「赤坂散歩」-都電が走っていたころ


『街道をゆく』「33赤坂散歩」で須田剋太が描いた地をたどってみた。
僕はこの「赤坂散歩」の区域からわずかに外れた四谷にある大学に通っていた。住んでいたのはずっと西の吉祥寺だったので、新宿とか中央線沿線が生活圏、関心圏で、距離的には近いのに赤坂にはなじみがうすかった。
大学の友人で赤坂で生まれ育った人がいて、「都電で通学していた」とかいう話を聞くことがあった。
都心に住むということが、僕にはスンナリ理解しにくいことで、その人のいうことが遠いクニのおとぎ話のような気がしていた。
赤坂をめぐるのに、この友人がいれば、『街道をゆく』の「赤坂散歩」も、かつてきいていたおとぎ話も、より実感的にわかるのではないか、2つあわせてちょうどいい機会と思って同行をおねがいした。

第1日  虎ノ門から赤坂 [ホテルオークラ東京 大倉集古館 霊南坂教会 サントリーホール 旧氷川小学校 氷川神社 TBS・赤坂サカス 赤坂三筋通り 旧赤坂小学校 豊川稲荷 草月会館 高橋是清翁記念公園 カナダ大使館 赤坂小学校 旧乃木邸 東京さぬき倶楽部(泊)]  
第2日 溜池から外堀通り、四ッ谷駅 [泉ガーデン 溜池交差点 日枝神社 山王グランドビル 弁慶橋 赤坂プリンスホテル 清水谷公園 紀尾井坂] 


第1日  虎ノ門から赤坂 [ホテルオークラ東京 大倉集古館 霊南坂教会 サントリーホール 旧氷川小学校 氷川神社 TBS・赤坂サカス 赤坂三筋通り 旧赤坂小学校 豊川稲荷 草月会館 高橋是清翁記念公園 カナダ大使館 赤坂小学校 旧乃木邸 東京さぬき倶楽部(泊)]

(この区域内にあるサントリーホールで、須田剋太に縁がある木琴奏者、通崎睦美さんのコンサートがあった。友人と歩いたのは別の日だが、コンサートの日を含めて1泊2日のように、できるだけ一筆書きに近く整理してある。)

文科省 * 地下鉄銀座線の虎ノ門駅から歩き始める。
かつて仕事のことで何度かきたことがある文部科学省は新しい建物にかわっている。
文部省だったころに来たときは、なにかしら交渉事があってだったから、あまり楽しい記憶ではない。
発明会館、虎ノ門ツインビルを通って、ホテルオークラ東京に入る。

● ホテルオークラ東京
港区虎ノ門2-10-4 tel. 03-3582-0111

司馬遼太郎は東京に来ると、ここを常宿にしていたという。
『街道をゆく』でも、ここを拠点にして、東へ歩いたり、西へ歩いたりしたようだ。
その思い入れに敬意を表するつもりで、僕もここを出発点にするために、ここで赤坂生まれの友人と待ち合わせた。

エントランスホールから数段低い、底のようなところにロビーがある。
障子を透してくる光が和風の意匠とあわせて、唯一無二の空間をつくっている。
静かで安らげる。
ひっそりと気持ちを落ち着かせられる。
ホテルオークラ東京

このロビーに比べたら、ほかのホテルのロビーはみな似たように感じられてしまうほどに個性的な際立った印象がある。
現ホテルを解体してオリンピックまでに新館を建てる計画になっているが、こんなところを壊すなど忍びがたい気がする。

このホテルで毎年開催されている「秘蔵の名品アートコレクション展」を何度か見にきたことがある。企業の幹部室や来賓室に掛けられていて、ふつう部外者は見ることができない名画を公開する展覧会で、おお、こういうものがこういうところに!としばしば感嘆したことがある。

この日は、いつもその展覧会が開催される部屋で「ホテルオークラ東京 第15回大使、大使夫人による10ケ国のガーデンニング」が開催されていた。
これも企業の秘蔵アートと同様に、特殊な趣のある展示で、いかにもホテルオークラ東京という感じがする。
ふだんは宴会場かと思われる部屋が、お国ぶりを伺わせるみごとな庭になっている。

防水の養生をしてあるとはいえ、絨毯敷きの間に生きた草木花をしつらえている。とうぜん水も絶やさないように与えるのだろう。ムシがわいたり、水が漏れたりしないだろうかと心配になるほどだが、この大胆さもさすがというべきか。 ホテルオークラ東京 大使夫人による10ケ国のガーデンニング

■ 霊南坂
(赤坂1丁目10番、虎ノ門2丁目10番の間)

ホテルオークラ東京は変形の建物で-それで営業的には効率が悪いのが建て替えの理由の1つでもあるか-優雅なロビーから正面玄関を出ると、霊南坂の途中になる。

須田剋太『霊南坂下』 霊南坂下
須田剋太『霊南坂下』

須田剋太が坂を下った位置から坂を見あげて描いている。右にアメリカ大使館の塀、左にホテルオークラの塀がある。
今、同じ位置に行くと、アメリカ大使館のまわりだから警備の警察官が幾人もいる。須田剋太の絵でも、右下にあるのは警備の車両のようだ。
こんなところでカメラを構えて面倒なことのにならないように、須田剋太『霊南坂下』の絵を見せ、絵の場所をたどっていると説明し、写真を撮りたいと話すと、アメリカ大使館の建物をはずして撮るようにと了解される。
絵と風景を見比べると、ホテルオークラの塀が今は葉に覆われている。
今、左右を結んでいる横断歩道の白線が、絵にはない。
実際になかったのか、絵では省略したのか。
この横断歩道は、アメリカ大使館に近づけないように障害物が置かれて、いつも横断禁止になっている。

僕が初めてアメリカに行ったころは、短い観光でもビザが必要で、大使館に申請にきたことがある。
その後、短期の観光にビザは不要になったので、ここに入ったのは1度きりだった。

霊南坂を上がる。

■ 大倉集古館
港区虎ノ門2-10-3

初代の建築が関東大震災で壊れたあと、伊東忠太の設計により1928年に建った。
古い時代の中国のような、中を歩いていて独特な感覚を催させるような空間だった。
『街道をゆく』の旅のとき、司馬遼太郎は赤坂見附会の桒村(くわむら)栄氏に話をきいているが、桒村氏が、こどものころ大倉集古館にいくと怖かったことが今でも忘れられないと言う。
同行してくれている赤坂育ちの友人も、やはり怖かった思いがあるという。
僕が行ったのはおとなになってからだったが、異風な内部で、照明が暗く、象の背中に蓮の台座があり、その上で合掌する仏像があったりして、たしかにこどもには不気味そう。

大倉集古館 ホテルオークラの解体・新築にあわせて、こちらも刷新の予定とのことで、去年(2014年)から休館している。
外から眺めるだけで通りすぎる。

* ホテルオークラ別館の前まで行ってから、右に曲がると、サントリーホールの裏側に突き当たる。
右に行けばサントリーホールの正面に向かっていくが、左に行ったほうに屋外にいくつかテーブルが並んで気持ちよさそうな所があり、そちらにひかれていった。


● RANDY
港区六本木1-3-37 アークヒルズアネックス
tel. 03-3568-2888

外のテーブルでランチにした。
僕はカレーライスで、友人はマルシェサラダ。
前の道は、広い六本木通りから中に入ったところで、通過車両は少ない。
並木に5月の日が射して快適。

RANDY

* 先ほどの突き当たり角まで戻ってそのまま(サントリーホールの外周に沿うようにして)進むと、道はまた突き当たって左に曲がっていく。
右側に教会がある。



■ 霊南坂教会・幼稚園
港区赤坂1-14-3
tel. 03-3583-0403
霊南坂教会

1879年に設立された古い教会で、1917年に辰野金吾設計による会堂が建った。
1950年代に、同行の友人はその付属幼稚園に通った。
1980年11月19日には、三浦友和と山口百恵が結婚式を挙げた。
このとき取材のマスコミが殺到し、狭い通りは大混乱になった。
(同じ年の4月に「赤坂散歩」の区域のすぐ外にある大学の礼拝堂で僕と妻の結婚式があったが、もちろん混乱はなかった。)

友人が通ったのも、三浦友和と山口百恵が結婚式を挙げたのも、今ある教会ではない。
1985年に、アークヒルズの大再開発にともない、旧教会は解体され、道1本隔てた現在地に移転した。
もと教会があった位置には、今はサントリーホールがある。

* 教会の前の道はアーク・ヒルズにつきあたって右へ曲がり、ANAインターコンチネンタルホテルの裏手のほうに向かって行く。
僕らは道に沿わないで、まっすぐ進んでアークヒルズの庭に入る。


■ サントリーホール
港区赤坂1−13−1 tel. 03-3505-1001

大きな木が繁る庭がある。
半円形をした滝からゴウゴウと水が落ちている。
その先に広場があって、広場の一端にサントリーホールがある。
夜にはコンサートにもう一度戻ってくることになる。

* アークヒルズの階段を降りて、上を高速道路が走っている六本木通りにでる。
地下道をくぐって六本木通りを横切る。
細い通りを北西に歩く。
大きい区画を占める建造物が多い地域だが、このあたりにはふつうサイズの住家や商店が並んでいる。
変形十字路の角に3階建ての変形ビルがある。
かつて友人の母が宝飾店をしていたところだが、今は他の場所に移っている。
そこから少し坂を上がって道が二股に分かれる突き当たりに老人ホームがある。


■ 特別養護老人ホームサン・サン赤坂=もと氷川小学校
港区赤坂6-6-14 tel. 03-5561-7833


友人が「わたしが通った小学校はここだった」というところが、区立の老人ホームになっている。
敷地の角に大きな木が大量の葉を繁らせていて、それだけがかつてをしのばせるという。
特別養護老人ホームサン・サン赤坂

小学校が老人ホームに変わるというのは、いかにも少子高齢化を象徴する変化のようだが、このあたりでは活発な再開発で個人住宅が減っていくという特殊事情もある。

氷川小学校は1908年の設立。
1929年にここ勝海舟邸宅跡に移転した。
1992年に赤坂小学校と檜町小学校が檜町小に統合。
1993年に氷川小学校と檜町小学校が廃止され、檜町小跡に新・赤坂小学校が設置される。
つまり赤坂、檜町、氷川の3校が統合されて新・赤坂小学校になり、校舎はもと檜町小学校の位置にある。

友人に、かつてあった氷川小学校の校歌を教えられた。

 東に千代田の翠微を眺め
 西に芙蓉の麗姿を望む
 英傑海舟住みにしところ
 我等が学舎ぞ厳しく立てる

「千代田の翠微」は皇居、「芙蓉の麗姿」は富士山のこと。
漢字がたくさんあって、ずいぶん堅苦しい。
友人が小学生だったときには意味がわからないで歌っていたというが、たしかにそうだろうな。

* やや南に下ると、広大な敷地にアメリカ大使館員の宿舎がある。
Wが連続するギザギザの形の建築が3棟。
1983年に建って建築雑誌にも紹介された。
港区には諸外国の大使館が集中しているが、大使館員の宿舎がこれほど巨大なのはほかにはないだろう。
外からカメラを向けると、柵の向こうにいる警備韻が、腕を交叉して×を作って、撮影禁止だと合図する。
すぐそばに氷川神社がある。


■ 赤坂氷川神社
港区赤坂6-10-12 tel. 03-3583-1935

僕はここには来たことがない、まったく初めての場所。
今日歩きだす前にホテルオークラで地図を開いて、これから歩くコースをおよそ確認した。そのときの感じでは、氷川神社は住宅に囲まれていて、大きな境内には見えなかった。
ところが実際に着いてみると、大きな木々が濃い影をつくっていて、本殿はその先にあり、なかなか奥深い印象がある。
赤坂氷川神社

司馬遼太郎もここを気に入って、拝殿の「御簾(みす)と青畳が、朱漆によく似あって神寂(かみさ)びた色気さえ感じさせる」し、「境内も、閑寂でいい」と書いている。
須田剋太はここでは絵を描かなかったのか、『街道をゆく』の挿絵にここはない。
ここで結婚式をあげた男女が、本殿の前で記念撮影をしていた。
かつて友人の両親もここで結婚式を挙げ、友人も着物で七五三参りにきたという。

* TBSのほうに向かっていく。

■ TBS・赤坂サカス

TBS周辺の再開発で、『街道をゆく』の赤坂散歩の20年後、2008年に完成した。
赤坂BLITZというライブハウスや、赤坂ACTシアターという劇場がある。
赤坂サカスの店舗群をひとまわりして出る。
赤坂BLITZ

* 広い外堀通りに向かい、そこに出る手前の細い通りに左折する。

■ 赤坂三筋通り

須田剋太『赤坂(F)』
須田剋太『赤坂(F)』
須田剋太が『赤坂』と題して描いたなかに、にぎやかな通りの絵があり、この通りではないかと思えるが、特定しづらい。
とくに1つには角に屋外彫刻があり、これが見つかればと探したが見つからない。
また1つには古い木造の店が描かれている。それらしいところが今もあるだろうかと探したが、これも見つからなかった。
都心のど真ん中の赤坂で四半世紀も景色が変わらないということはありえないか。

* 細い三筋通りを北に抜けると青山通りにぶつかる。
青山通りと外堀通りがぶつかる赤坂見附の交差点の一画に、かつてサントリー美術館があった。
僕が最後に行ったのは2004年12月25日で、この地からのお別れの展覧会「ありがとう赤坂見附 サントリー美術館名品展 生活の中の美1975-2004」だった。

青山通りを青山方向へ向かう。


■ 旧赤坂小学校

赤坂小学校の歴史は、おおもとは1873年までさかのぼる。
前述のとおり、1993年に(旧)赤坂小学校、氷川小学校、檜町小学校が統合して、もと檜町小学校の位置に新・赤坂小学校が設置された。
青山通りに面してあった元の赤坂小学校は、1992年にいったん閉校している。

『街道をゆく』では、大岡越前守忠相の屋敷跡に赤坂小学校があると書かれている。
その取材の旅は1988年だったから、ここでいう赤坂小学校は、この青山通りに面した閉校前の旧赤坂小学校になる。

旧赤坂小学校 根の回復として用意された12の環境 僕は旧赤坂小学校に来たことがあって、1996年6月に開催されたアート・イベントのときだった。
「旧赤坂小学校 根の回復として用意された12の環境」というタイトルだった。

旧赤坂小学校から赤坂プリンスホテル 同じ日に撮った赤坂見附方向の写真。
中央に白く薄い段状の赤坂プリンスホテル。
その左のビルには「SUNTORY」の文字が見える。

その後2008年秋には、赤坂サカスを中心に、神社、料亭跡、旧赤坂小学校などを展覧会場にした「Akasaka Art Flower '08」が開催されたが、このときは行きそこねた。
1992年に閉校した旧赤坂小学校は、少なくとも2008年にはまだ(全部ではないかもしれないが)校舎が残っていたようだ。

今日、青山通りを歩くと、旧赤坂小学校の敷地が工事用のフェンスで囲われていた。歩道橋から見おろすと、校舎などはなく、おそらく新しいビルを建てるための整地作業が進行中だった。
1992年の閉校から20年以上建って、ようやく次世代の建築ができるようだ。
旧赤坂小学校

* 青山通りをさらに青山方向へ向かう。

■ 豊川稲荷東京別院
港区元赤坂1-4-7

僕はしばしばこのあたりを歩いたことがあるが、ここには初めて入った。
豊川稲荷がある青山通りの北側は、広い面積を赤坂御用地が占めていて、長い塀が続いている。
通りの南側には草月会館やカナダ大使館があって、たまには歩くことがあるが、北側の歩道を歩くということは、ついなかった。

『街道をゆく』によると、「赤坂の忠相の屋敷では、屋敷神として豊川稲荷をまつっていた」という。
そして屋敷が(旧)赤坂小学校の位置にあったという。
(旧)赤坂小学校と豊川稲荷が近くにある歴史的由来は、なるほどそういうことなのかと、この文章でわかった。

境内のはずれに小さな店がいくつか並んでいて、菓子やみやげのほかに、供え物がある。
稲荷だからキツネであり、キツネの供え物にアブラゲがある。
あと、卵2個が皿にのっていて100円というのがある。
珍しいので卵を求めると、カチカチと火打ち石を打ってくれる。
卵は蛇に供えるもので、キツネに供えてはいけないといわれ、蛇のいる場所を教えてもらって供えた。

ここで須田剋太が描いた絵の場所は、奥まっていて見つけにくかった。

須田剋太『豊川稲荷』 豊川稲荷
須田剋太『豊川稲荷』 中央を進んでいって、木の扉から中をのぞきこむと、左の絵のとおりに並んでいる。

■ 草月会館
港区赤坂7-2-21

建築は丹下健三が設計して1977年に竣工した。
中に入ると、イサム・ノグチによる石庭が、広く高いロビーの高みに階段状にせりあがっている。
1988年に司馬遼太郎が通ったときは改装工事中だったとある。
草月会館

■ 高橋是清翁記念公園
港区赤坂7-3-39

このあたりの青山通り南側はビルが並んでいるが、この一画だけ木々が密にあって、広い通りからそれて公園内に1歩ふみこむと息が抜ける思いがする。
間口が狭く、奥が長い公園で、たくさんの樹木が濃い影をつくっている。
その奥のほう、数段高くしたステージのようなところに高橋是清(1854-1936)の像がある。
軍部が戦争に向けた圧力を高めているときに、高齢にもかかわらず憲法と財政規律を守るために覚悟して大蔵大臣につき、二・二六事件の日、ここにあった自宅で反乱軍の青年将校らに暗殺された。
2015年春には、多数におごる政権党が同じような動きをしていて、高橋是清のような人がいてくれたらと思う。
 是清は肉体的偉容を感じさせる人でないからこそ魅力的なのだが、それだけに、ほとんどの日本人と同様、銅像にはむかない。思いもよらず銅像にされて、気の毒のようなものである。(『街道をゆく 33』「赤坂散歩」 司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)
そう司馬遼太郎は書いている。
僕はむしろ小さな丸っこい体と穏やかな目にこめられた屈しない力を感じて、いい像だと思う。
公園の入口のほうを見透かすふうに見つめている。

須田剋太『高橋是清公園』(B) 高橋是清翁記念公園
須田剋太『高橋是清公園(B)』

■ カナダ大使館
港区赤坂7-3−38

大使館のなかに高円宮記念ギャラリーがあり、魅力的な展示がしばしばあって、これまでも何度か来た。
この日は「ユーサフ・カーシュ : Portraits」の写真展を開催中で、寄ってみることにした。
警備員のいるゲートを入ると、エスカレーターがあって、となりの高橋是清翁記念公園の緑深い木々を眺めながら上がっていく。

カナダ大使館 エスカレーターで上がりきると空中庭園がある。

ギャラリーでは、モハメド・アリ、ウィンストン・チャーチル、アルベルト・アインシュタイン、アーネスト・ヘミングウェイ、ヘレン・ケラー、ジョージア・オキーフなど、15人のオリジナルプリントの大きな肖像写真が並んでいる。
その人たちとじかに向き合っているような存在感がある。

* 外苑東通りとの交差点を過ぎると、青山2丁目の信号があり、右に行けばイチョウ並木になる。
秋になると黄色く色づいて冬の前のにぎわいになる。


● ロイヤルガーデンカフェ青山
港区北青山2-1-19

角にあるカフェが屋外にも椅子とテーブルを並べている。
ちょうど外の席があいていて、生ビールとピザをとる。
ここまで友人とかなり長い道のりを歩いてきて、新しい発見があり、思い出して懐かしいこともあった。
足が疲れて、頭の中は見たこと、聞いたことで、かなり密になっている。
冷たいビールを飲むと、ようやくほぐれてとろける。
5月の晴れた日の外テーブルは快い。

* 赤坂散歩につきあってもらった友人とはここでわかれた。
僕はカナダ大使館まで戻り、わきの細い道を南に下る。
地下を千代田線が走る道にでて、角に赤坂小学校がある。


■ 赤坂小学校
港区赤坂8-13-29 tel. 03-3404-8602

赤坂小学校 いくども小学校のことになるが、(旧)赤坂小学校、氷川小学校、檜町小学校が統合してできた今ここにある赤坂小学校は、もと檜町小学校の位置に設置された。

校歌も、大木惇夫作詞、山田耕作作曲の檜町小学校校歌が新赤坂小学校校歌に引き継がれている。
氷川小学校の校歌に比べると平仮名が多くて目にはやさしいが、小学生にはまだ言葉の意味が難しいかもしれない。

1 青空のやすらいよ
  しんじつをいとしみて
  み光を祈り待つもの
  われらわれら
  正やかの人となろうよ
  平和の鳩の舞うところ
  愛をもて集まろうよ
2 花ひらく朝あけよ
  行いに言うことに
  みずからの責めを負うもの
  われらわれら
  美しい民となろうよ
  自由の鐘の鳴るところ
  自主をもてふるまおうよ

以下、4番まである。
大木惇夫は戦争中、戦争を賛美する詩を書き、戦後に批判されたが、1948年に作ったこの詩には戦後の明るい開放感がみちている。

* 赤坂小学校の前の道を西に向かう。
上り坂になるのは乃木坂で、外苑東通りにぶつかる手前に乃木神社があり、交差点の角に旧乃木邸がある。


須田剋太『乃木坂』
須田剋太『乃木坂』
乃木坂

乃木坂を見おろす。
左のこんもり繁る葉のなかに乃木神社の鳥居があり、先方左手に赤坂小学校。

■ 旧乃木邸
港区赤坂8-11-32

乃木希典は、日露戦争で旅順攻囲戦を指揮し、明治天皇を慕ってその死後に自決した人。
旧邸の様子は変わっていない。

須田剋太『旧乃木邸』 旧乃木邸
須田剋太『旧乃木邸』

* 地下道をくぐって外苑東通りの西側に出る。

■ TOTOギャラリー間
港区南青山1-24-3 TOTO乃木坂ビル tel. 03-3402-1010

陶器具メーカーのビルの3階に、建築専門のギャラリーがある。
ここには幾度もきているが、地下鉄千代田線の乃木坂駅で降りて、いちばん近い出口から向かうか、六本木、ミッドタウンのほうから歩いてくるかする。
今日のように赤坂とか青山のほうから歩いてきた覚えはなくて、こういう地理関係になるのかと新鮮に感じる。

藤本荘介展「未来の未来」展を開催中だった。
建築についての思いがいくつもの小さな造形に表現されている。

TOTOギャラリー間 展示は屋上庭園までつづく。
向こうの道は外苑東通り。

* 外苑東通りを六本木に向かう。
サントリー美術館などがある東京ミッドタウンの前を過ぎる。
さすがにもう寄り道している余裕はない。

アークヒルズから旧氷川小学校に向かうときに横切った六本木通りに、ふたたびぶつかる。
角に喫茶店アマンド。
今度は地下道ではなく信号を渡る。
外苑東通りではなく、右にややそれていく芋洗坂を下る。
六本木ヒルズの東端にでて、そのまま広い通りを歩くと、麻布十番駅がある。

その近くに今夜予約してあるホテルがあり、チェックインしてひと休みしてから夜のコンサートに向かう。
サントリーホールまでは地下鉄に乗ればひと駅。
今日大量に歩いた勢いで、また歩いてしまう。
行合坂を上がり、泉ガーデンを抜ける。


● サントリーホール ブルーローズ『通崎睦美リサイタル 木琴デイズ』
港区赤坂1−13−1 tel. 03-3505-1001

サントリーホール

通崎睦美さんは、マリンバ・木琴奏者だが、子供のころ、須田剋太に10年ほどにもわたって毎年正月に肖像画を描かれたことがあり、そんな縁から僕も通崎さんのコンサートにでかけるようになった。
戦前から戦後にかけてアメリカと日本で大活躍した木琴奏者の平岡養一(1907-1981)が愛用した木琴が通崎さんに贈られ、通崎さんは平岡の評伝『木琴デイズ』を2013年に刊行した。
昨年その本が吉田秀和賞とサントリー学芸賞をダブルで受賞し、後者のことからサントリーホールでのコンサートが開催された。
平岡に人生を短く紹介する話をまじえながら、ゆかりの曲を演奏していく。
通崎さんのコンサートも何度目かになり、僕の耳にも木琴の音がなじんで、音の1つ1つのおいしさを味わってきいた。
鍵盤を打つ軽快な動きもビジュル的に楽しく、やはりライブには録音にない魅力がある。

10曲をこえる曲が演奏されたが、今夜僕がいちばんひかれたのは「タンゴ・エチュードよりNo.6」という曲だった。
この曲だけピアノの伴奏がない木琴ソロ。
ピアノの伴奏があると余白を埋めてしまって、絵画でいえば全面を色でみたすオールオーバーに近い。
木琴ソロは、音の背後に余白があり、空間があり、その空間に誘いこまれる感じがあった。

● 東京さぬき倶楽部
港区三田1-11-9 tel. 03-3455-5551

夜遅くなっても家に帰れるから都内で泊まることはほとんどないのだが、2日続けてかなり歩きそうだし、大江宏1972年の名建築に安く泊まれるし、赤坂の区域にも近いので、このホテルに泊まった。
典雅な趣のあるデザインに、ジョージ・ナカシマがデザインした家具が配されている。
ジョージ・ナカシマは、アントニン・レーモンドの建築事務所にもいたことがある人だが、のち家具づくりにうつった。
アメリカで活躍したが、国内では高松を拠点にしたので、さぬき倶楽部にふさわしい。

2日目の朝。
讃岐のホテルなので、朝食には和食・洋食のほかにうどん定食がある。
前に泊まったとき、ここではやはりこれかなとうどん定食にしたが、さぬき人ではないから、朝からうどんにはなじめなかった。
今朝は洋食にして、正解だった。

東京さぬき倶楽部

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第2日 溜池から外堀通り、四ッ谷駅 [泉ガーデン 溜池交差点 日枝神社 山王グランドビル 弁慶橋 赤坂プリンスホテル 清水谷公園 紀尾井坂]

* 『街道をゆく』の取材で司馬遼太郎一行がホテルオークラを基点にしたのにならって、今日もいったんホテルオークラに向かう。
夕べと同じに首都高速道路の下の道を北にいく。


■ 偏奇館跡

偏奇館跡
泉ガーデンを東へ抜ける。
道の端、高層の泉ガーデンタワーを背にして、偏奇館跡を示す案内標識がある。
永井荷風がここに洋館を建てて暮らしていた。
洋館には、外装の「ペンキ」と、「偏倚」な自分の性格をかけて「偏奇館」と名づけていた。

1945年3月10日朝の東京大空襲で偏奇館は焼け、多数の書物を失った。
「火焔の更に一段烈しく空に舞上るを見たるのみ。これ偏奇館楼上万巻の図書、一時に燃上りしがためと知られたり。」
という絶唱のような文章を荷風は残している。

今、このあたりはそれぞれに広い敷地を占めて大きな建築が建ち並んでいて、作家の洋館なんて個人の住宅があったことは想像しにくい。
僕の赤坂生まれの友人は、大学卒業後、出版社で編集のしごとについた。
その人が泉ガーデンにオフィスがある会社の人と話しているとき、そこにはしばしば亡霊がでるときいたという。
残業していると、人の気配がしてふっと角に消えていったり、いないはずのところから声がきこえたりする。
かつてここに住んでいた人たちの思いが残っているのか。
もし亡霊がめがねをかけて、傘とかばんを持っていたら、万巻の図書を失ったことをうらむ荷風だろう。

* サントリーホール、(今の)霊南坂教会の前を通ってホテルオークラ東京に入る。

● ホテルオークラ東京
港区虎ノ門2-10-4 tel. 03-3582-0111

ロビーで腰かけて呼吸をととのえる。
遠からずこれが失われる思うと、胸がいたむ。

* アメリカ大使館側にホテルを出て、霊南坂を下る。
『街道をゆく』に、食事をしようとホテルから出て、「共同通信社の地下の店をのぞいてみたが、あいにく満員」だった-とある共同通信のビルがある。
隣には、司馬遼太郎が赤坂の地形を上から確認するために屋上に上がらせてもらった日本たばこ産業株式会社のビル。(現JTビル)
外堀通りにでて西に歩くと、すぐに溜池交差点がある。


■ 溜池交差点/都電のこと

赤坂生まれの友人が住んでいたのはこの交差点の近く。
広い外堀通りと六本木通りが交差している。
とても大きな交差点で、右の写真ではまだ交差点の半分くらいきり写っていない。
六本木通りの上には首都高速道路がかぶさっている。
溜池交差点

今はとても個人の住宅が存在しえるようには思えない。
赤坂に住むということの生活実感を想像してみるのに、地図を見ながら通学事情を想像してみると、友人はここから南西に600mほどの霊南坂教会幼稚園に通った。
小学校は西南西に600mほどの氷川小学校。

中学・高校は、千代田区一ツ橋にある女子校に通った。
溜池からは皇居を隔てた北側にあり、都電で通った。
「溜池」から6番の「汐留」行きに乗り、「新橋」の1つ手前「田村町1丁目」で降りる。
「田村町1丁目」から35番「巣鴨車庫前」行きに乗り、「一ツ橋」で降りる。

「田村町」というのは僕には聞き覚えのない地名だが、1965年に住居表示があらためられたときに西新橋にかわっていて、店名などには残っているようだ。
「田村町1丁目」から乗ると、
内幸町-日比谷公園-馬場先門-和田倉門-大手町-神田橋-錦町河岸
と停留所があって、「一ツ橋」に着く。
皇居の東側をぐるりと回っていたことになる。
都心のさらに中心部というか、とくに明治にはいってからの東京発展の先端地区を走っている。
フランク・ロイド・ライト設計による帝国ホテルも通学路にあり、毎日あたり前に眺めていた。

溜池を通る6系統の都電は、汐留と渋谷駅前を結んでいた。
途中で青山や六本木を通る。
友人は「銀座の松屋や三越に行くときも、渋谷の東横にいくときも、いつも6番の電車に乗って行った」という。
僕は本籍も東京、墓も東京にあり、あと短期間には都内の何カ所か移り住んだが、埼玉の田舎に(須田剋太の生家近くに)ベースの家があった。
ライトの帝国ホテルを毎日眺めて通学したとか、思い立って家の間近から都電にふっと乗ってデパートに行くとかいう暮らしの都会的匂いには、とても遠い。
都電は明治期の市電をひきついでいる。
夏目漱石の小説には、登場人物が市電で移動することがしばしばでてくるが、友人は漱石を読んでいて地理感覚、方向感覚、時間感覚が実感的にすっとわかるという。こういうことは、あとからの知識では追いつきようがない。

都内にあった都電網の役割は、地下鉄に引き継がれている。
今の地下鉄がそうであるように、路線網は密にあり、便利だったろうし、地上を走るので地下鉄より趣もあったろう。
ただ路線網が密ということは複雑ということでもあり、地方から上京した人や、外国人には乗りにくくもあったろう。
時代がさかのぼるが、ドイツから来て日本に数年いた建築家ブルーノ・タウトは日記にこう記している。
1933年9月14日(木) 市電とバスとで帰宅、乗換は多いしまた交通の指示が日本文字だけなので交通線の見当をつけるのがなかなかむづかしい。

赤坂育ちの友人によれば、1964年の東京オリンピックで街が大きく変わったという。
1972年には荒川線だけを残して都電が姿を消す。
同じ年に、友人一家も都心を離れて山手線の外側の中野に引っ越した。

* 外堀通りを赤坂見附方向に歩く。
通りの反対側(右手)に、水平線を強調した総理大臣官邸が見える。
山王下の信号を渡って日枝神社に入る。


■ 日枝神社
千代田区永田町2-10-5 tel. 03-3581-2471

通りを渡って日枝神社に入る。
総理大臣官邸が近いし、その先にはすぐ国会議事堂があるから、このあたりにも制服の警察官が多い。

神社の参道には階段のわきにエスカレーターがある。
ちょっと暑い日なのでそれに乗って上がった。
つまりそれだけ高い土地にあるわけで、かつては満々たる水をたたえた溜池に突き出た岬だった。
縄文時代、関東平野には海が奥深くまではいりこんでいた。
中沢新一は「ものごとや地形などの先端部分にたいして、人間の抱く深い関心」に目をとめ、縄文期に岬であったところに遺跡や神社や寺が集中しているという。
現代の地図と重ねてみれば、東京という大都会の地形が透けて見えてくるし、スクラップ&ビルドを繰り返していても古代の記憶が残っていることを示して、この視点は衝撃的だった。
きのう行った氷川神社も豊川稲荷も、縄文期には岬か水際だったところに位置している。

司馬遼太郎はここで
神門に、翁(おきな)と媼(おうな)の衣装をつけた「神猿像一対」が安置されているのにおどろかされる。
と書いている。

須田剋太も神門内の猿を描いている。

須田剋太『日枝神社 猿』 日枝神社 猿
須田剋太『日枝神社 猿』

絵では赤い色が鮮やかだが、目の前の猿の衣装はひからびたような褪せた色をしている。
須田剋太が来たころは、塗り直してまもなくでもあったろうか。
想像で鮮やかに塗ったろうか。

須田剋太『日枝神社』
須田剋太『日枝神社』
もう1枚、日枝神社を描いた絵がある。

これが山門(写真左)か、本殿(写真右)か、判別しがたい。

日枝神社山門 日枝神社本殿

■ 山王グランドビル/アメリカ文化センター・歌うエレベータ・ピアニスト
千代田区永田町2-14-2

地下鉄の赤坂見附駅を外苑通り側に出ると、正面に山王グランドビルがある。
左には赤坂エクセルホテル東急があり、外苑通りに沿って湾曲しながら長く延び、淡く明るい色をおびて、特徴ある様子をしている。
右には新しく建ったばかりのプルデンシャルタワー。
間にはさまれた山王グランドビルは、ごくふつうの箱型ビル。
僕は四谷にある大学に通っていたころ、ここに短期間だったがビル掃除のアルバイトにきたことがある。
ビルは1966年に竣工しているから、僕が出入りしたのは、まだ建って数年後のことだった。
こういう変化の激しい地域で、こういうジミめなビルが長くそのままあるのが珍しい気がする。

写真:右が山王グランドビル。その左に赤坂エクセルホテル東急。さらに左に工事中の赤坂プリンスホテル。 山王グランドビル

そのアルバイトのころから40年も経って久しぶりに入ってみた。
中央を通路が貫いていて、その両側に店やオフィスがある。
案内図によると、1階と地下に、旅行社やレストランや理容店やクリニックがわずかにあるほかは、企業や団体のオフィスが入っている。

ここでのアルバイトは、週に何日か大学の講義が終わったあとに行き、オフィスでも通常の勤務時間が終わったあとに室内に入り、ゴミ箱のゴミと灰皿の吸い殻を回収し(まだオフィスでふつうにたばこを吸っていたころのこと)、床をモップで拭いたのだったと思う。
各階にいろんな企業が入っているのだが、そこで働く人たちでも他社のオフィスに勝手に入っていったりはできない。
でもビル掃除というのは特権的で、合い鍵を持っていてどの部屋にもおかまいなしに入りこんでしまうことがおもしろかった。
今はセキュリティがいちだんと厳しくなっているだろうけれど、相変わらず掃除の人はスルスルと部屋を回っているだろうか。

そのころアメリカ文化センターがここにあった。
敗戦後、連合国軍が東京を占領し、固い占領政策をGHQが受け持っていた。
日本国民にアメリカ文化に親しませ民主主義を育てるというやわらかめな部分を受け持っていたのが、アメリカ式のCIE図書館というもので、日本各地に設置された。
占領が終わると、CIE図書館の多くは廃止されたが、東京など13の都市ではアメリカ文化センターとなった。
図書館機能だけでなく、講演会、映画会、展覧会など多彩な広報活動を担った。
アメリカ政府の出先機関ということで、学生運動が高揚していた1969年に、ここのカウンターに時限発火装置がついたピース缶爆弾が入った段ボール箱が置かれるということがあり、爆発して職員1人がやけどを負った。
今は「アメリカンセンター」と称して、溜池交差点の近くのビルに移っている。
他国の大使館では、図書や資料をそなえた広報部門をもつところがあるが、アメリカでは大使館内にはなくて「アメリカンセンター」が受け持っている。

今、山王グランドビル内には、アメリカ文化センターから引き継ぎでもしたのか、日米教育委員会とフルブライト日本同窓会が2階と4階に入っている。
アメリカへの留学を支援するフルブライト奨学金には、日米両政府が財政負担をしているが、その事務局が日米教育委員会。
フルブライト日本同窓会は、その事業でアメリカに留学して帰った人たちの親睦団体。

地下で見かけた掃除用具。
僕がアルバイトしていた頃、作業を指示するリーダーだけが50代だったろうか。あとは若い学生アルバイトばかりだったと思う。
リーダーは歌が好きで、僕らが廊下をモップで拭いているときリーダーの乗ったエレベータが通過すると、歌声が近づき、遠ざかっていった。
オフィスの人たちが帰ったあとの無人のビルだから、好きに歌える。
山王グランドビル 掃除用具

掃除の仲間は男ばかりだったが、ひとりだけ女子高生がいた。
ピアノを買ったか、これから買うかで、そのためにアルバイトしていた。
掃除がすんでから何度か一緒に帰った。
赤坂見附の駅まで行って分かれたのだったか、それとも高校生で夜働いていたのだから、家から近くだったはずで、やはり赤坂に住んでいたろうか。
その後ピアニストになったか、今もピアノをひいているか、ときたまふっと一緒の帰り道を思い出すことがある。

● 赤坂エクセルホテル東急
千代田区永田町2-14-3

長いホテルを通り抜ける。
僕が学生だったころ、通りに面した外部の2階が通路になっていて、とてもハイセンスなホテルという印象があったが、今はむしろ地味なくらいに感じる。

■ 弁慶橋

港区赤坂から千代田区紀尾井町に弁慶橋を渡る。
堀にはボート乗り場があって、釣りや遊覧用に小さな舟がとまっている。
春には桜の花びらをたくさんまとった枝が水面にかかっている様子が、しばしばニュース画像に流れるところだ。

須田剋太『清水谷界隈』 弁慶堀
須田剋太『清水谷界隈』

赤坂生まれの友人は子どものころ、ここでザリガニ釣りなんかしていたというのに驚かされた。清水谷公園や、いま東京ミッドタウンの裏庭のような位置にある檜町公園の池も水遊び場だったという。 
都心に住んで、キリスト教系幼稚園に通い、中学・高校は都電に乗って毎日帝国ホテルや東京駅を眺めながら私立女子校に通い、休みの日には都電に乗って銀座や渋谷のデパートへ行く。
友人の顔つきやものごしや言葉づかいは、そういう都会的暮らしがいかにも似つかわしい気がするのだが、弁慶橋のザリガニになると、とても意外な気がする。
今は赤坂あたりはビルが建ち並んで、堀も神社の林も整備されてよそゆきな感じになっているが、かつては近くにふつうに暮らす人があたりまえにいて、もっと親しい場所だったのかもしれない。

● 赤坂プリンスホテル

かつて丹下健三設計による通称「赤プリ」があったが、すでに解体されてしまった。
赤坂見附のほうから見ると、木々の向こうに、薄い、白いジグザグの高層建築が見えた。少し離れている感じ、簡単にアプローチできてしまわないような、遙かな感じもよかった。
友人はここから近い大学の礼拝堂で結婚式をあげ、赤プリで披露宴をした。

今は新しいホテルを建設中だが、ごつく四角い塊のような建築が、弁慶堀のすぐ間近から立ち上がりつつある。
圧倒するような存在感があって、前のホテルとはまったく異質なものになるようだ。
ホテルオークラ東京も改築予定だが、せめてこんなふうにならなければいいと思う。
(写真は赤坂見附駅出口付近から。ちょっと離れていても威圧感がある。)
赤坂プリンスホテル、工事中

僕は群馬県高崎市の建設会社経営者、井上房一郎(1898-1993)の文化支援のことをたどっていて、文化庁の表彰を受けたことがある。
その表彰式の会場が赤坂プリンスホテルで、当時の文化庁長官の河合隼雄氏はじめ、ふだん気軽に会えないような人たちが並び、式のあとには立食パーティーがあった。
その表彰対象の企画からNHKの45分番組が作られ、主演するということもあった。その制作会社が「えふぶんの壱」といって、乃木坂を下った今の赤坂小学校のあたりにオフィスがあり、何度か打合せにいった。
赤坂にごく近いところにある大学を卒業したので結婚式をキャンパスにある礼拝堂であげた。
近くの大学に通っていたのに赤坂は親しみのあるところではなかったのだが、栄誉的なことには縁遠い僕の人生のなかで、ささやかながら数少ない晴れがましいことは赤坂あたりであったのだったと、この散歩で思いいたった。

* プリンスホテルの工事現場と、ホテルニューオータニのあいだの道を北に歩くと、右側に公園がある。

■ 清水谷公園

『街道をゆく』では、ここで1878年に大久保利通が殺されたこと、片隅にかつての上下水道の石枡と木管が保存展示されていることなどが記されている。
僕が学生だったころは、学生運動が燃えていた時期で、ここでしばしば集会があり、国会やアメリカ大使館に向けてデモに出た。

紀尾井坂 公園を出て、ホテルニューオータニの沿って角を曲がると上り坂で、「紀尾井坂」という案内柱が立っている。

出身校の上智大学のキャンパスを抜けて四ツ谷駅にでた。
赤坂に近い大学にいたのだが、吉祥寺に住んでいたので、新宿や中央線になじんでいた。
その後、青山に行くとか、乃木坂に行くとか、六本木に行くとか、しばしばあったが、最寄りの駅に地下鉄で向かい、また地下鉄に乗って離れるということがほとんどだった。それらの地名が僕にとって縁遠いわけではないが、相互の位置関係がよく把握できないでいた。
司馬遼太郎は、大きな池があった溜池を中心にした地形と、かつての大名藩邸と重ね合わせた歴史的観点から赤坂を描いた。
僕はそれに加えて、赤坂生まれ、赤坂育ちの友人に話をききながらめぐることで、今さらのようだが、ようやくこのあたりの地理が実感的に頭のなかにおさまったという気がした。

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参考:

  • 『街道をゆく 33』「赤坂散歩」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1989
  • 『罹災日録』永井荷風 扶桑書房 1947
  • 『東京都電の時代』吉川文夫 大正出版株式会社 1997
    『おもいでの都電』林順信・諸河久 保育社カラーブックス712 1986
    『よみがえる東京 都電が走った昭和の街角』三好好三 学研パブリッシング 2010
  • 『日本-タウトの日記-1933年』ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975
  • 『アースダイバー』中沢新一 講談社 2005
  • 『アメリカン・センター:アメリカの国際文化戦略』渡辺靖著 岩波書店 2008年
  • 1泊2日の行程 (2015.5.19-20ほか) (…徒歩)
    第1日 虎ノ門駅…発明会館… ホテルオークラ東京…霊南坂…アメリカ大使館…大倉集古館…RANDY…霊南坂教会・幼稚園…サントリーホール… ANAインターコンチネンタルホテル…特別養護老人ホームサン・サン赤坂(もと氷川小学校)…赤坂氷川神社…TBS・赤坂サカス…赤坂三筋通り…旧赤坂小学校…豊川稲荷…草月会館…高橋是清翁記念公園…カナダ大使館…ロイヤルガーデンカフェ青山…赤坂小学校…乃木神社…ギャラリー間…東京さぬき倶楽部…サントリーホール「通崎睦美リサイタル 木琴デイズ」…東京さぬき倶楽部
    第2日 …泉ガーデン…ホテルオークラ東京…溜池交差点…日枝神社…山王グランドビル…赤坂エクセルホテル東急…弁慶橋…赤坂プリンスホテル…清水谷公園…COOK COOP BOOK…紀尾井坂…四ッ谷駅

    *サントリーホール「通崎睦美リサイタル 木琴デイズ」は2015.5.19。友人と歩いたのは別の日だが、コンサートの日を含めて1泊2日のように、できるだけ一筆書きに近く整理してある。