別所沼のひとたち-須田剋太、神保光太郎、立原道造、秋谷豊
須田剋太と同じ埼玉県鴻巣生まれの詩人の秋谷豊は、詩集、文集、60年にわたる詩誌『地球』の刊行など、多くの著作を残した。
僕はポツリポツリと買っては、秋谷の詩と文章を少しずつ読んでいる。
最近、古本で手に入れた『地球詩集1957』は、秋谷豊が詩の先輩である神保光太郎に贈ったもので、名刺が入っていた。
| 神保光太郎様 ご高評のほどお願い申しあげます |
名刺にひかれて、浦和(現さいたま市)の別所沼をめぐる人たちのことを整理してみた。
かかわる人は4人。
生年順に
□神保光太郎1905-1990
山形市生。1934年別所沼畔に家を新築し、亡くなるまで暮らした。
□須田剋太 1906-1990
鴻巣市(合併前は吹上町)生。1927年から浦和住。1930年に別所沼畔に画室を新築。1941年関西へ。
□立原道造 1914-1939
東京日本橋生。神保光太郎を敬愛していたが、とくに1937年に信州追分の油屋が焼失後、神保が住む別所沼への思いを深める。
□秋谷豊 1922-2008
鴻巣市生。別所沼に近い北浦和に1948年から亡くなるまで暮らした。
■ 神保光太郎の別所沼
| 孤独 沼のほとりを めぐりながら 神をおもふ 水面に映る ひとひらの雲 羊の孤独 |
*『青の童話』1953所収の「冬日断章」の一章。
この詩句を彫った自筆の文字の詩碑が別所沼にある。 |
■ 須田剋太の浦和
| 須田剋太『雑木林』1930-35ころ |
* このころ須田剋太は「蛇を食うと丈夫になる」と思いこんで蛇を追い、「別所沼から蛇がいなくなった」といわれた。舗装道路の材質に興味をもって剥がし、警察に捕らわれたという逸話も残した。
■ 神保光太郎→須田剋太
| 湖畔の人 あの沼の畔(ほとり)に ひとりの画家が棲(す)んでいる 蜥蜴(とかげ)のように いつも黙りこんで 暗の画ばかり描いている あのひとの画を見ていると 渺(とお)い朔北の海の夕暮 沖にちらばる 海鳥の羽搏(はばた)きが聴えるようだ あのひとが なにか神聖なもののように 愛(いと)しい憶い出のように もちいているわづかなグリーン この色が あの暗さの救いなのだろうか 過ぎ去ったかなしみを深く沈めて ひっそりと灯(とも)る 伝説のようなグリーン あのひとは 今宵もひとり この色と語り合っているらしい どうだ 南の海に行って見ないか 僕のこの問いに あの画家は やはり 蜥蜴(とかげ)のように 黙っていた |
*『幼年絵帖』1940
■ 立原道造→神保光太郎
| あなたのお言葉のおわりにも ヒアシンス・ハウスのことがしるされていましたので とうとう この手紙の最後で 僕の夢想をいちばんあとにまでかくしておこうとしたあなたに お知らせいたしましょう 同封しましたのが その計画の製図されたものです 旗は 深沢紅子さんがデザインしてくれることになっていて それは僕にもどんなのが出来るのかわかりません ヒアシンス・ハウス(風信子荘)という名前です |
*立原から神保への手紙 1938.2.12
立原道造は、親しい神保光太郎が住む別所沼のあたりに小屋を建てて住むことを思い描いていた。
■ 神保光太郎→立原道造 1
| 河童昇天 その夜 おまへは河童となって昇天した 氷柱(つらら)の足もふらふらと 若草の髪を 朔風になぶり ほーい ほーいと ああ 奇怪(きっかい)の挽歌をのこしつ 見よ 流星の如く翔(か)け去った 四境寂寞 あちら 青天の底に 円月孤(ひと)り おまへを待っていた |
*『冬の太郎』1943
■ 神保光太郎→立原道造 2
| 碓氷越え いくそたび われ 碓氷の峯を越えにし 岩を貫き 山々を呼び 伝説をくりつつ うねうねと行くかなしき汽車よ! 窓越に見る萱草(かんぞう)の花々 かの花の憶ひ出は 若くして逝きしわが友につながり この昧爽(あかつき)に われ 憂愁の霧にむせびぬ ぽう ぽう 峠をあへぐわが汽車の なぜにかくもかなしき この山間の 寒駅に飼ひし一羽の山鳥 その羽搏きに ふと うれひの魂を擡(あ)ぐれば ああ すでに 信濃の空の近きを思ふ |
*『冬の太郎』1943
神保光太郎は立原道造の死を深く悲しみ、没後数年経ってようやく言葉にした。
■ 秋谷豊→立原道造
| 夕映え-立原道造に 誰も信じてくれないので おまえは眠る 昼顔のように眠る 遠い落葉松の奥に 森の匂う季節は過ぎた 道は軽便鉄道の踏切をまがり 道は荒れた火山灰地に消えている その果に歩いている人は誰もいない 庭の木椅子に凭りかかって きみはフランシス・ジャムの詩を読んだ きみは錆びた洋燈の匂いを嗅いだ 夏の陽はうしろむきの肩に昏れのこって そこだけ いつまでも明るい 身をおこせ 立原よ 今夜も歌をきかせてくれ |
*『葦の閲歴』 1953
秋谷豊は立原道造を敬愛していた。
■ 秋谷豊の浦和
| 浦和 ぼくがこの都市に住んだのは 戦争が終ってまもなくのころ 飢餓の中で詩を書き 生計を立てた ここの住人の多くは小鳥たち 寂しい街の中でその小鳥だけが人間的であった タンポポの荒地を登って丘の高みにでると ずっとはるかに 小さな入江のような麦の穂のひろがりが見え ぼくはその晩春の地理に 太古の幻影を感じたものだった 天明六年一月の中山道の絵図には この丘と丘の間を流れる一本の川が描かれている 月の宮の森 やき米坂もすべて微風のなかだ いなりとあるのは稲荷社 ここに二七の市が立ったのは三百七十年前のこと ぼくは夕日とともに下りてきた 谷間のバザールのある村を思う 地面いっぱいに並んだ麦 織物 山羊の肉 ランプ… チベット女の黒いうすいろの髪 菜種油のにおい あの霧と氷の中から帰ってきて 夜半 ぼくは詩を書く この都市で ─ 網にかかった小鳥のように 世紀前、浦和のあたりは東京湾の海岸線であったといわれる。江戸時代に入って、交易のための「二七の市」が毎月開かれた。常盤町の中仙道の西側稲荷社の前に市神様の石祠と市場杭がいまも残っている。 |
* 『辺境』1976
■ ヒアシンスハウス
2004年、別所沼公園に立原道造のスケッチによるヒアシンスハウスが建つ。
■ 世界詩人会議
2005年、秋谷豊が主宰する地球社が主催して「アジア環太平洋詩人会議東京」を品川プリンスホテルを会場に開催。このとき、ヒアシンスハウスの前で各国の詩人たちによる朗読会があり、埼玉県立近代美術館前の噴水広場では、秋谷豊の詩「沙漠のミイラ」による舞踏公演があった。
■ CD『旅につむいだことば』
演出家の蜷川幸雄氏がさいたま芸術劇場を拠点に高齢者の劇団さいたまゴールド・シアターをつくった。 その女優の重本惠津子さんの朗読により、秋谷豊、立原道造、山本太郎の詩を収めたCDが作られた。 僕が企画して埼玉県立近代美術館に事務局をおくSMF(Saitama Muse Forum)の刊行物として制作した。
ジャケットの写真はヒアシンスハウス。
| (画像をクリックすると拡大します) |
□ ヒアシンスハウスの会
http://haus-hyazinth.org/
□ 秋谷豊詩りゅう館(「りゅう」は「立」へんに「鳥」)
http://www.akiya-yutaka.com/
□ SMF(Saitama Muse Forum)
http://www.artplatform.jp/
以上が別所沼をめぐる3人の詩人と1人の画家(と1人の女優)の物語。
須田剋太が別所沼畔に暮らして絵を描いていたころ、詩人の神保光太郎と親しく、同じころ立原道造は神保と親しく行き来し、別所沼畔に小さな小屋を建てることを夢想していたのだった。
須田剋太と立原道造は出会っていたろうか?
須田か立原か神保の日記とか手紙とかに記述があるといいのだけど、まだ見つかっていない。
■ 秋谷豊の鴻巣
秋谷豊と須田剋太のふるさとは鴻巣だが、秋谷豊は生地についてはこういう詩を書いた。
| 鴻巣 ぼくは母の暗闇から出てきたが 平野のなかの町は もっと暗い そこは烏が森の上に輪をえがき 蛇が草の中でじっと何かを狙っていた 八月の暑さのなかで死んだ牛 道に馬の糞の乾く匂い 店さきではじいさんが背をまげて人形をつくっていた ぼくは彼が啞であることを知っていた 描かれた目と口をもった 小さな人形は何と悲しいことか 祭りの日は どこからか 人々があつまってきた その祭りのおわった夜に 女中が芝居小屋の役者と駆落ちした てのひらのなかでわたあめのようにとけていく 男と女のめぐりあいがあった そしていかにも足早やなように 時は流れていった 平野の町は盂蘭盆であった 「ぼくはこのとおり落伍者です」 三十年ぶりに墓の前に立って ぼくは土蔵のある家のことを考えていた そこでは何かしら傷口が暗い口をあけ 古い酒樽が一つおかれ 土間の戸がはずれまた一つの戸がはずれていた 鴻巣は私の生まれた土地。中仙道の宿場町で、江戸時代からひな人形の産地として知られている。 |
* 『辺境』1976
鴻巣は関東平野のほぼ中央あたりにあって、地形は平坦で、気候はおだやか。歴史に残る大事件があったとか、後生の人がその精神を参照するような偉人がでたわけでもない。こうした土地から、須田剋太と秋谷豊という強烈な個性の人が現れたことを僕はずっと不思議に思っている。
須田剋太は独特な生のスタイルを貫いて、存在を塗りこめるような絵を描いた。
詩人というと密室で孤独に言葉を刻む人という先入観があるが、秋谷豊はヒマラヤに登り、シルクロードを歩き、世界の詩人を集めて国際会議を開催した。
秋谷豊は山に行く理由としてはこんな詩を書いている。
| 武蔵野 ぼくが高い山に憧れるのは この平野に生まれ育ったせいだ 国木田独歩の武蔵野は 枯草のあなたに落日があった あの夕日を見てしまった目は いつまでも 眠れない 高麗の山すそにひらける 古代帰化人の村は 薄紫の空に雲がひとつ 朝鮮半島から渡ってきた 彼らの目にも夕日があった 荒れた海と風に鳴っている帆 彼らはへさきをめぐらして 西の方角ばかり眺めていた 時はめぐり かなしみもめぐる ぼくらの年代の武蔵野は はてしない地形とともに あの落日の景色を見失ったが それでも新しい朝は一片の雲が うつぼつたるぼくらの心に 音楽のように明るいかげをつくる |
* 『ランプの遠近』1981
須田剋太は熊谷中学に在学中、療養のために休学して浅間山麓に暮らし、浅間山を眺めていて一生絵を描いていこうと心を決めたという。
高い山への憧れが、平坦な平野から特異な画家と詩人を誘いだしたかもしれない。
| 須田剋太『私に画家になることを決定させた浅間山』。 『街道をゆく 9』』「信州佐久平みち」(司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1977)の挿絵に浅間山を描いて、こういう文字を記した。 |
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