさーっと雨が降りだした。
『街道をゆく』の挿絵の地をめぐる旅では、雨と予告されたのに降られずにすむ-というのが定番なので、こういう逆の事態は珍しい。
ただ一時の通り雨で、近くの屋根の下で雨宿りしているうちに、まもなくやんだ。


■ 米沢市上杉博物館
山形県米沢市丸の内1-2-1 tel.0238-26-8001

広々した公園を歩いていくと、県立の「置賜(おきたま)文化ホール」と、市立の「米沢市上杉博物館」の2つがいっしょになっている「伝国の杜」(でんこくのもり)という文化施設がある。
博物館には国宝の『上杉本洛中洛外図屏風』という名品がある。
狩野永徳が京の都を描いたもので、1574年に織田信長から上杉謙信へ贈られたといわれ、以後米沢藩上杉家に伝わった。

米沢市上杉博物館

2012年にここで「美の系譜-国画会にみる山形ゆかりの美術」という展覧会があった。
国画会に須田剋太は1949年から1988年まで所属し、毎回出品していた。
この会に米沢出身の画家、遠藤賢太郎氏が加わっていた。
遠藤氏は神戸に住み、西宮在住の須田剋太と親しかったが、その後山形に帰っていた。
『街道をゆく』の旅のとき須田剋太と遠藤賢太郎氏は山形で再会している。
遠藤氏は山形大学教育学部で長く美術を教えているが、この展覧会の図録に記した文章からするとこの企画に中心的に関わっておられたようだ。
展覧会の図録には、遠藤賢太郎氏の作品3点と、須田剋太は埼玉県立近代美術館所蔵の『私の曼荼羅a』1点が掲載されていた。

* 今度の旅も妻が同行していて、米沢ではラーメンを食べたいという。
米沢駅の観光案内所でもらっておいた「米沢ラーメンマップ」を見て、わりと近くに店名にひかれる店があって、駅に戻る方向に歩いた。


● きよえ食堂
山形県米沢市大町3-5-1 tel.0238-23-1427


店名はひらがなをつかっているが、漢字では「喜養栄食堂」と、めでたい文字がならんでいるのだった。
中はこぢんまりして落ち着く。
僕はラーメン、妻はワンタンンメン。 
あっさりしたスープに縮れたメンで、おいしかった。
きよえ食堂

* また城趾のほうに戻るのに、こんどは別な道を行こうと歩きだしたら気になる表情の店があって、ふらふらと入ってしまった。

● くるみのき
山形県米沢市大町3-5-6 tel.0238-40-8161

とてもすてきなセンスの団子屋さん。
あんことみたらしという定番のほかに、ごまと(あと何だったか上品な味わいだった)計4種買って、妻とシェアして店内のベンチで食べる。
冷たいお茶がサービスで飲める。
ラーメンだけではちょっとものたりなかったのが、わずかな出費でラーメンと違った甘味を味わって満ち足りた。
いいところにいい店があった。

くるみのき くるみのきの団子

* 司馬遼太郎は米沢市内の侍屋敷がのこっているあたりで、ウコギの垣根を見た。
長州藩の侍屋敷にくらべると、じつに貧寒としている。練り塀もなく、石垣もなく、長屋門もない。練り塀にかわるものが、垣だった。それも五加木(うこぎ)という背がひくく見映えのしない木を植えただけである。しかもこのうこぎ垣が美観のためではなく、新芽をつんで食用にするためのものであった。
上杉神社に向かう市街中心部の道には、並木のようにウコギが植えられている。
直江兼続の屋敷跡と、うこぎの垣根
直江兼続の屋敷跡を通りかかった。案内板に、明治維新後に地番をふったとき、兼続の屋敷後を1番にしたとある。
写真左のほうがウコギの垣根。
米沢を象徴するウコギを中心部の道に新たにも植えてみせるところに米沢の歴史意識がある。

■ 九里(くのり)学園高等学校
山形県米沢市門東町1-1-72 tel.0238-22-0091

九里学園高等学校 交差点の一角にいい表情をした木造建築があった。
1901年の九里裁縫女学校が発端で、その後に米沢女子高等学校などへの改称を経て、1999年から男子生徒も入学して九里学園高等学校という今のスタイルになっている。
交差点に顔を向けている木造校舎は1935年に建ち、登録有形文化財になっている。

『街道をゆく』の挿絵の地を探して旅していても、くるみのきといい、この校舎といい、知らずに来てはじめて出会うものというのも楽しい。

● 吉亭(よしてい)
山形県米沢市門東町1-3-46 tel.0238-23-1128

ヨークベニマル(スーパーマーケット)と駐車場を共有する米沢牛を主にした割烹がある。
駐車場に面して、黒い塀があり、蔵があり、小さな門がある。

吉亭(よしてい)
その門から入って正面に回ると、庭の先に割烹の玄関がある。

司馬遼太郎は米沢で会った人たちに案内されて米沢牛の店に入ったのだが、そこはこんなふうだった。
 どこか昼飯を食わせる所がないだろうかと編集部のHさんと思案していると、尾崎周道氏と川口忠夫氏が、
「米沢牛がいいでしょう」
 といって、案内してくれた。
 その店は、味噌蔵のような建物を正面に出して、ぜんたいの構造がいかにも頑丈そうである。なかへ入ると、川口氏が電話しておいてくれたらしく、すき焼きが準備されていた。
吉亭は名のとおった老舗で、客人を案内するにはふさわしいところのようで、司馬一行が行った「味噌蔵のような建物」はここではないかと思う。
(僕らもここに食事にはいれば確かめられたかもしれないのだが、今夜は牛がメインの宿を予約してあるので昼は軽くラーメンにした。)

■ 上杉記念館・上杉伯爵邸
山形県米沢市丸の内1-3-60 tel. 0238-21-5121

上杉記念館・上杉伯爵邸
これは九里学園より10年早い1925年に中條精一郎という建築家が設計して建った。
今、中は食事どころになっている。
庭を散歩する。池と建物のあいだに広い芝の平面があってゆったりしている。

* 上杉神社の近くの駐車場に車をおいたあと、ここまで歩いてまわってきたのだが、次の目的地はいくらか離れているので、駐車場に戻って車に乗った。

■ 上杉家廟所
山形県米沢市御廟1-5-30 tel.0238-23-3115

上杉神社のところで記したように、上杉謙信は越後で亡くなったが、遺骸はのちに会津を経て米沢城に移され、さらに明治時代になってここ上杉家廟所に移された。
石畳の道を進むと、正面に上杉謙信の墓所がある。
それを中央にして、左右に米沢藩の歴代藩主の墓が並んでいる。
須田剋太が「上杉神社」の文字をかきこんだ絵2点は、こちらを描いたものだった。
正面にある上杉謙信の墓を前にして、左を向くと下の写真と絵になる。

上杉家廟所 須田剋太『米沢市上杉神社』
須田剋太『米沢市上杉神社』

同じ場所で、左に歩いていく石畳の道を正面にすると下の写真と絵になる。

上杉家廟所 須田剋太『上杉神社』
須田剋太『上杉神社』

明治維新後、米沢城にあった上杉謙信の遺骸はこちらの廟所に移され、米沢城趾には謙信を祀る上杉神社がつくられたという複雑な推移があるから、須田剋太が錯誤して文字を記したようだ。

* 上杉家廟所からちょっとだけ先にある米坂線の駅に寄ってみた。

■ 西米沢駅
山形県米沢市直江町

『街道をゆく』には関係ないのだけど、1972年公開の映画『忍ぶ川』(原作・三浦哲郎)のロケ地につかわれた-という由緒がある駅。
雪がふりしきるプラットフォームに栗原小巻と加藤剛が降りた。

駅舎は今ふうの簡素なものに建て替わっていた。
駅舎からでてきたところはちょっとした広場で、自転車置き場が学校別になっているのがおもしろかった。
「米沢中央高校」
「その他の高校 一般」
「米沢東高校」
-と、札が立っている。
西米沢駅

* 市街の西にある駅から、市街の南にある寺に行く。

■ 林泉寺
山形県米沢市林泉寺1-2-3 tel.0238-23-0601
http://yone-rinsenji.com/

米沢藩の藩主の墓は上杉家廟所にあるが、その家族の墓は林泉寺にある。
墓は家の形をしていて、中に五輪塔がある。
穴の数が不思議で、「たて:横」として
 4:4 4:3 3:4 3:3 3:2 2:3
と、すべてのパターンを確認したわけではないが、さらっと見ただけでもいろいろある。

林泉寺の上杉家墓地 須田剋太『上杉家墓地で』
     須田剋太『上杉家墓地で』

上杉景勝を支えた直江兼続の墓もここにある。
こちらの3つの穴は、直江家の家紋によるという。

直江兼続の墓 須田剋太『上杉氏墓地』
須田剋太『上杉氏墓地』

山門のわきにシダレザクラがある。
上杉景勝公お手植えの桜といわれる。
須田剋太は『直江山城守手植の桜』としているが、これも勘違いだろう。

上杉景勝公お手植えの桜 須田剋太『直江山城守手植の桜』
須田剋太『直江山城守手植の桜』

* 市街地の南のはずれに向かう。
米沢市内を走っていると、市街が窮屈な感じがしない。
古い家が残っているところではウコギの垣根があるとしても、新しい家が並ぶあたりでは塀も垣根もない家が少なくない。
あっけらかんと開放的な印象が、北海道の街を思わせる。
雪が多いから家々の境を仕切らないほうが雪の処理がしやすいという事情があるかもしれない。


■ 直江石堤
山形県米沢市芳泉町

最上川は、行政区画でいえば、米沢市から北上して酒田市で日本海にはいる。
山形県内だけを流れるローカルな川なのに有名なのは芭蕉の句の影響力だろうか。
水源は米沢市の南方、福島県との境にある吾妻山にある。

直江石堤
最上川は米沢に水害をもたらすことが多かったので、直江兼続は市街の南に石積みの堤防を築いた。その遺徳を偲んで「直江石堤」と呼ばれている。
今も一部が残っていて、公園になっている。


歩いていると、犬と散歩する人とよく会う。
秋にはこのあたりも山形名物の芋煮会の会場として賑わうという。

須田剋太『山形市河原芋煮会』
須田剋太『山形市河原芋煮会』

* さらに市街から南に離れる方向に走る。
先方に緑の小山が見えて、山道に入るのだろうかというあたりに今夜の宿があった。


● 湯の沢温泉 時の宿 すみれ
山形県米沢市大字関根12703-4 tel.0238-35-2234
https://www.tokinoyado.com/

米沢から山形方面に行くという話をしたとき、妻が「米沢ならぜひ泊まりたい!」とすみれの名をあげた。雑誌で紹介記事を見てからいつか行きたいとずっと心に留めていたというので、ほかの選択肢を迷う余地もなく、半年も前にここに予約した。
さすがにそれだけのことはあると感じさせられることがいくつもあったが、なんといっても夕飯がすてきだった。
ちょっと暗めの照明のレストランでカウンターに並んで腰かける。
女将の実家が精肉店で、極上の米沢牛の各部位がさまざまに調理される。
目の前でシェフが動いていて、ときおり穏やかな声で料理の説明をしてくれる。
メインはサーロインステーキで、焼いた肉を鋭い包丁で切る動きを見ていると、気持ちがすっとしてくるような鮮やかさ。
カウンターをほかに幾組かの人たちが囲んでいるが、ここは「おふたり様限定」の宿なので、親密で落ち着いた雰囲気になっている。
僕はひとりで出かけることも多く、ときたまある一人旅お断りの宿にはうっすら反感があるが、むしろ夫婦でも親子でも友人でも2人に限ってしまう-というのは明快でおもしろいと思う。
もしまた米沢に来ることがあれば次もここに泊まろうと思った。

時の宿 すみれ
部屋ごとにデザインがことなる。
外を忘れるように、部屋にはテレビも時計もない。

時の宿 すみれ
朝はレストランで食事したあと、テラスでデザートとコーヒー。
木々の向こうを高架の新幹線が低速で静かに通り過ぎていく。

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第2日 米沢市から山形市へ [遅筆堂文庫 最上川橋梁 荒砥駅 狐越街道 春雨庵 シベールアリーナ&遅筆堂文庫 東北芸術工科大学 La Jomon  リッチモンドホテル山形駅前(泊)]

* 『街道をゆく』「羽州街道」の連載では、7回目が「最上川」で、
 最上川を見るために山形県まで来たようなものだが、まだこの川を見ていない。
という文章から始まる。
司馬一行は米沢から山形に向かうのだが、米沢-山形にはJR奥羽本線に並行する国道13号線が素直な行き方になる。
でも最上川を見るために、西に迂回して最上川にほぼ沿って、川西町、長井市を経ている。
川西を通るなら-『街道をゆく』の旅では寄っていないのだが-僕は井上ひさしのゆかりの図書館を見て行こうと考えた。


■ 川西町フレンドリープラザ 遅筆堂文庫
山形県東置賜郡川西町上小松1037-1 tel.0238-46-3311

川西町は、作家・劇作家の井上ひさし(1934- 2010)の生誕地。
故郷を離れるとき井上ひさしが持っていたのは、父の形見の『近代劇全集』20冊だけだった。それから「もの書きが必死で本と付き合った」結果、蔵書が7万冊を越えたころ、川西町の有志が井上ひさしに講演を依頼した。ちょうど井上ひさしは蔵書をいったん全部手放して、もういちど人類の遺産である本を自分のところにどれだけ集められるか、再構築したいと考えていたころだった。講演をきっかけにそれまでの蔵書を川西町に寄贈する話がすすんで、1987年に町の公共施設の一画に井上ひさしの命名による「遅筆堂文庫」ができた。

川西町フレンドリープラザ 遅筆堂文庫 さらに1994年には、町立図書館と劇場をそなえた川西町フレンドリープラザができて、遅筆堂文庫もそちらに移った。
図書館に入ると、平均レベルより照明がやや暗い。
どーんと大空間があるのではなく、小さく区画されている。壁で仕切っているのではなく、柱や書架の構成により小さな空間が連続していて、落ち着く。
中央あたりに遅筆堂文庫があり、井上ひさしの蔵書の一部が並んでいる。
本を開いてみると、線を引いてあったり、書き込みがあったり、作家の脳のなかをのぞいている気がする。

はじめに遅筆堂文庫ができたのは1987年で、『街道をゆく』の旅は1976年だったから、文庫はまだなかったし、「羽州街道」では井上ひさしのことはふれられていない。
ただ1985年の「仙台・石巻」に井上ひさしが登場する。
それより前の1980年に、司馬遼太郎が井上ひさし夫妻と、米沢から蔵王を経て仙台に向かったときのことが書かれている。
仙台では何人かの人が集まってくれているから、夕方には着かなくてはならない。それでも司馬遼太郎が蔵王は初めてだというので、井上ひさしが案内した。司馬は時間を気にかけているのだが、井上は大丈夫だと悠然としている。
 山頂での井上さんはじつに閑々として行雲流水(こううんりゅうすい)のふぜいだった。が、胸中はそうでもなかったろう。
 これが奥州人の意気というものなのである。井上さんが「公私」の軽重を量り、「公」に殉じていることは、私にもうすうすわかっていた。(『街道をゆく 26』「仙台・石巻」 司馬遼太郎)

 仙台で待っている井上ひさしの同級生たちはいわば身内の「私」だが、客人の司馬遼太郎は「公」である、だから
蔵王を越えることも公としての快挙であり、この公の前には、仙台で待つ「私(し)ども」には我慢を強いねばならず、井上さんはそれについて万斛(ばんこく)の涙をのんでいる。その上での泰然自若なのである。(同上)
『街道をゆく』の膨大な文章のなかでも、僕にはここは格別印象深いものの1つだ。

* 国道287号線を北上して、長井市を過ぎ、白鷹町(しらたかまち)にはいる。

■ 最上川橋梁
山形県西置賜郡白鷹町荒砥

司馬一行は最上川を見るために
荒砥(あらと)という土地で車を降りて、堤の上にのぼってみた。
とあり、僕らも荒砥で最上川の岸にでた。
南陽市と白鷹町を結ぶ山形鉄道フラワー長井線(30.5km、17駅)に架かる橋が「最上川橋梁」で、日本最古の現役鉄道橋という。
もとはイギリスから技術と資材を輸入して1887年に東海道本線が木曽川を渡る橋としてつくられた。
その木曽川橋梁が新しく作り替えられたので、1921年から1923年にかけて旧国鉄長井線に移設された。
2008年に土木学会選奨土木遺産に選ばれている。


近づいて見ると廃線だろうかととまどうほどに、線路に草が侵食している。
眺めているうちに荒砥駅を出た列車がやってきて、ゆっくり鉄橋を渡っていった。
2両編成に客が数人。
最上川橋梁

夜、毎日新聞の山形版にこの橋についての記事があった。
1週間ほど前の夜、数本の枕木が燃える火事があった。耐久性に優れた合成樹脂製の枕木は高価なので、木製のものを使っている。列車がブレーキをかけたときに発生した火花が原因とみられている。焼けた10本ほどの枕木を、外部の専門業者に発注しないで社員が交換した
それほど経営が厳しいようで、新聞を読んで廃線のようだった線路をあらためて思い出した。

須田剋太が『荒砥よりの最上川』を描いている。
こちらの橋は鉄道橋に並行している道路に架かる橋のようだ、

荒砥橋 県道11号
須田剋太『荒砥よりの最上川』
須田剋太『荒砥よりの最上川』


古くこの地方では最上川は「松川」といわれた。
川西町と長井市との境、248号線に「松川橋」という橋が架かっているが、この絵はどこと特定しにくい。
須田剋太『最上川上流 松川』
須田剋太『最上川上流 松川』

■ 荒砥駅
山形県西置賜郡白鷹町荒砥甲


山形鉄道フラワー長井線の終点駅。
無人の改札口からプラットホームに出てみると、すぐ先に電車庫があった。
荒砥駅

駅に公民館と観光案内所を併設している。
町はそばが名物とのことで、案内地図もあった。
駅員さんに近くにおすすめの店でもあるだろうかときいてみると、ちょっと離れていそうだし、ちょうど昼どきで時間がかかりそうでもあり、先に進む。

* 白鷹町中心部から国道348号を東へ行くと、まもなく県道17号・狐越街道が左に分岐する。ちょうどその分かれ目にファミリーマートがあったので、弁当を調達して、その先の公園のベンチであっさり食べた。


■ 狐越街道

白鷹町から山形市方面に行くには、白鷹山の南を通る国道348号線がある。
白鷹山の北を行く県道17号は江戸時代の狐越街道で、名前にひかれたのか、司馬一行はこの道を行った。
狐越街道とよばれるのは、この人間とのかかわりの濃い動物がかつて多く棲んでいたか、それとも狐に化かされるハナシが多発した山道だったのか、ともかくも街道の名称としてはわるくない。

須田剋太『狐越中山原農家風景』
須田剋太『狐越中山原農家風景』

道は白鷹山の山裾をたどって、ゆるい傾斜はあるけれど、ヘアピンカーブが連続するような山道ではない。
いくらか山に入った気がするところがあってもわずかで、ずっと先まで見はるかせる広々したところもある。

狐越街道「中山小学校口」バス停
このあたりが中山で、「中山小学校口」というバス停がある。


走っているうちに、一部だけ茅葺き屋根の建物がある家は見かけたが、これほどみごとに全面的に茅葺きの家には出会わなかった。

須田剋太『農家狐越えの道』
須田剋太『農家狐越えの道』


もう1枚、狐越街道で描いたと思われる絵がある。
挿絵を所蔵する大阪府の記録では『味噌蔵のような建物』というタイトルが付されている。
須須田剋太『味噌蔵のような建物』
須田剋太『味噌蔵のような建物』

米沢市内の吉亭のところでふれたように、司馬一行は米沢で案内してくれた人の誘いで米沢牛を食べる店に入ったが、そこは司馬遼太郎の文章によれば「味噌蔵のような建物」だった。
そのことが書かれたのは週刊朝日の連載第6回「米沢の"お手柄"」だった。
連載第7回「最上川」で、米沢を出て最上川にむかっている。
第7回に掲載された挿絵の1枚目は、『最上川に立つ』と文字がかきこまれていて、最上川の中州に司馬遼太郎が立っている。
2枚目が『味噌蔵のような建物』と付された絵だった。

『街道をゆく』の挿絵の寄贈を受けた大阪府では、絵に文字が書かれているものはそのとおりをタイトルにしたが、この絵では文字がない。
建物を見て第6回にあった「味噌蔵」と推定したのだろうが、場所は市街ではなく山道だし、建物は蔵ではなく茅葺き屋根の家だし、ここは第7回の文章に即した狐越街道の風景とみるのが無理がない。
ただ僕らが走ったときには、これほどりっぱな茅葺き屋根の家は見かけなかった。40年ほどの間に建て替わったのだろうと思う。

狐越街道は、道幅が狭いところはあってもほとんど対向車にあわなくて、楽に走れた。
白鷹山の南にある国道348号が整備される前は、とても交通量が多く、信号まであったというのだが、今は途中で止められることなく、するすると走った。

山形市に近づいて、急に眺めが開けるところがあった。
 山が果てるころ、急に眼下に山形盆地を見おろすことになる。野ひろく、その野の涯(はて)には蔵王の連山がそびえている。野の一部に白い建物が集積して山形市の市街地がひろがっており、自然と都市との調和が、日本でもめずらしいほどの美しさで展開されている。
そんな眺めが開けたところは狐越街道じゅうでおそらく1カ所だけだった。
ふつう道の途中では場所を特定することは難しいが、ここは確実に司馬一行が眺めたのと同じ地点と思われた。

* 狐越街道をそのまま進めば山形市街の南に出るが、門伝で国道458号に右折して、司馬一行と同様に上山(かみのやま)に向かった。

■ 春雨庵
山形県上山市松山2-10-12 tel.023-672-0824


江戸時代初期、朝廷と幕府が対立した紫衣事件(しえじけん)のおり、京都大徳寺の僧、沢庵は上山に配流され、上山城主が仮住まいを用意した。
沢庵は3年住んだのち、許されて江戸に移った。
その住居跡が保存公開されている。

須田剋太『沢庵和尚遺跡春雨庵茶室』
須田剋太『沢庵和尚遺跡春雨庵茶室』

カーナビにしたがって国道458号線から狭い住宅街にはいっていくと春雨庵があった。
無料で公開されているが、第3土曜・日曜は休館となっていて、僕らが行ったのはちょうどその土曜日だった。一応見ておこうと来てみれば、狭い駐車場が満車になっていて、人の出入りも多い。
中に入っていくと、「聴雨亭」という茶室があり、明日茶会があるので、今日はその準備をしているとのことだった。
茶人のひとりに須田剋太の絵のことをたずねると、それはこの茶室だと教えられた。
「前はここに傘がかかっていたのですよ」と傘の跡まで示された。

春雨庵 笠の跡

壁にうっすらとかたかなの「ノ」の字のように笠の跡が残っている。
春雨庵

* 『街道をゆく』の旅は上山に泊まっているが、僕らは春雨庵を見ただけで上山を出る。
国道13号線を走って山形市に入ると、山形上山I.C.の近くに、もう1つ井上ひさしに関わるところがある。


■ シベールアリーナ&遅筆堂文庫/シべール ファクトリーメゾン
山形市蔵王松ケ丘2-1-3 tel.023-689-1166
(公益財団法人 弦 地域文化支援財団)

シベールは有名なラスクの店で、ファクトリーメゾンと名づけられた売り場はとてもにぎわっている。

シベールアリーナ&遅筆堂文庫
敷地内にシベールアリーナ&遅筆堂文庫という大きな建物があり、階段を上がると左に劇場、右に遅筆堂文庫がある。
シベールの経営者の熊谷真一氏が井上ひさしのファンで、川西町の「遅筆堂文庫」の蔵書のうち3万冊ほどをこちらに移して閲覧できるようにし、分館のように機能している。

文庫は直射日光をさけて奥まってあるが、文庫を囲む回廊は明るくてとても気持ちがいい。
上の階にも資料があり、そこに向かう階段を見上げると先に大きなガラス窓がある。
上がっていくにつれ、はじめ空だけ見えていたのが、じょじょにその下の青い山も見えてくる。
廊下に大きな記念写真があって、井上ひさし、熊谷真一、大江健三郎の3氏が並んでいる。

井上ひさしが2010年に亡くなり、「お別れの会」が開催されたとき、大江健三郎があいさつした。
2008年にシベールアリーナ&遅筆堂文庫が開業したとき、記念講演をするはずだったのだが、日を間違えてしまい、井上ひさしが代役をつとめてくれた、井上さんのスマートな計らいで救われたが、失敗してから10日は自宅の書庫に隠れていた-と語った。
山形には出身者・井上ひさしを中心に、司馬遼太郎や大江健三郎というすべて僕が敬愛する作家たちが交差していて、しみじみする。
井上ひさしは1971年に『道元の冒険』という戯曲を書いているが、道元に心酔する須田剋太が読んだかどうか。

* 山形市は盆地にあり、東側には蔵王がある。
蔵王山系が山形市街に向かって低くなっていく途中の高台に芸術系の大学がある。


■ 東北芸術工科大学
山形市上桜田3-4-5 tel. 023-627-2044

この大学内のギャラリーで、かつて僕の友人のアーティスト、古郡弘さんの個展があって来たことがある。
今回は土曜日にあたってしまい、大学は休業日なのだが、図書館は開館しているので寄ってみた。
個人ではなかなか買いにくい・持ちにくい大型の美術書が大量にある。しかも大学の図書館はふつう気軽に入りにくいのだが、ここは学外者も入りやすいところで、こんな図書館が近くにあったらいいと惜しいような羨ましいような気がする。
須田剋太が『街道をゆく』で山形に来たとき、国画会の仲間だった遠藤賢太郎氏に会っている。もしかして画集とか個展の図録とかが所蔵されていたら見たいとも思ったのだが、遠藤氏に関する資料はなかった。


山形盆地を両側から山地がはさんでいるが、大学はその東側の高台にある。
図書館を出て、大学の正面ロビーから外に出ると、眼下に山形市街が広がる。
その向こうに西側の山地がある。
狐越街道から降りてきたとき、西から山形市街を見おろしたのだが、今は反対の東から眺めていることになる。
丘につくられた大学のキャンパスは広々とした起伏のなかにあって、歩いているとおおらかな心持ちになってくる。
東北芸術工科大学

● 麺房(めんぼう)
山形市東青田1-8-1

司馬遼太郎、須田剋太は山形市内で遠藤賢太郎氏らと会った。
 山形県は、そばがうまいと聞いていたから、いっそ須田さんのお仲間たちと一緒にそばを食べにゆこうと思い、よさそうな店をきいてみた。
 ホテルの前でタクシーに乗り、そのそばの店の名前を言っただけで、通じた。よほど名のある店らしい。
このとき司馬一行が行ったのは麺房という店。
高台にある東北芸術工科大学から下の国道におりていく斜面は新興住宅地になっている。前にこの大学に来たとき、その住宅街の角ごとに、あみだくじ方式に曲がり降りて、国道沿いにある麺房に出た。
今度も行ってみようかと思ったのだが、インターネットで検索すると閉店のお知らせにいきあたった。

麺房 「麺房は、6月24日(日)をもって閉店いたします。
またいつの日かお会いできますこと楽しみにしております。
39年の間、お引き立ていただきまして、大変ありがとうございました。」
とあり、その6月というのは2012年のこと。
僕が前に来たのは2010年だったから、それから長くなく閉じたことになる。
今はすっかり建て替わって、ファミリーマートになっている。

* 山形市街の東に、千歳山という山形のシンボルのような山がある。
その南の猿岡山とのあいだを細い川が流れていて、そのあたりを平清水という。
東北芸術工科大学からは2キロほど、細い道に入りこんで車では10分ほどで平清水に着く。


● La Jomon (らじょうもん)
山形市平清水210 tel.023-666-8977

繰り返しになるが、須田剋太が『街道をゆく』で山形に来たとき、国画会の仲間だった遠藤賢太郎氏に会っている。そのとき漆工芸の佐藤正巳氏と草木染の大場キミ氏も一緒で、その方たちのアトリエがある平清水に寄り道している。
この旅に出る前、今アトリエなどがどんなふうか、伺えば作品を拝見できるかどうか、調べているうち、平清水にあるLa Jomonという酒屋さんのブログにいきあたった。(店名は縄文と羅城門をかけている。)
純米酒こそが酒という信念をもつ硬派の酒屋さんで、佐藤氏や大場氏の作品を敬愛し親しんでおられるらしい。
お話しもきけそうだし、いい酒も買えそうだし、絶好の手がかりが見つかったと寄ることにした。

日本酒を扱い、それも純米酒にこだわるということで、なんとなし和のイメージを思い描いていたのだが、店主の熊谷太郎さんは、長髪に、ラフでおしゃれな服を着こなして、ジャズ喫茶のカウンターの奥でレコードをかけていても似合いそうな雰囲気。
ちょっと意外な気がした。
新しくした店名を記した柱が立っていてフランス語みたい。

熊谷さんにうかがうと、大場キミさんは亡くなり、大場さんがつかっておられたアトリエは別のひとのものになっているという。
佐藤正巳さんも亡くなったが、向かいの平泉寺に作品があることと、生家のそば屋さん(「吉里吉里」という)がおいしいから、どちらも寄ってみるようにすすめられた。
La Jomon (らじょうもん)

平清水の谷筋への入りくちに「陶芸の里 平清水」の看板があったが、今は窯はすっかり減って2つだけという。
細い谷に沿った風景も家が増え、ずいぶん変わっているという。
須田剋太がこのあたりを描いて「山形市芸術村にて」と文字を書きこんだが、景色も、芸術村という雰囲気も、40年ほどの年月を経て変わったようだ。
須田剋太「山形市芸術村にて」
須田剋太『山形市芸術村にて』

酒店の向かい側にある平泉寺に行く。
背後に千歳山がひかえている。
司馬遼太郎はそば屋に向かう途中で千歳山が目に入ってきて、こう書いている。
そのなだらかな形状といい、林相といい、典型的な神名備山のすがたといっていい。山形市のひとびとはいまでも地域意識の象徴のようにしてこの山を愛しているらしい。
ふだんは千歳山を仰いで暮らし、季節には最上川で芋煮をして、山形はめぐまれた土地だと思う。
平泉寺の本堂で声をかけても返事がなく、同行されたLa Jomonの熊谷さんが携帯で電話されてもでなくて、あいにく留守だった。
庭に大きな枝垂れ桜があって、花のころにはみごとだろう。

La Jomonは最近、店を新しくし、店名も変えたのだが、、もとは六根浄といった。
その店名をブランドにした純米酒があってみやげに買った。
これは帰ってからのお楽しみ。

* 山形市の中心部に入り、駅前にある今夜の宿にチェックインした。
週末の2日間がちょうどさくらんぼ祭りにあたっているので、祭り見物のつもりで散歩にでた。
ところがイベントは昼間だけで、僕らが夕方着いたころにはもう片付けをしているところだった。
駅の近くに戻って居酒屋で今日をしめくくる。


● リッチモンドホテル山形駅前
山形市双葉町1丁目3番11号 tel.023-647-6277

リッチモンドホテル山形駅前
泊まったホテルは山形駅西口広場に面している。
窓から正面に山形駅をみおろす。
左のほうに2001年に開業した霞城(かじょう)セントラルという大きな官民複合型高層ビルがある。今どきの建築にしては珍しく、厚ぼったい、古典的な重々しさ。

駅前広場では今も工事中のところがある。七日町などの中心部は駅の東側にあり、西側は新興地域になるようだ。
翌朝の朝食は、玉こんにゃく、芋煮、冷やしラーメンと、山形名物があれこれ並んでいて楽しんだ。

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第3日 山形市と、寒河江市・天童市に寄り道 [立石寺 寒河江市役所 山形市郷土館 恵埜画廊 明善寺]

* 今日は車でまず山形市街を北に出る。立石寺と寒河江市を回って山形市内に戻り、レンタカーを返して山形市の中心部を歩くつもり。
まず立石寺に近づくと、駐車場がいくつかあって、料金が300円から500円まで幅がある。
24時間300円のところにおいた。機械式の料金所で300円入れると、24時間後の時刻が印字された駐車票がでてきた。観光地の駐車場では1日いくらとか、1回いくらとかいうのが一般的で、正確に24時間後まで(したがって翌日までまたがって)有効というのには初めて出会った。


■ 立石寺(りっしゃくじ)
山形市山寺4456-1 tel.023-695-2002


細く立ち上がる岩山に階段を刻み、いくつものお堂を配した独特の景観に加えて、芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句でよく知られたところ。
須田剋太『立石寺』
須田剋太『立石寺』

駐車場に車をおいて、食堂や土産物屋が並ぶ道を歩いていくと、いよいよ寺に上がる正面の階段前にでる。
ここの眺めが須田剋太『立石寺』らしく見える。
左に案内板があり、記念撮影屋さんが椅子と看板を置いて、商売の場にしている。
石垣の手前に案内板や案内柱などがあるが、古来からあるものではないから、須田剋太が描いたよりあとに作られたかもしれない。
立石寺

わずかに階段を上がった先で拝観料を払って、さらに上がっていく。
迫りたった岩の上に小さな納経堂があり、すぐ下の開山堂からは、山寺駅などを見おろして、眺めがいい。
降りてきてベンチでひと休みしたら、左に石垣があって、右に階段があり、ここも須田剋太の絵に似ている。
こちらのほうが絵に近いようでもあるが、司馬一行はここまで上がったかどうか。
立石寺

 全山の案内図が、看板のように立てられている。それを見ると、頂上の奥の院までは相当のぼらざるを得ないらしい。
 米沢への時間の関係上、ここで時間を食うわけにゆかず、麓だけにとどめようとおもった。
「麓」というのがどこまでかわからないが、時間のこともあり、司馬遼太郎は坂を上がることがひどく苦手でもあったから、階段を長くは上がらなかったように思える。

* 北西に走って寒河江市に向かう。

■ 寒河江市役所
山形県寒河江市中央1丁目9-45 tel.0237-86-2111

寒河江市の市庁舎は、黒川紀章設計の建築に、岡本太郎の照明具がつり下がっているという。日曜日なのだが、午前中だけは住民票など各種証明書の発行業務だけあって開庁しているので見に寄った。
寒河江市は、1954年に、寒河江町、西根村、柴橋村、高松村、醍醐村が合併して誕生し、市庁舎はそれから10年ほど経って1967年にできた。
1階に市議会、2階に住民票などを発行する窓口がある市民生活課、3階に税務課、建設管理課、さくらんぼ観光課など、4階に市長室、財政課、教育委員会など。

寒河江市役所 黒川紀章

1階が土台になり、2階が小さく、3、4階が大きくはりだしている。
スロープを上がって2階に入ると、中央が吹き抜けていて、岡本太郎の照明具が吊り下がっている。
寒河江市役所 岡本太郎

* 昼どきになっていて、平清水の酒店できいた吉里吉里というそば店を思い出した。
西へ10キロ、20分ほどで着きそうなので行ってみることにした。


● 吉里吉里
山形県天童市高擶北137−4 tel.023-655-5670

吉里吉里
司馬遼太郎一行が山形で会った漆工芸の佐藤正巳さんの生家のそば屋さん。
僕らはきのうそんないわくをきいて来てみたのだが、そば通に人気のそば屋さんなのだった。かろうじて駐車場に車を置いて中に入ると、混んでいる。
田舎の大きな家を改装していて、かなり広い土間に置かれた椅子に座って待ち、順番がくると座敷にあがる。

妻はざいごそばとざるそばの相盛り。
「ざいご」は「在郷(ざいごう)」の山形言葉だから 「田舎そば」というような感じだろう。
僕は十割太打ち田舎そばを、並、中、大とあるうちの並を注文。
そばだから軽いと考えて、あと野菜の天ぷら盛り合わせと生搾り寄豆腐も。
ところが、妻の相盛りは穏やかだが、僕の田舎そばは驚異的な量がある。
芥川龍之介の芋粥状態になって(いくら好きなもの、おいしいものでも、あまり量があっては......)ようやく食べ終えた。

* 山形市街に戻り、JR線より西、霞城公園に行った。

■ 山形市郷土館
山形市霞城町1-1 tel. 023-644-0253

もとは済生館という1878年竣工の病院。
旧県庁の近く、市の繁華な中心部にあったが、1966年に国の重要文化財に指定されたのをきっかけに、1969年に山形城の跡地の霞城公園に移築復元された。
今は山形市郷土館として資料が展示されている。
擬洋風建築は全国にあるが、主屋を八角形にしたり、その背後をドーナツ形の回廊にしたり、特異さが際立っている。

山形市郷土館 須田剋太『山形市内に残る明治西洋館』
須田剋太『山形市内に残る明治西洋館』

* 駅の東側に走り、レンタカーを返した。営業所は夕べ食事をした居酒屋の隣で、夕べまったく気がつかなったのがおかしい。
また七日町の中心街に歩いて行く。


■ さくらんぼ祭り/山形市のこと

日曜日、さくらんぼ祭りの2日目で、きのうは夕方来たので終わったあとだったが、今日は間に合った。
七日町の通りを車を交通止めにしていろんなイベントが開かれている。
流しそうめんのスタイルで流しさくらんぼがあるが、整理券を受け取るのに長い行列になっていて、受け取れても数回先になるので諦める。
さくらんぼの季節に山形に来たが、祭りの会場でも手ごろに口にできるところがなくて、結局きのうどこかの道の駅だったかで試食した1粒だけだった。

文祥館 水の町屋 七日町御殿堰
文祥館 水の町屋 七日町御殿堰

七日町通りのつきあたりには旧県庁舎及び県会議事堂(今は文祥館という資料展示館になっている。)
途中の交差点の角には、当時のモダニズム建築のリーダー山口文象による梅月堂(1936年築。今は営業していないようだ。)
東にある蔵王山系からの水を生活に導くためにつくられた山形五堰という水路が市街を流れている。そのうちの1つ御殿堰に「水の町屋 七日町御殿堰」という長屋スタイルの商業施設がつくられている。
『街道をゆく』で訪れたとき、司馬一行が泊まったと思われる山形グランドホテル。
祭り見物をしながらそんな山形名所をめぐっていると、山形市が歴史を強く意識した意識的なまちづくりをしていることが感じられる。
城のある都市では、城が中心になりがちだが、旧県庁あたりの市街地からは鉄道で東西に分断されたためか、むしろ城より近代とか土木とかに関心が向いているようにみえるのがおもしろい。
きのう行った東北芸術工科大学も、学校法人東北芸術工科大学が運営する私立大学だが、山形県と山形市が各100億円ずつを支出して設置した珍しい公設民営方式の大学で、県市のまちづくりの意志があらわれている。

今回は行かなかったけれど、国立の山形大学の博物館がおもしろい。
明治期、山形県の初代県令(県知事)三島通庸は、道を新しくつくり、県庁や病院(済生館)などの公共施設の建築を精力的に行い、山形の都市づくりを推進した。
その様子を記録するために洋画家・高橋由一に依頼して工事箇所を石版画にした。
『三島県令道路改修記念画帖』にまとまり、山形大学の博物館が所蔵している。
展示施設は古いのだが、今どきの新設のミュージアムがITを駆使してわかりやすくしている一方で、ツルツルして、展示物そのものの存在感が薄れているのに比べて、モノがごろっとそこにある感じで、見応えがあった。
(博物館が図書館と一体になっているのもおもしろい。)

海に面した県では、県庁所在地は海よりに(とくに川の河口に)あることが多いが、山形市は内陸深くにある。
宮城県仙台市ととなりあっていて、生活圏は県内の海岸にある都市より、仙台市と近しいらしい。(全国で県庁所在地が隣接しているのは、ほかには福岡市と佐賀市、大津市と京都市だけ)。
山形から仙台へは、電車では最短1時間10分、車では高速道路をつかえば60kmほどで約1時間。
県内の最上川河口の酒田市へは、電車では本数も少なく乗り換えが不便で、乗換がうまくいっても2時間以上、車では高速道路をつかっても120km、2時間ほどかかる。
米沢に司馬遼太郎を迎えた井上ひさしが、蔵王を案内してから仙台に向かったという文章を読んだとき、僕はなんだかピンとこなかったが、交通事情を知ってみれば、移動感覚としては遠いものではなかったのだろう。

* 七日町の主通りに直交する一番街という商店街にはいる。

■ 恵埜画廊 (よしのがろう)
山形市七日町2-1-38(七日町一番街通) tel.023-623-3140
http://www.yoshino-garo.jp/

司馬遼太郎と須田剋太が山形で3人のアーティストに会っているが、その作品を見てみたいと思っていた。
どこかで見ることができるか、旅に出る前にインターネットで検索したとき、佐藤正巳氏の作品をこの画廊で扱っていられることがわかった。
恵埜画廊(よしのがろう)

画廊主の岩田和恵さんにそんな事情を話すと、奥から2点とりだしてこられて見せていただいた。
佐藤正巳氏の漆絵というのは、漆にさまざまな色の顔料を加えて描くもので、通常の漆工芸品としての漆では考えられないような多彩な絵を描くことができる。
見せていただいた花の絵にも明るい色がつかわれ、それでいて深いつやと重厚感がある。
この魅力にひかれて描いてみたいとか、描かれたものを欲しいとか思う気持ちがわかる気がする。
岩田さんは『街道をゆく』で須田剋太が山形に来たのがきっかけで須田剋太を知り、都内での個展などに何度か行き、会われたことがあるとのこと、思いがけない方に出会えた。

● 珈琲ひまわり
山形市七日町2-1-38(七日町一番街通) tel.023-641-2566


画廊のすぐ先にレトロな喫茶店があってはいる。
穏やかなマスターに、しゃきしゃきっとした奥様がお似合い。
壁に谷村新司がかいた色紙がかかっている。
先月、越中五箇山に行って赤尾館という宿に泊まったら、そこに谷村新司の色紙があった。
妻はアリスが大ブレイクする前からの熱いファンなので、また出会えて喜んでいた。
珈琲ひまわり

* 一番街通を七日町とは逆方向に歩いて抜けて、やや広い道を横切った先のお寺にはいる。

■ 明善寺
山形市七日町5-9-3 tel. 023-622-3537

本堂は米沢市出身の建築家、伊東忠太の設計により1934年に建ち、登録有形文化財になっている。
左右にツインタワーがある。
今度の旅は、はじめに米沢市に行き、伊東忠太の上杉神社が最初の訪問地だった。
山形市に来て伊東忠太でしめくくることになった。

明善寺

* 七日町からバスに乗って山形駅に戻る。
「牛肉どまん中」という駅弁を買う。
「どまん中」というのは、ただインパクトのあるネーミングとして考えられたものかと思っていたら、山形県産の「どまんなか」という米のことだと、1泊目に泊まった時の宿すみれで教えられていた。
あと赤いさくらんぼのマークがついた酒を買い、山形新幹線のなかで夕飯にした。

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参考:

  • 『街道をゆく 10』「羽州街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1978
    『街道をゆく 26』「仙台・石巻」 司馬遼太郎/文 須田剋太/画 朝日新聞社 1985
  • 『伊東忠太を知っていますか』 鈴木博之 王国社 2003
    『伊東忠太動物園』 藤森照信・増田彰久 筑摩書房 1995
    『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』 ジラルデッリ青木美由紀 ウェッジ 2015
  • 『ここが地球の中心 井上ひさしと遅筆堂文庫』 特定非営利活動法人遅筆堂文庫プロジェクト/編 山形県川西町/刊 2015
    『国家・宗教・日本人』 司馬遼太郎・井上ひさし 講談社文庫 1999/6
    『道元の冒険』 井上ひさし 新潮社 1971
  • 『美の系譜 国画会にみる山形ゆかりの美術』 米沢市上杉博物館/編集・発行 2012
  • 『草木染野帖』 大場キミ 求竜堂 1983
    『草木染野帖 続』 大場キミ 求竜堂 1985
    『草の輝き』 佐伯一麦 集英社 2004
  • 『高橋由一 風景への挑戦』 高山博彦・小勝禮子編 栃木県立美術館 1987
  • 2泊3日の行程(2017.6/16-18) (-レンタカー =バス …徒歩)
    第1日 米沢駅-上杉神社…米沢市上杉博物館…きよえ食堂…くるみのき…上杉記念館・上杉伯爵邸-上杉家廟所-西米沢駅-林泉寺-吉亭-直江石堤-湯の沢温泉時の宿すみれ
    第2日 -川西町フレンドリープラザ遅筆堂文庫-最上川橋梁-荒砥駅-狐越街道-春雨庵-シベールアリーナ&遅筆堂文庫-東北芸術工科大学-La Jomon -リッチモンドホテル山形駅前…居酒屋しあわせや
    第3日 -立石寺-寒河江市役所-最上川ふるさと総合公園-吉里吉里-山形市郷土館-山形駅=文祥館…水の町屋七日町御殿堰…恵埜画廊…珈琲ひまわり…明善寺=山形駅