富山から「飛騨紀行」を行って「郡上・白川街道と越中諸道」を戻る


『街道をゆく』の「29飛騨紀行」は、岐阜羽島駅からスタートして、下呂-高山と北上し、富山県境の茂住(もずみ)まで行っている。
「4郡上・白川街道と越中諸道」 では、やはり岐阜羽島駅からはじめて、郡上八幡-白川郷-五箇山と北上して、富山に抜けている。
僕は富山を起点にして、「飛騨紀行」とは逆にまず南に走り、茂住、高山と過ぎて下呂で1泊。
下呂で折り返して北に向かい、今度は「郡上・白川街道と越中諸道」 と同じに走って富山に抜ける、一筆書きのコースにした。

第1日 富山駅から南へ下呂温泉に [富山駅 金龍寺 飛騨市神岡振興事務所 円光寺 三嶋和ろうそく店 高山陣屋 水無神社 臥竜桜・飛驒一ノ宮駅 下呂温泉湯之島館(泊)] 
第2日 北へ折り返して五箇山に [温泉寺 中山七里 境橋 港橋 郡上八幡城 荘川桜 御母衣ダム 旧遠山家民俗館 飯島八幡宮 岩瀬家住宅 五箇山温泉赤尾館(泊)]
第3日 富山に戻って散策する [行徳寺 五箇山生活館 村上家住宅 神通川河口(富山港展望台) 富岩運河環水公園 富山駅] 

第1日 富山駅から南へ下呂温泉に [富山駅 金龍寺 飛騨市神岡振興事務所 円光寺 三嶋和ろうそく店 高山陣屋 水無神社 臥竜桜・飛驒一ノ宮駅 下呂温泉湯之島館(泊)]

* 北陸新幹線で富山駅に降り、レンタカーを借りる。
富山平野のほぼ中央を、国道41号を走って南に向かう。
やがて神通川に沿ってカーブが連続する山道になる。
富山県富山市から岐阜県飛騨市に入って数キロで、東茂住(ひがしもずみ)にいたる。


■ 金龍寺
岐阜県飛騨市神岡町東茂住469 tel.0578-85-2105

16世紀にここで鉱山開発が成功して繁栄した。
開発にあたった鉱山師(やまし)茂住宗貞(もずみむねさだ)は、その功績により飛騨国主の金森長近から金森姓を与えられ、金森宗貞とも呼ばれた。
金龍寺は宗貞が荒れていた寺を復興し開山した。

須田剋太『金龍社 神明神社』 金龍寺
須田剋太『金龍社 神明神社』

鳥居のわきに石碑がたっている。

須田剋太『宗貞金森翁之碑』 宗貞金森翁之碑
須田剋太『宗貞金森翁之碑』

石垣のうえに鐘楼がある。

須田剋太『金龍寺 宗貞金森翁屋敷跡』 金龍寺の鐘楼
須田剋太『金龍寺 宗貞金森翁屋敷跡』

この絵の左にある階段を上がったところに、その上2枚の絵と写真にある鳥居や本殿や石碑がある。

寺のすぐ裏を高原川が流れている。
ここから5キロほど北、富山県境で宮川に合流する。
富山県に入ると宮川は神通川となって日本海に注ぐ。
宗貞が開いたころは銀山だったが、近代に亜鉛をとるようになってから、精錬で発生するカドミウムが川に流れて下流域に大規模な公害を生んだ。骨が弱くなり、わずかな刺激で骨折して「痛い、痛い」と声を上げることから「イタイイタイ病」と呼ばれた。
須田剋太『金銀のわく話』
須田剋太『金銀のわく話』

そうしたことの一方で、操業をやめた地下鉱山跡に1983年に素粒子ニュートリノの研究施設カミオカンデ、1996年にスーパーカミオカンデがつくられた。
小柴昌俊氏が2002年に、梶田隆章氏が2015年にノーベル物理学賞を受賞するほどの成果を生んだ。
金龍寺のとなりに「東京大学宇宙線研究所神岡宇宙素粒子研究施設」の建物がある。
飛騨の山中の鉱山が、江戸期の飛騨国の経済を支え、近代に大きな公害を発生させ、現代にノーベル賞をとる研究施設になった。
「東京大学宇宙線研究所神岡宇宙素粒子研究施設

* 国道41号をさらに15キロほど南に行くと(高原川をさかのぼると)、国道471号と分岐するところに神岡の市街がある。

■ 神岡振興事務所(旧神岡町役場)
岐阜県飛騨市神岡町東町378 tel.0578-82-2250

旧神岡町は2004年に古川町、宮川村、河合村と合併して飛騨市となった。
発足時の人口は約3万人で、2015年には25,000人を割っている。
市役所は旧古川町役場におかれていて、旧神岡町役場は神岡振興事務所になっている。
旧神岡町役場は1978年に竣工したが、庁舎の設計にあたってはコンペがおこなわれて磯崎新氏が選ばれた。
円筒と立方体の組み合わせで、立方体のほうでは正方形の窓が連続しているので幾何学的な印象がきわだっている。
合併後は、立方体に市役所の支所機能があって、円筒のほうは飛騨市神岡図書館になり、書架と閲覧机が並んでいる。

船津尋常高等小学校の門
周囲をひとまわりしたら、船津尋常高等小学校の門が保存され、記念碑が置かれていた。
学校の跡地に町役場が建ったらしいが、「小学校」ではなく、ひとつ前の時代の「尋常高等小学校」なのが不思議。

* 昼どきになり、近くの道の駅に行った。

● 道の駅 宙(スカイ)ドーム神岡
岐阜県飛騨市神岡町夕陽ケ丘6 tel.0578-82-6777

道の駅のベンチでランチ。
スーパーカミオカンデに関わる資料を展示してあった。
スーパーカミオカンデ検出器は、神岡鉱山内の地下1,000mに大きな円筒形タンクをつくり、5万トンの超純水を蓄えてある。
その内壁にニュートリノを感知するための1万個をこえる光電子増倍管がとりつけられている。
道の駅では、その光電子増倍管が展示され、梶田隆章氏と握手しているように写真を撮れるポーズをした実物大の像が立っている。

* 高原川にかかる橋を渡って国道41号に戻る。
41号線は神岡市街から南西に向きをかえる。
このあたりを走っていると、山中の木々のなかに藤の花が点在して咲いているのが目に入ってくる。


● ドライブイン数河(すごう)
岐阜県飛騨市古川町数河8-3 tel.0577-75-2311

司馬遼太郎一行はここで昼にしようと寄ったのだが、新興教団の団体客が何台もバスを連ねて着くところだというので断られている。それで「私どもはこの平場(ひらば)を出、すこしはずれた土手の上にある山小屋ふうの店に入った」。
このあたりはわずかだが平坦地で、数軒のレストランや宿があった。

* 古川町の市街に入る。
2004年に古川町ほか1町2村が合併して飛騨市となったが、市役所はもと古川町の役場におかれた。
古い家並みが残るいい街だが、それだけに駐車場所がなかなかなくて、観光案内所を見つけてたずねると市役所の駐車場を教えられた。


■ 円光寺
岐阜県飛騨市古川町殿町11-11 tel.0577-73-2954

まず円光寺に行った。
司馬遼太郎はこのへんの景観をとても気に入った。
真宗・円光寺付近の町並景観がすばらしく、思わずノートに「飛騨随一ノ町並也」などとメモしたりした。
 とくに円光寺の高さ五〇センチほどの低い石積みの結界と、となりの白亜の酒蔵とのとりあわせがよく、、そのあいだをながれる用水路の水のきらめきをふくめて、みごとな日本建築群による都市造形をつくりあげている。(『街道をゆく 29』「飛騨紀行」 司馬遼太郎。以下、境橋までの「飛騨紀行」中の引用について同じ。)

須田剋太『古都・飛騨古川』 飛騨古川
須田剋太『古都・飛騨古川』

そして円光寺についてはこう記している。
円光寺は、山門がふしぎな形をしている。(中略)見あきぬほどに、形がいい。

この寺は16世紀に垣株堂という道場として開かれたのが始まりで、山門は1619年の一国一城令で増島城が解体されたときに、ここに移築したものと伝わっている。

須田剋太『垣林堂』 円光寺の山門 垣株堂
須田剋太『垣林堂』

 『須田剋太「街道をゆく」挿絵原画全作品集』( 木村重信/監修  (社)近畿建設協会 2000)は4巻本で、『街道をゆく』に須田剋太が描いた挿絵がほぼ全点収録されている。ここに記載されているタイトルは所蔵元の大阪府が付したタイトルと一致している。
『全作品集』(および大阪府の記録)では、この絵は『垣林堂 』となっているが、「垣株堂」が正しい。
須田剋太から寄贈を受けた大阪府で、タイトルを付したときに絵の文字を見誤ったかと思う。

■ 三嶋和ろうそく店
岐阜県飛騨市古川町壱之町3-12 tel.0577-73-4109

和ろうそくの店に寄る。
畳の間を開け放って商品を陳列してある。
通路を隔てた反対側が作業場で、製作途中の大きなろうそくが並んでいる。
みやげに赤白1本ずつがセットになっているろうそくを買おうとすると、若い店の人に「仏壇に使いますか?」ときかれた。
使うとこたえると「きまりごとがあります」と教えてくれた。
赤いろうそくは使うときが限られていて、正月や、縁談がまとまったとか家族にいいことがあったのを先祖に報告するときに灯すという。

須田剋太がこのろうそく店を描いている。
20年ほど経ったころに『街道をゆく』のその後をたどり直した「週刊司馬遼太郎街道をゆくno.46」 (朝日新聞社 2005)を見ると、このときの旅の様子を撮ったスナップ写真のなかに、この絵とそっくりなのがあった。
建物の角度も、人物の人数、配置も同じで、いちばん左の人の足を開いたポーズまでそっくり。
須田剋太は現地でスケッチしたあと、週刊朝日に掲載するための挿絵は帰ってから描き直した。
そのとき司馬遼太郎の文章にあわせた枚数を確保する必要もあってのことだろうが、自分のスケッチだけでなく、写真や資料をもとにして描くことがあった。
このときは同行者の誰かが撮った写真を参考にしたろうが、挿絵を描くために参照した元の画像がこれほどはっきり特定できることは珍しい。

須田剋太『国府の赤かぶ(B)』 実は三嶋和ろうそく店 三嶋和ろうそく店
須田剋太『国府の赤かぶ(B)』

ところでこの絵には『国府の赤かぶ(B)』という、絵とはすっと結びつかないタイトルがついている。

「飛騨紀行」は週刊朝日での連載7回目が「国府の赤かぶ」、8回目が「古都・飛騨古川」だった。(岐阜羽島駅から北上した司馬一行は、(旧)国府町の赤かぶ畑を通ってから、古都の古川に入った。)
7回目「国府の赤かぶ」の挿絵は、『国府の赤かぶ(A)』と『国府の赤かぶ(B)』の2点。
8回目「古都・飛騨古川」の挿絵は、前掲の『垣林堂』と『古都・飛騨古川』の2点。
古川のろうそく店を描いたものが編集の都合で7回目「国府の赤かぶ」に掲載された。たまたまこの絵には剋太がどこということを文字で記さなかったので、所蔵した大阪府で誤ったタイトルを付されることになった。
須田剋太『国府の赤かぶA)』
須田剋太『国府の赤かぶA)』

三嶋和ろうそく店は今は7代目の三嶋順二氏が当主でおられる。
赤白のろうそくの灯し方について説明していただいたのは、次を継いでいかれることになるだろうご子息の大介氏だった。
須田剋太がこの店を描いた挿絵にもとになる写真があるとか、原画を所蔵している大阪府で勘違いしたタイトルがつけられていることなど、とくに挿絵に関心をもつ者だけの内輪話のような事情だが、その絵の地の大介氏には承知しておいてもらえるといいなと思ってお伝えした。
『街道をゆく』の挿絵の地をたどっていると、絵が描かれたところの当事者でもご存じないことがあり、ときにはそれをお知らせするのも、僕が原画の地をたどっていることの小さいながら役割と思っている。

 蝋燭(ろうそく)屋さんの前に出た。
 この家も、たいしたものだった。褐(かちん)に染めたのれんに、
「生掛(きかけ)」
 と、白く染めぬかれている。型に流しこんでつくる粗製の蝋燭ではなく、明治以前の本格的な蝋燭という意味である。(中略)
 ともかくも、飛騨の古川のおもしろさは、和蝋燭をつくる技術がいまなお伝承されているだけでなく、現役として活(い)きづいている老舗(しにせ)があるということである。
歴史の長い店だから名のある人が多く訪れている。
店頭に俳人の金子兜太(かねことうた 1919-2018)が詠んだ句がかけてあった。

 木の臘をいたわり育て時忘る 兜太

金子兜太は須田剋太と同じ埼玉県の旧制熊谷中学を、剋太より10年ほどあとに卒業している。

通路を隔てた作業場には、製作途中の大きなろうそくが並んでいる。
僕らが買ったようなふつうサイズのろうそくは欠かさないように作っているが、大きなものは受注生産で、今は遠くの芝居小屋から依頼があったものを作っているところとのこと。昔、芝居小屋では電気の照明がなかったから、ろうそくを灯していたわけで、今もろうそくの明かりで演じている小屋もあるわけだ。

    ◇     ◇

古川の通りを歩く。
古い家が並んでいる。
「白真弓」の蒲(かば)酒造場、「蓬莱」の渡辺酒造店と、酒の老舗がつづく。
家の高さのわりに道が広いので、明るく開放的な気分がある。
新しく建った家でも黒ずんだ木材を使い、軒下の材には防腐のため胡粉などで白く塗ってあるのがコントラストになって美しいし、新しい家が並んでいても統一感がある。

前掲の「週刊司馬遼太郎街道をゆく no.46」には、文化財保存に関わる建築家・津村泰範さんが古川の建築について記した文章がある。

古川の民家の雲 最下部で白く塗った曲線が連続するところは「雲」といい、大工ごとに違うデザインになっているという。
画家が絵にサインをいれるような感覚だろうか。
それは古くからの伝統ではなく、戦後に始まった作法だという。現代にも飛騨の匠の自負が生きていることを感じさせられる。

古い街並みのあいだを流れている瀬戸川用水は、市街の南を流れる荒城川(あらきがわ)から引かれている。
荒城川は古川町市街地で宮川(神通川)に注いでいる。

飛騨古川駅は2016年公開の映画『君の名は。』に登場する駅のモデルといわれるところで、ちょっと気になるが先を急ぎたい。駅は駐車場を探して走ったとき車から眺めただけでパスすることにして、市役所に戻って車に乗り、高山に向かった。

* 途中で旧国府町を通る。
司馬遼太郎は、これまでの旅でもずっと国ざかいとか国府とか一の宮とかに強い興味をもっていた。
国府町はかつて飛騨の国府があったとされる地で、司馬一行は役場に寄り、教育委員会で国府がどこにあったかたずねた。
ところが、国府があった町だと宣伝文句としてアピールするパンフレットをもらったが、肝心の所在地はわからなくて、落胆している。
かわりに外には「手入れのゆきとどいた耕作地がひろがっていて、気持ちがよかった。」
名物の赤カブの畑で、司馬一行が訪れたのは10月のちょうど収穫時期だったのだが、僕らは季節はずれだったので、どこが赤カブの栽培地かも定かでないまま通り過ぎた。
旧国府町は、2005年高山市へ編入されている。

高山市街に入り、陣屋わきの狭い駐車場に車を置いた。

■ 高山陣屋
岐阜県高山市八軒町1-5 tel.0577-32-0643

高山陣屋は飛騨国をおさめた役所。
陣屋の中には入らないで外から写真だけ撮る。

須田剋太『高山陣屋』
須田剋太『高山陣屋』
高山陣屋


宮川に架かる橋を渡る。
川の景色がいい。
宮川は-繰り返しになるが-下って富山県に入ると神通川になる。

橋を越えると、通りの右に司馬一行が夕食に訪れた料亭、州さきが、すっきりした木造の端正な表情をみせている。
高山の宮川

左の道に入ると、高山らしい街並みで、すごい数の人が歩いている。
古川では広い通りに人は少なく、おおらかな景色だったが、ここでは人が密で、自分が歩いて行く道の路面がまるで見えないほど。
民芸品、みやげもの、テイクアウトの食べ物などの店が並んでいる。
高山には学生のころに来て以来で久しぶりだし、司馬遼太郎は
さきに古川町の町並の価値に感心したものの、やはり高山市の町並や家屋の洗練度のほうが高い(後略)
と記している。
楽しみにしてきたのだが、人の多さに圧倒されて短い距離を往復しただけで車に戻った。

* 僕ら(今度の旅は妻が同行している)は今夜の宿は下呂にとってある。
司馬遼太郎一行は高山市街から西にはずれた松倉城趾を訪れたのだが、僕らは今日のうちに下呂まで行かなくてはなので、松倉城趾には寄らずに先に向かった。

飛驒一ノ宮駅の東にある神社に寄った。


■ 水無(みなし)神社 
岐阜県高山市一之宮町5323 tel.0577-53-2001

水無神社は飛騨国の一の宮で、粛然として風格がある。
木々をすぐうしろに控えさせて社殿が水平に並び、その前に広い空間がある。
社殿から離れて小さな小屋があり、そこに左甚五郎の作といわれる馬があった。
白と黒、2頭がいて、黒駒が左甚五郎作とされている。
小屋の正面の木枠からのぞきこむので見えにくいが、やや棒立ちしている感じを受ける。

須田剋太『左甚五郎神馬』 水無神社の神馬
須田剋太『左甚五郎神馬』

名工といわれる左甚五郎はそもそも実在したかどうか不確かだが、司馬遼太郎の見解はおおらかで、美術工芸に関心が高まった江戸初期という時代がそういう説話を生んだろうし、まして飛騨の人とすれば「ハナシにいよいよ箔がつく」。

須田剋太が絵を描く姿勢はとても厳しいものだったが、考証的な関心はほとんどない。
水無神社の神馬についてほんとうに左甚五郎作かは確証はないものだが、須田剋太はとらわれない感想をいう。
「この作品はまちがいありませんよ」
 と、須田画伯の迫力もまたうれしい。この人の審美眼の前には、片々たる実在・非実在論など、なにほどのこともない。
須田剋太が挿絵を描いた現地に行ってみると、絵と実景が違うことがよくある。
その違いを探っていくとおもしろいことが見えてくる-ということがしばしばあるのだけれど、だからといってあまりに「片々たる実在・非実在論」にこだわりすぎては須田剋太の美質をそこねることになりかねない。気をつけなくてはと思う。

* 宮川の橋を渡り、高山本線の踏切を越えると、飛驒一ノ宮駅の西がわすぐ近くに桜の木がある。

■ 臥龍の桜/飛驒一ノ宮駅
岐阜県高山市一之宮町

須田剋太『臥竜桜』
須田剋太『臥竜桜』
臥竜桜

大きな桜の木が枝を地上の全方位に伸ばしていて、それを幾本もの支え棒が守っている。みごとな枝振りで、花のない時期なのが惜しい。
それでも霊気が漂っている気がするほど。

飛驒一ノ宮駅 飛驒一ノ宮駅は無人の橋上駅。
階段を上がってみたら、ちょうど高山方面行きの電車がやってきた。
駅でやや長く停車している。
単線なのですれ違い待ちかと思ったら、ほかに電車は現れないで、ただ停車していただけで発車した。
ローカル線ではよくこんな時間調整みたいのがある。

* 富山駅から150km近く走って、ようやく下呂市にはいった。
高山では宮川が日本海に向かって北に流れていたが、下呂では(やがて木曽川となる)飛騨川が太平洋に向かって南に流れている。
今夜の宿は川から迫り上がっている斜面の高みにある。
車で狭い急な道を上がって-帰るときにこんな道を下れるだろうかと不安になるほどだった-湯之島館に着いた。


● 下呂温泉 湯之島館
岐阜県下呂市湯之島645 tel. 0576-25-4126

下呂温泉で司馬一行が泊まったのとおなじ宿を予約してある。
この宿のことは司馬遼太郎が文章に書いているし、須田剋太が絵も描いている。
湯之島館は老舗の旅館だが、なかでも別格の部屋がいくつかあり、司馬遼太郎が泊まったのは「春慶荘」という部屋だった。
僕らも司馬遼太郎の文章にしたがって「春慶荘」を予約した。
私がとまったのは品のいい京壁、単純化された遠山(とおやま)の欄干、それに欄間も柱も障子の桟(さん)も、ことごとく柿色の春慶塗で統一されていて、おさえこんだ華やぎがある。(中略)
 心のうきたちをおぼえつつ、須田画伯の部屋をのぞきに行ったり、画伯をわが部屋に招じ入れたりして、柄にもなく束のまの数寄に興じた。

須田剋太は『豪華な部屋 下呂温泉』を描いた。
須田剋太『豪華な部屋 下呂温泉』

湯之島館のホームページを見ると、特別室については写真が掲載されているのだが、剋太が描いた部屋は床の間周辺の位置関係が「春慶荘」とはちがう。
ほかの部屋の写真を見ると、やはり特別室の1つで「山楽荘」というのが似ていそうに思える。
旅に出る前に湯之島館あてに照会したところ、
「たしかに山楽荘に似ているが、確定的なことはいえない。どの部屋に誰が泊まったという記録はないし、当時のことを知るスタッフもいない。」
とのことだった。

宿に着くと、回答を送っていただいた方に迎えられ、この夜、山楽荘はちょうど予約が入っていないのでどうぞと親切に案内され、見せていただいた。
庭-廊下に椅子-床の間といった並びから、ほとんどここといってしまってもいいように思える。
湯之島館「山楽荘」

ただし記録はないし、ホームページにある特別室の写真にしても床の間が写っていない部屋もあるし、宿にはほかにもたくさんの部屋がある。
「山楽荘」という可能性はあるにしても、やはり確定はできない。


これが司馬遼太郎が泊まり、僕らが泊まった「春慶荘」。
剋太の絵や「山楽荘」とちがって、床の間が中央にある。
湯之島館「春慶荘」

この宿でもう1枚の挿絵が描かれている。

須田剋太『下呂温泉旅館』
須田剋太『下呂温泉旅館』。
構図としては、こちらの部屋にいて、中庭ごしに向こうの建物か通路を見おろしている。

この絵のことがあるので、「山楽荘」だけでなく、広い館内もひとまわり案内していただいた。
司馬遼太郎の「春慶荘」の文章から、手をかけた和の建築を思い描いていたのだが、洋風の意匠のところもあって、そちらも見応えがあった。
飛騨川を見おろす斜面にこの宿を建てたひとの壮大な意志に圧倒される思いがした。
それにしても、須田剋太の絵にあるような眺めのところはなかった。
どこか別なところのイメージが加わっているのだろうか。

「春慶荘」では、次の間があり、そこから「春慶荘」の中だけをいく通路を降りてゆくと「春慶荘」だけの露天風呂にでる。
庭の緑の木々を眺めながらゆったり湯につかった。
食事には飛騨牛がでた。
『街道をゆく』の挿絵の地をめぐってきて、たくさんの宿に泊まったが、ここはもっとも高額ないくつかのうちの1つだった。
部屋や食事はもちろん、なかを案内していただいた心づかいをふくめ、十分にたんのうした。

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第2日 北へ折り返して五箇山に [温泉寺 中山七里 境橋 港橋 郡上八幡城 荘川桜 御母衣ダム 旧遠山家民俗館 飯島八幡宮 岩瀬家住宅 五箇山温泉赤尾館(泊)]

* 宿を出て、すぐとなりにある温泉寺に寄った。

■ 温泉寺
岐阜県下呂市湯之島680 tel.0576-25-2465

須田剋太『下呂温泉旅館』の絵は、湯之島館の中にはそれらしいところはなかった。ただ、宿の人で「その絵は温泉寺ではないか」といわれる方があったときいたので寄ってみた。
宿も寺も丘の中腹に位置していて、宿の駐車場から坂を下ると寺の本堂があり、さらにその下に墓がある。
墓の中央を階段が下っていて、眼下に下呂市街を見わたせる。
須田剋太の絵の眺めが現れてもよさそうな高低差がたしかにあるのだが、絵の景色の特徴である長い建物(または廊下?)はなさそう。
墓を掃除をする女性がいらして寺の方かと思ってきいてみたが、その墓の縁の方だった。幾度もお参りにきているわけだが、やはり絵のような場所は思い当たるところはないとのことだった。
結局『下呂温泉旅館』の絵は謎のままになった。

* きのうは宿まで急坂を上がった。
降りるときかなりスリルがあるかと危惧したのだが、今朝はカーナビがまっとうな道を指示して、穏やかな坂だけを走って下に降りられた。
下呂では宿(と温泉寺)のほかはどこも寄らずに街を出た。


飛騨川に沿って国道41号を南に走る。
「中山七里」というところを通る。
おおもとは観光的名称ではなく、16世紀に下呂と飛騨高山を結ぶ道が開かれたとき、険しい難所が七里にわたってつづいていたことからいわれるようになったという。

「飛騨紀行」の連載の2回目、「飛騨境橋」の回で、『中山七里』の絵が掲載されている。
『街道をゆく』の挿絵はほぼ全点が大阪府に寄贈されたのだが、この絵は欠けている。こういう例はほかにもあり、逆に『街道をゆく』に掲載されたのではない絵がいくつか含まれてもいる。

* さらに国道41号を南下して、下呂市の南端、JR高山本線の飛騨金山駅のあたりにでる

■ 境橋
岐阜県下呂市

北から南に流れる飛騨川に、北西から馬瀬川が合流している。
馬瀬川では合流点の手前に境橋がかかっている。
合流したあとの飛騨川には金山橋が架かっている。

境橋が旧美濃国と旧飛騨国の境になる。
司馬遼太郎は旅に出ると、行った先の国と国の国ざかいをできるだけ見たいと思っている。
この旅でも、
 私は、ただ一点にとらわれていた。ここからが飛騨の国です、という旧分国の国ざかいを見たいばかりに羽島駅から車に乗ったのだが、このぶんでは、国ざかいでは夜になっているだろう。
実際、着いたのは夜だった。
国道を横断して境橋のたもとに寄ってみた。いかにも建設省の規格品のような橋で、鉄とコンクリートの味気ないものだった。(中略)
 画伯は上(うわ)の空でうなずき、スケッチしている。まわりは飛騨黒が出てきてもわからないほど暗いというのに、画伯の目にはなにか感じているらしい。

須田剋太『境橋』

須田剋太『境橋』

境橋
僕らは馬瀬川が飛騨川に合流した地点からすぐ先にある金山橋の近くに車を置いた。
左から馬瀬川が、右から飛騨川が流れてきているが、馬瀬川のほうに境橋が架かっているのが見える。
ところが境橋は上部がゆるい曲線なのに、須田剋太『境橋』は直線が折れ曲がっている。

金山橋
今いるほうの金山橋はこんなふうに上部が水平で、これも絵とは形が違う。

司馬遼太郎の文章によれば、ここに着いて須田剋太がスケッチしたとき、橋は暗い闇のなかにあった。
旅のあと、挿絵として仕上げるときに資料をつかい、別の橋を描いたかもしれない。

* 富山から南下してきたが、ここからいったん西に向かったあと、また富山に向かって北上することになる。
ルートの1つとしては、ここまで走ってきた国道41号を(飛騨川に沿って)すっかり戻って、保井戸から真西に濃尾横断自動車道で向かうのがある。
もう1つは、飛騨金山から北北西に向かう県道86号線を(馬瀬川に沿って)走るのがある。やがて馬瀬川第2ダムによるダム湖の東岸を沿う道を行くと、乙原というあたりで濃尾横断自動車道にぶつかり、このほうがいくらか距離が短くてすむ。
それで2つめの道を行った。
裏道ふうだが、ずっとセンターラインがあるくらいに広い道で、両側に広がる草原の中を走り抜ける感じで、気持ちいいドライブだった。


■ 港橋
岐阜県下呂市

馬瀬川第2ダムによるダム湖の東岸を走り、ダム湖の北端あたりで橋を渡って、西岸にうつる。

港橋
この橋を港橋というが、須田剋太が描いた『飛騨境橋』と、ほとんど同じ形をしている。
車をとめにくかったので橋を渡ってから写真を撮ったが、渡る前の景色は剋太の絵によく似ていた。

ただ、司馬一行が岐阜羽島駅からスタートして下呂に向かったとき、ここを通ったことはほぼありえない。
ここは国道41号の保井戸の交差点から6kmほど西にそれていて、岐阜から高山方面に向かった司馬一行がこんなに道を外れてくる理由はなさそう。
このあたりは、八坂(はっさか)湖畔桜といって桜の名所らしい。
須田剋太らが境橋に着いたときはすでに暗かった。
取材から帰ってから写真を参照して描こうとしたとき、桜の名所のこの橋の資料がまじっていて目がとまったという可能性はある。

* ダム湖の西岸からゆるい勾配の誘導路を上がって、濃尾横断自動車道のインターチェンジに入る。
自動車専用道のようだが、まだ整備途中のようで、無料で走れる。
すぐ和良金山トンネルがあり、そこを抜けるともう郡上八幡市に入っている。

「飛騨紀行」を終えて、この先は「郡上・白川街道と越中諸道」になる。
(美濃加茂市を経由して岐阜羽島駅まで南下すれば、『街道をゆく』の行程に近いのだが、そこまでは行かないことにした。)
「郡上・白川街道と越中諸道」の司馬一行の旅は、岐阜羽島駅から出発し、北上して富山に向かい、郡上八幡に入った。

郡上八幡では、北から南に流れる長良川に沿った細い谷筋に、長良川鉄道と、越前街道(国道156号)と、高速の東海北陸道とが、工作物のなかの配線のように集中して通っている。
市街もその狭い谷筋にある。
東から吉田川が流れて郡上市街中心部で長良川に合流するが、その吉田川から北に上がった丘に郡上八幡城がある。


■ 郡上八幡城
岐阜県郡上市八幡町柳町一の平659 tel.0575-67-1819

料金所の前からの眺めが『郡上八幡城(A)』のようだ。

須田剋太『郡上八幡城(A)』
須田剋太『郡上八幡城(A)』
郡上八幡城

料金所から入ると『郡上八幡城から町を見下ろす』らしき所がある。
 天守台のそばのみやげ物屋で床几を借り、弁当を食った。ついでに味噌でんがくを注文し(後略)(『街道をゆく 4』「郡上・白川街道」 司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)
と『街道をゆく』にある。
ちょうど僕らもここで昼ころになりそうなので、ここで昼にしようかと考えていた。
ところが売店はあるのだが、味噌でんがくはないし、ほかに食事になるようなものもなかった。

須田剋太『郡上八幡城から町を見下ろす』 郡上八幡城
須田剋太『郡上八幡城から町を見下ろす』

* 郡上八幡I.C.から東海北陸道に入る。
郡上八幡城で食べそこねたので、ひるがの高原S.A.で昼食にそばを食べた。
東海北陸道が開通したのは1986年以後のことで、司馬一行が来た1972年にはまだなかった。
山道の長い行程だったろう。
郡上八幡I.C.から荘川I.C.まで40キロほどで、食事の時間を除けば30分ほどだったろうか。


■ 荘川桜
岐阜県高山市

庄川に沿って国道156号を北上すると、御母衣(みぼろ)ダムでせきとめられてできた御母衣湖が現れる。
郡上市では、長良川が南へ太平洋に向かっていたが、ここでは庄川が北へ日本海の富山湾に流れている。

御母衣湖の西の湖岸に展望台があり、桜の大木が2本ある。
ダムにより水の底に沈むことになる光輪寺と照蓮寺の桜が移植されている。
樹齢400年以上とみられる古くて大きな桜を移すには、人の側にもたいへんな物語があった。
(移植された1960年には、ここは岐阜県大野郡荘川村だったので「荘川桜」となった。その後2005年に高山市に編入されている。)

須田剋太『御母衣ダム アヅマヒガン桜』 荘川桜
須田剋太『御母衣ダム アヅマヒガン桜』

須田剋太が描いた絵では、桜と桜のあいだに石碑がある。
このあと寄った「MIBOROダムサイドパーク 御母衣電力館」には、桜の移植に関わるいきさつを説明する資料や写真を展示してあった。
ここで石碑のことをたずねると、桜の間にあっては根に荷重がかかるので移動したとのことだった。

■ 御母衣ダム・MIBOROダムサイドパーク
岐阜県大野郡白川村牧140-1

御母衣湖に沿って走ると御母衣ダムにいたる。
岩石や土砂を積み上げて建設するロックフィルダムで、1961年に竣工しているから国内のこの形式のダムではとても早い時期にできている。


僕は1970年代に見にきたことがある。ふつうのダムは表面がのっぺりしているのに、大量の石が大きな斜面を作っていて、巨大でありながら繊細という新鮮な印象を受けたのを覚えている。
御母衣ダム

* 3キロほど北に行ったところに旧遠山家がある。

■ 旧遠山家民俗館
岐阜県大野郡白川村御母衣125 tel.05769-5-2062


白川郷と五箇山では、茅葺きの家が集落を作っているが、遠山家は道に面して1軒だけある。
旧遠山家民俗館

司馬遼太郎がここを訪れたとき「まだ十代かとおもわれるようなきれいなお嬢さんが」受付にいた。
どこから来たかたずねて、それをノートに記録する。
料金は百円だった。こういう節度のある博物館形式というのは、変な観光寺より気分がいい。(中略)
この建物について変な節(ふし)入りの説明などしないのも爽やかな感じがある。必要な説明は彼女がくれるパンフレットにすべて書かれているのである。
僕らが行ったときは、壮年の男性がいて、料金は300円。
パンフレットがあって余計な説明がない簡潔さは相変わらずだった。

この家や合掌造りに関わる人の写真と説明文を記したパネルが並んでいるなかに、ブルーノ・タウトがいる。
タウトは1935年にここを訪れ、タウトの評価により日本で合掌造りの価値が広く認められるようになったといわれる。
ブルーノ・タウトと、その日本滞在中の庇護者で実業家の井上房一郎のことは、僕の前からの関心事で、ここでは司馬遼太郎・須田剋太のことと重なる。
御母衣の一番大きい立派な家に着いた。(中略)
 この辺の家は、いずれも約六十度の急勾配をもつ藁葺屋である。構造は実に論理的、合理的で、日本の建築では全く例外に属するものだ。(『日本-タウトの日記-一九三五~六年』ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975)

* 北に走って白川郷の合掌集落を過ぎるとまもなく道の駅があり、その向かいにお宮がある。

■ 飯島八幡宮・道の駅白川郷
岐阜県大野郡白川村飯島 (道の駅tel.05769-6-1310)

飯島八幡宮では年に1度、10月半ばに、どぶろく祭りというものがある。
司馬遼太郎一行がきたとき、ちょうどその祭りの日だった。
運よくその日にあたっていたから、薄暮の境内に入って、仮設の社務所でどぶろくを買った。一ぱい二百五十円である。(中略)結構酔っぱらってくだを巻いている樵夫(きこり)などがいて、いかにも山中の祭礼らしかった。
須田剋太の絵では、舞台の屋根は茅葺きのようだし、司馬遼太郎の文章では社務所は仮設となっている。
ところが今は現代建築になっている。
「宝くじは 豊かさ築く チカラ持ち。」
という表示があったから、宝くじの補助金で建ったもののようだ。

須田剋太『飯島八幡宮のどぶろく祭村芝居』
須田剋太『飯島八幡宮のどぶろく祭村芝居』
飯島八幡宮

国道をわたって反対側にある道の駅で作業する人に飯島八幡宮のことをたずねると、「駅長さんが詳しいから」と取り次いでいただけた。
なるほど道の駅のトップの方は「駅長」といわれる。
駅長さんによると、やはり数年前に建て替えたとのことだった。
前は祭りのときには本堂前の木と舞台を結んで幌をかけたので、風が吹くとあおられてたいへんだったという。今は客席になるあたりを骨組が囲っているから、祭りの日にはしっかりした覆いがかけられるのだろう。
どぶろくは集落の人が3班で交替制で作っている。(だから3年に1度、作る番がまわってくる) 
今年のは裏の倉にもう仕込んであって、できがいいから、また祭りのときにいらっしゃいとすすめられる。
祭りには観光バスなどで遠くからも人がきて、自分で運転する人には、神社に奉納すると持ち帰り分が渡されるという。

* また北に向かう。
合掌集落は岐阜・富山両県にあり、岐阜では白川郷、富山では五箇山になる。
2県の県境付近は川が蛇行していて、県境は川の中心に定めてある。
道は蛇行しないでほぼ直線で「川=県境線」を貫いている。
それで走っていると、橋を渡るごとに「岐阜県」「富山県」の標識が現れて、珍しくてめまぐるしい。

五箇山の集落に入る。
国道の東側に今夜泊まる赤尾館、西側に行徳寺と岩瀬家住宅が隣り合っている。
夕方近くで岩瀬家住宅の公開時間の終わりが迫っているので、まずそちらに入った。


■ 岩瀬家住宅
富山県南砺市西赤尾町857-1 tel.0763-67-3338

囲炉裏が焚かれていて、そこに座ってご主人の話をきいた。
奥様は売店のいすに腰かけて、ご主人が話すのを一緒にきかれている。
そのあと家のなかを拝見した。
とても大きな家で、実際にお二人がここに住まわれている。
公開するために整理してあるからか、拝見したところでは生活感はほとんど感じられないのだが、仏間に入るとリアルで、こんなところまでお邪魔してしまってよかったろうかという気がするほどだった。
大きなかやぶき屋根の葺き替えはたいへんなことで、片側ずつするが、その片側だけでもふつうの家を新築できるほどの経費がかかる、それで維持できなくて今様に建て替わっていくとご主人がいわれる。

須田剋太『西赤尾岩瀬家』 岩瀬家住宅
須田剋太『西赤尾岩瀬家』

■ 春の宵ライトアップ

 五箇山集落の各地で、季節ごとに数日ずつライトアップのイベントが開催されている。僕らが行った日は、今夜の宿からやや北にある菅沼合掌集落で「春の宵ライトアップ」が行われているので、宿にチェックインしてから夕飯前に見に行った。

菅沼合掌集落「春の宵ライトアップ」
日が長い時季のことで、まだ空に明るみが残っているのが田んぼに映る。
空き地で民謡と踊りが歌い舞われる。
里の夕暮れの情緒にひたる。

● 五箇山温泉 赤尾館
富山県南砺市西赤尾396-1 tel.0763-67-3321

今夜の宿の赤尾館に入る。
ここは合掌造りではなく、現代の2階建てで、バストイレ付きの洋室ツインルームに泊まる。

玄関のロビーに、司馬遼太郎がここに泊まったときのこした書が壁にかけてあった。
 目が醒め
 れば暦がなく
 そのあたりは
 真青な
 ひかり
 赤尾の山
 の中
 昭和四十七年十月
 須田剋太氏と
とある。
原文は縦書きで、右下に「司馬遼太郎」のサイン、左下に須田剋太の「剋」のサインがある。
『街道をゆく』で訪れた地で、司馬遼太郎が色紙に文字を描くとか、須田剋太が風景や訪れた家のひとの肖像を描くとかは、いくつか見たことがあるが、2人連名の豪華なものは初めて見た。
その左に写真があって、写っているのは、司馬遼太郎/女将の妹/女将の3人。
女将は亡くなられたが、いま宿を経営するご子息夫妻に話をうかがった。

この宿には名だたる人が多く泊まっていて、色紙がいくつもあるのを見せていただいた。
長い歴史のある宿にふさわしく、丁寧に包んで保存してある。
(上記の司馬遼太郎と須田剋太連署の色紙も、ロビーにはコピーを作って公開している。)
色紙の束をみるうち、須田剋太が花を描いたものがでてきた。
「酔芙蓉花」の文字があり、「剋」のサインがある。
司馬と連名のもののほかにこうして須田剋太がひとりで描いたものもあって、この宿への思い入れは深かったようだ。
余談だが同行の妻はアリスのファンで、谷村新司のサインもあって喜んでいた。岩瀬家でポスターの撮影をする仕事があり、泊まったという。

食事はニジマスと豆腐の刺身とか、飛騨牛とか、この地ならではの食材をいかしたもので、とてもおいしかった。
酒はビールで渇きをいやしたあとに、宿に着いたときお願いしておいた骨酒があらわれた。司馬遼太郎がこの酒のことを書いている。
 食事半ばに、コツ酒というものが出てきた。
 大きな深皿に、よく焼いたイワナが1尾ずつ入っている。焼きたてでなければならない。それへ、銚子の酒を二本、じゅっと音の鳴るような注ぎ方で注ぎこむのである。(中略)なるほど酒がおそろしく香(こう)ばしくてうまい。酒がからになったあと、編集部のHさんが代表でイワナに箸を入れた。どうですか、ときくと、酒好きのHさんは顔じゅうくしゅくしゅにして、
「ええ、-これは」
 旨いです、といった。
僕は、もう30年以上前になるが、立山山中の室堂にあるみくりが池温泉で骨酒を飲んだことがある。
そもそもそこへ行こうと言いだした人が酒好きで骨酒を楽しみにしていて、夕飯のときに注文した。
司馬遼太郎はどこの街道でだったか「私は食について冒険心がない」ということを書いていたが、僕もその点は同様で、珍味とか食通好みとかいわれるようなものはだいたいあわなくて、骨酒にも警戒した。
刺身や焼き魚を食べながら日本酒を飲むのは嫌いじゃないが、魚と酒がダイレクトに結びついていてはどうだろうと思った。
ところがコップに入った酒は、ほのかに香ばしく、気にいった-ということがあった。

ところが五箇山の骨酒はずいぶん違う。
あとでウィキペディアをみると「焼き魚で肉をとったあとの骨や鰭(ひれ)などをふたたび火にかけてあぶり、少し焦がしてコップなどに入れ、熱燗の酒をこれにそそぐことで日本酒に独特の香味を付けて味わう」とある。
室堂で飲んだのはこれだった。
ウィキペディアでは、つづけて「岐阜県など中部地方では焼いた魚をそのまま燗酒に浸して賞味する。使うのはイワナ、アユなどの川魚。一種スープのような味わいで、口当たりが良い。」とある。
この宿のはこちらのほうで、たしかにスープのようにとろっとしている。
室堂の骨酒は香りのよい澄んだ酒というふうで、酒に強い同行者はおかわりをしていた。
五箇山の骨酒はこれで料理の一種というくらいの重みがあるものだった。

五箇山温泉 赤尾館

翌朝は名物の朴葉味噌を味わった。朴の葉に味噌をしいてあり、サケと豆腐と野菜をくるんで焼く。
さりげないが絶妙な組み合わせで、香ばしくておいしい。

この旅では2泊して、どちらも司馬遼太郎、須田剋太らが泊まったところで、ここに泊まったのだなという感慨もあり、宿としてもいい宿だった。
宿がいいと旅全体の満足感がましてうれしい。

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第3日 富山に戻って散策する [行徳寺 五箇山生活館 村上家住宅 神通川河口(富山港展望台) 富岩運河環水公園 富山駅]

* 赤尾館を出て、まず道の向かい側の行徳寺へ。

■ 行徳寺
富山県南砺市西赤尾825 tel.0763-67-3302

浄土真宗の寺で、蓮如上人の高弟、赤尾道宗(どうしゅう)が室町時代末期に開いたといわれる。
その後ずっと道宗(みちむね)姓の僧が守ってきて、室町から続く家系に司馬遼太郎が驚いている。
赤尾館のご主人も縁戚関係にある。

本堂のわきの住まいをたずねてみると、住職は不在で、夫人がいらした。
司馬遼太郎一行がやってきたときはまだ学校通いで、家に帰ったら司馬遼太郎さんが来られたと聞いたという。

寺に開祖道宗の像があるのを映像で見たことがある。
体の右を下にして、こちら向きに横たわっているのは、よくある釈迦の涅槃像のようだが、下に薪を幾本も敷き並べたうえにいるのが変わっている。
右手を右耳あたりにあてて頭をささえ、目をつむっている。
すっと両足をそろえて伸ばしていて、足の指の先端が10本、きれいに垂直に並んでいる。
目をつむった表情とか、そろった足の指とか、かすかにユーモラスな感じもある。
道宗の弟子か、すぐあとの時期の人が作ったと寺では伝わっているとのことだった。
お参りする人のなかに薪のうえに寝ていることから「臥薪嘗胆」の像を見たいと言われる人があるが、「私のようなものは心がけを忘れないようにしたい」というつつましい思いであって、奥義をきわめるために厳しい修行をするというようなのとは違うといわれる。
簡素な造形も、その思いも、いいものだと思う。

茅葺きの山門を須田剋太が描いている。

須田剋太『西赤尾行徳寺鐘堂山門』 行徳寺
須田剋太『西赤尾行徳寺鐘堂山門』

* 菅沼に向かう。

■ 五箇山生活館
富山県南砺市菅沼855 tel.0763-67-3303

夕べ夜景を見に行った菅沼合掌集落の近くの「五箇山合掌の里」に展示施設がある。
エリアス・トーレス&マルチネス・ラペーニャというスペインの建築家が設計して、1999年に建った。
富山県では中沖豊県知事の発案で1990年から「まちのかおづくり」という事業が行われた。外国人建築家の設計により地域の象徴となる建物をつくり、その地域を見直し、刺激を与えて、地域おこしの核とするというプロジェクトだった。
あえて外国人建築家としたところがポイントで、地域の特性を尊重するとしても異質な感性がはいりこむことになる。


五箇山生活館では、壁に石をはめこんである。合掌造りの土壁が河原の石で支えられているのを参照している。
屋根はゆるくたわませて上に草を植え、風景になじませている。
五箇山生活館

内部の展示は、五箇山の生活や文化・風習をコンピューターグラフィックや光・音によって紹介しているが、かたすみに資材だか廃品だかが積んであって、五箇山の魅力を伝えるという目的はあまり果たされていないふうだった。

* 国道156号を東へ、庄川に沿って走ると、重要文化財の村上家がある。

■ 村上家
富山県南砺市(なんとし)上梨742 tel.0763-66-2711

須田剋太『合掌造り村上家』
須田剋太『合掌造り村上家』
『街道をゆく』の一行はここを訪れて、当主の村上忠森氏と、その母の雪さんから話をきいている。一時は東京に出ていたが今はこちらに戻って家を継いでいくという長男の忠兵衛氏も一緒だった。
今、訪れると、忠森氏と雪さんは亡くなられ、忠兵衛氏がいらした。
須田剋太が描いた挿絵については、その場でスケッチをしていたが、仕上げて掲載された絵は、人を並べ替えていて、記念写真のようなものといわれる。
古くからつたわるこきりこ節を、ささらという楽器をならしながらきかせていただいた。

村上家

□ 山ノ神峠

 司馬一行は国道156号を先に進んで山道に入った。
山ノ神峠というところでタクシーの運転手に教えられて山ぶどうの木を見ている。
ただこのときなぜわざわざ山道に入って行ったのかはわからない。
須田剋太が『山ノ神峠』という絵を描いているが、山中の景色は特定しにくいし、これから富山市に向かうのに遠回りになるので、そこはパスする。

□ 立山風土記の丘

富山市では司馬遼太郎は『街道をゆく』とは別の用事があった。
 このため、須田画伯といったんわかれた。須田さんはこの機会にいっそ立山までゆき、登るだけの時間がないにしてもふもとの景色などを見てきたいという。
夜になってまたおちあい、帰りの汽車のなかで須田さんが立山のふもとのことを話すには、カモシカを飼っている人に会ったという。人に馴れないことで知られるカモシカをついに馴らすことに成功したということだった。

『街道をゆく』「郡上・白川街道と越中諸道」 の最終回(最終章)には、『立山風土記』と『立山風土記の丘』という2点の絵がある。

須田剋太『立山風土記の丘』 須田剋太『立山風土記の丘』

どうやら須田剋太は「立山風土記の丘」に行ったらしい。
ところが1972年に発足した「立山風土記の丘」は、その後1991年に富山県[立山博物館]に衣替えして新規開館している。
ホームページを見ると、この博物館は孤立した建物におさまった展示施設ではなく、広い範囲に展示館や庭園やかもしか園といったものが散在している。ただ行っても挿絵の地を見つけだすのは難しそうなので、出発前に博物館に照会したところ、こういう回答をいただいた。

・ 挿絵にあるのは「風土記の丘」時代の古屋敷縄文遺跡または不動平縄文遺跡周辺と考えられる。
・ ただし、立山博物館が建設されるよりも前に、竪穴住居は撤去されたと聞いた。豪雪地帯のため竪穴式住居を維持するのはかなり困難であったと思われ、博物館建設当時には何もない状態だった。

回答からすると、いま行ってみても挿絵の風景には行き会えないことになる。
それにしても立山博物館にはひかれるのだが(磯崎新の展示館・遙望館とか、六角鬼丈のまんだら遊苑とか)、旅の最終日、市街から片道1時間ほどかかる博物館より、市街に見たいものがあるので、立山博物館もパスすることにした。

* 村上家から五箇山方面に戻り、五箇山I.C.から東海北陸道に入る。
この旅では前半「飛騨紀行」は神通川(上流では宮川)に、後半「郡上・白川街道と越中諸道」は庄川に沿って移動する旅だった。
(それらは北流して日本海に注ぐ川だが、南流して太平洋に注ぐのは「飛騨紀行」では飛騨川(下流では木曽川)に、「郡上・白川街道と越中諸道」では長良川になる。)
川の上流、中流に行くと、その河口も見ないと僕はどうも気持ちが落ち着かない。
神通川も庄川も、旅の終点の富山市で日本海に入るのだが、2つともに行く余裕はないので、庄川はあとの楽しみにとっておくとして、神通川だけ行くことにした。
神通川の河口あたりでは、富岩運河が並行して、その運河の右岸に展望台がある。

■ 富山港展望台 [河口ビューイング/神通川]
富山市東岩瀬町海岸通り5 tel.076-439-0800 9-16:30

富山港展望台は、港に北前船が出入りしていた時代の常夜燈を模した外観をしている。
常夜燈は陸の街灯+海の灯台のようなものだったろう。
上がると最上階はガラス張りで四方が見える。
港の展望台だが、僕にとっては河口の展望台で、河口を広く見わたせるこういう高所があるのはうれしい。

描こうウォッチング 神通川

中州状の細い帯の先端に石油備蓄基地らしいものがあり、タンカーが停泊している。
その向こう側が神通川、こちら側は富岩運河。
神通川の河口はすっかり人工物でおおわれていた。
展望室の反対側にまわると、足下に岩瀬という集落の町並。

■ 富岩運河環水公園

富岩運河は神通川に並行して5キロほどの長さがある。
南端は富山駅から歩いて数分のところで、水辺が公園になっている。
富山駅に戻る道を歩いていくと、青い空、青い水面、やわらかな日差し-こんな日に水辺を歩くと気持ちが晴れ晴れしてくる。

富岩運河

駅から近くにある回転寿司の店に入った。
富山では寿司が(回転寿司でも)おいしいというので、駅から近い店に見当をつけておいた。
指定席をとってあるかがやきに間に合わせるので、ちょっとせわしかったけれど、寿司と酒にとても満ち足りて店を出た。
外はまだまだ明るい。
日が長い季節の旅はこういうのんびり感も好き。
お酒もハイペースで飲んだので、かすかにクラっとして、いい気分だった。

北陸新幹線かがやき

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参考:

  • 『街道をゆく 29』「飛騨紀行」  司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1987
  • 『街道をゆく 4』「郡上・白川街道」  司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1974
  • 「現代に生きる飛騨の建築」 津村泰範 『週刊司馬遼太郎 街道をゆくno.46』 朝日新聞社 2005
    「同行者の力』 鶴見俊輔 同
  • 『建築の修辞』 磯崎新 美術出版社 1982
  • 『君の名は。』 新海誠監督 東宝 2016
  • 『日本-タウトの日記-一九三五~六年』 ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975
  • 『今昔「飛騨から裏日本へ」-タウトの見たもの』 笹間一夫/著 井上ハツエ/刊 1979
  • 『プラネタリウムの外側』 早瀬耕 早川書房 2018
  • 2泊3日の行程 (2017.5/26-28) (→電車 -レンタカー ~船 …徒歩)
    第1日 富山駅-金龍寺-神岡振興事務所・図書館-道の駅 宙(スカイ)ドーム神岡-ドライブイン数河-[飛騨古川]円光寺・三嶋和ろうそく店-[高山]洲さき・高山陣屋-水無神社-臥竜桜・飛驒一ノ宮駅-下呂温泉湯之島館(泊)
    第2日 -温泉寺-中山七里-境橋-港橋-郡上八幡城-荘川桜-御母衣ダム-旧遠山家民俗館-飯島八幡宮-岩瀬家住宅-五箇山温泉赤尾館(泊)
    第3日 行徳寺-五箇山生活館-村上家住宅-富山空港-神通川河口(富山港展望台)-富山駅→TOYAMAキラリ(富山市立図書館本館+富山市ガラス美術館)→富山駅…富岩運河環水公園…富山駅