大阪から奈良へ竹内峠を越え、京都でコンサートを聴く


東大阪で須田剋太作品が出品される展覧会がある。
その作品の所有者の通崎睦美さんは木琴奏者で、京都でコンサートがある。
どちらにも行くことにして、そのあいだの日に『街道をゆく』の「1竹内街道」(たけのうちかいどう)と「7大和・壺坂みち」をたどった。

第1日 須田剋太の肖像画の人の展覧会 [関西空港 ちくま 高島屋史料館 東大阪市民美術センター 天王寺(泊)]  
第2日(午前) 「竹内街道」:竹内峠を歩く [竹内峠 カミの池 竹内村]
第2日(午後) 「大和・壺坂みち」:大和を自転車でめぐる [壺阪寺 高取城 高松塚古墳 橿原(泊)]
第3日 須田剋太の肖像画の人のコンサート [奈良県立磯城野高等学校 東本願寺 大丸京都 大丸ヴィラ 高山彦九郎像  通崎睦美コンサート 京都駅]

* 「1竹内街道」のうち、石上神宮から三輪山にいたる南北の道(山の辺の道)については[春の奈良めぐり-「奈良散歩」ほか]にあり、この旅は竹内峠を越える東西の道に行った。
* 「7大和・壺坂みち」のうち、今井の環濠集落についても[春の奈良めぐり-「奈良散歩」ほか]にあり、この旅は高松塚古墳、高取城、壺阪寺に行った。

第1日 須田剋太の肖像画の人の展覧会 [関西空港 ちくま 高島屋史料館 東大阪市民美術センター 天王寺(泊)] 

* 京都には先月も行ったばかり。また新幹線で往復するのは新鮮な感じがしないし、最初の目的地が大阪なので、JETSTARで成田空港から関西空港に向かう。

飛行機から鎌倉を見おろす
左の席に座ると鎌倉がよく見えた。山に囲まれて三角形の平地がある。若宮大路がまっすぐ海に向かって伸びて、ぶつかるところで七里ヶ浜が波を受けて白いゆるやかな弧をえがいている。
まもなく江ノ島があり、相模川河口、富士川河口、浜名湖と、東海道南岸に沿っていく。

関西空港に降り、難波行きの南海電車に乗り、途中の堺で降りて寄り道する。


堺の自転車の人
堺駅近くで。
後ろ姿が隠れてしまうほど、ふくらんだ袋をいっぱいのせた自転車がゆらゆらと追い越して行った。

● ちくま
大阪府堺市堺区宿院町西1-1-16 tel. 072-232-0093

2年ほど前に「堺・紀州街道」をたどったとき、ここでそばを食べた。
とくにメニューはなくて、もりそば1種類のみ。席につくと、1斤か、1.5斤か、量だけをきかれる。

とにかくシンプル。つゆにネギと、生卵を割っていれて、そばをつけて食べる。
独自なところは「熱い」こと。
つゆの入れ物には、持つときやけどしないようにおしぼりが添えてある。
そしてそばも熱い。
堺 ちくまのそば

それだけなのだが、一度食べたら忘れられない味として覚えてしまった。
いつか機会があったらまた食べたいと思っていた。
今度の旅はちょうどいい機会というほどのものではなく、まだ最初の目的地へは先が長いのに、あえて電車を途中で降りて寄った。
そして期待どおりにうまい。
口に入れると、ふくよかで滋味ゆたか。こんなふうにあたたかな思いで満たしてくれるそばというのはほかになかなかない。

店のつくりもおもしろい。
セメント工場のような外観。(粉を扱うから似ていて不思議はないか)
路地のような廊下から、下足番の人が指示する位置の棚に靴を置いて、座敷にあがる。

店に入るとき、国道側の入口から入った。
駅に戻るとき、裏の細い道を通った。
本来はこちらが正面のようで、のれんもかかっている。
玄関の上の窓にベニヤ板を打ちつけてあり、「2階窓工事中につき入口は駐車場側より宜しくお願いします」とある。
前に来たときもそっくりそのようで「あいにく工事中に来てしまったのだな」と思ったのだが、2年たってもそのまま。工事をしているふうはないし、長期間かかるほどの大工事でもなさそう。
「工事中」ということにして、ずっと閉じたままのようだ。
このとぼけた感じもおかしい。
堺 ちくま

もう一度食べれば気がすむかと思ったが、こうして書いていても思いだして恋しくなる。
また関空に降りるときには寄ってみよう。

■ 堺駅観光案内所

堺駅に戻る。これから近鉄花園駅に行きたいが、乗りかえがわからないので観光案内所で教えてもらった。
窓口の女性に堺のことではなくよそのことを尋ねたので、堺はもう見たのかきかれた。
「2年前にたっぷりまわって、今日はそばを食べたいためだけに途中下車した」とこたえると喜んでくれて、幸運があるようにと、四つ葉のクローバーのカードをもらった。
ささやかだけど、旅のはじめでこういうことって気分がいい。

* 南海日本橋駅で降りる。
近鉄日本橋駅へ乗りかえるのだが、標識にしたがって素直に行けばよかったのに、おもしろそうな細い道を選んで歩いているうちに、方向を間違えた。
高島屋のビルがそそる姿をしているので行ってみたら、デパートとして営業しているのではなくて、一般公開部分としては高島屋史料館があった。


■ 高島屋史料館
大阪市浪速区日本橋3-5-25 高島屋東別館 tel. 06-6632-9102
高島屋史料館

高島屋の美術部門は長い歴史があり、ゆかりの日本画だの洋画だのが展示してある。それくらいは、まあなるほどなのだが、1955年に東京高島屋で「ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展」が開催されたことがある。そのことは聞き覚えがあったが、ル・コルビュジエによるタピスリとか、シャルロット・ペリアンのデザインの飾り棚とか、そのとき展示された現物がこういうところにひっそりと(というのは僕がうとかっただけかもしれないが)保存され公開されていることに驚いた。
道に迷うのもわるくない。

* ロビーにいた警備員に道をたずねて近鉄日本橋駅に行き着く。
近鉄奈良線に乗り、東花園駅に降りる。
ホームから、進行方向に山があって上に鉄塔がいくつも立っているのが見えた。
山は生駒山で、その向こうに奈良がある。
明日はもっと南にある竹内街道を通って大阪から奈良に入る。


■ 東大阪市民美術センター
東大阪市吉田6-7-22 tel. 072-964-1313

この旅にこの時期に来た理由の1つが、ここで開催中の『通崎好み 通崎睦美選展 コレクションとクリエイション』という展覧会を見ること。
この展覧会を企画した学芸員の酒野晶子さんと16時にお会いする約束をしているが、大阪あたりにくるといつもたよりにしている友人の橋本博行さんとはそれより早く15時に美術館のロビーで待ち合わせて、展示を見た。
東大阪市民美術センター ポスターは通崎睦美展

通崎さんは京都市在住で、マリンバ・木琴奏者であり、本も書き、着物のコレクションでも知られる。
通崎さんがこどものころ、京都大丸の新年の企画で、画家が希望者の肖像画を描くというものがあった。両親が毎年、熱心に応募したおかげで、10年にわたって須田剋太に肖像画を描いてもらうことになり、お姉さんも一緒に描かれたため、会場には、計20枚の作品がずらりと壁に展示されていた。
須田剋太にとってというだけでなく、ひとりの画家が10年も同一人物の肖像を連続して描くというのは、とても珍しいことだろう。
剋太はしばしば激しい色、激しい筆致で描くが、晴れ着を着た少女のやわらかな華やかさというのはまた格別で、目にこころよい。
長いつきあいのうちにこの家族はしだいに画家にとっても特別な存在になり、年賀状を送ったり、通崎家の表札を書くようなこともあったという。それらも展示されていて、画家と家族の温かな信頼関係が想像できる。

展覧会では、須田剋太関連のこともとても独自とはいえ、まだ 通崎ワールドのごく一部で、着物や木琴にかかわることもあって、多様な世界が展開していた。コレクションそのものがたいそうだが、通崎さんのさえた感性が加わった展示もみごとだった。通崎さんはマリンバと木琴の演奏家で、ベースは音の人といっていいのだろうが、色の人ともよびたいくらいな気がした。

東大阪市民美術センター『通崎睦美展』 須田剋太『新春初姿 通崎睦美女肖像』
須田剋太『新春初姿 通崎睦美女肖像』

肖像画を描かれたときに着ていた着物も会場に展示してあり、肖像画との一致に気がついた人を驚かせる。
       ◇       ◇
東大阪市民美術センターでは、1997年から2006年まで、『街道をゆく』原画展を10回開催してきた。
その展覧会を企画したのが学芸員の酒野晶子さんで、埼玉県鴻巣市で毎年開催されている須田剋太展に酒野さんが来られたこともあるし、東大阪での展示に須田剋太研究会のメンバーが見に来ていることもあり、おつきあいは長い。
16時に酒野さんにお会いした。
酒野さんは布・染め・着物への関心があって通崎さんに展覧会を打診したところ、その通崎さんが須田剋太のユニークな作品群をお持ちで、展覧会に須田剋太関連の展示が現れることになった。
すでにある着物や絵のコレクションだけでも、選ぶのに悩み、配置に悩み、さらに新しい作品が加わるから、無事に展覧会が始まるまでのアーティストと学芸員とその他の関係者の集中はたいへんなものだったろうと思う。
そんな話をきいているうちに時間が経ってしまった。あとでもう一度展示室に戻ろうと思っていたのだが、閉館時間が迫ってしまって、もうちょっと見たかったというかすかな悔いが残った。
でもいつかまたこんな機会があるだろうと楽しみにすることにする。

東花園駅
* 友人と食事をして東花園駅で別れる。
近鉄線を鶴橋で降り、環状線に乗りかえて天王寺駅で下車。
駅から近いホテルにはいる。

● ホテルバリタワー大阪天王寺
大阪市天王寺区悲田院町8-1 tel. 06-6774-2631

無理のない宿泊料の範囲で、できるだけありきたりでないホテルに泊まりたい。
南洋のバリをイメージしたリゾートふうホテルという広告にひかれてここを選んだ。
でも、ほんとのリゾート地にあるわけではないから、ビルのなかにいろいろ遊ぶ施設を密に配置してあり、広くてのどかな開放感は乏しい。ひとりで泊まってはとくに遊ぶこともなく、ちょっと違うところに泊まってしまった感じだった。

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第2日(午前) 「竹内街道」:竹内峠を歩く [竹内峠 カミの池 竹内村]

* 『街道をゆく』の「竹内街道」と 「大和・壺坂みち」をたどったとき、それぞれに行き残したところがあった。(→[春の奈良めぐり-「奈良散歩」ほか])
午前中は「竹内街道」、午後は「大和・壺坂みち」をフォローして歩く。


■ 上ノ太子駅
大阪府羽曳野市飛鳥816-1

大阪阿部野橋駅から近鉄南大阪線に乗り、上ノ太子(かみのたいし)駅で降りる。
ここからずっと竹内街道を歩きとおすとほんとうの街道歩きになるが、午後に別コースに行く都合があって時間が足りない。
大阪側の西半分はタクシーに乗って竹内峠まで上がってしまい、奈良側の東半分を歩くことにする。

上ノ太子駅の改札口を出てみると、丘陵のなかに駅だけポツンとある。
太子町の市街はやや離れているし、そもそもこの駅は太子町ではなく、羽曳野市のはずれのほうにある。
近鉄タクシーに電話すると、タクシーがそちらに着くまでに10分くらいかかるといわれる。
あたりを見まわすと丘がうねり、高架の南阪奈道路が貫いている。
いったいどこからタクシーがやってくるのだろうとかすかに不安になるくらいだが、ほぼ予告された時間でタクシーが現れた。

* このあたりの丘の斜面には、栽培物らしい同じ樹種が固まってある範囲を占めているのが、あちこちにあって、明るい景観になっている。
タクシーの運転手さんに、斜面の作物はブドウだろうかときいてみた。
「私はここの出身ではないのでわからないが、チョーヤの梅酒の本社が近くにある。近鉄のタクシーに勤めて知った」という。
あとで調べると、なるほど梅酒で有名なチョーヤの本社は羽曳野市にある。
会社の起源は葡萄栽培にあり、それからワインも作るようになった。蝶矢洋酒醸造株式会社といったが、ぶどうのワインから梅酒や薬草酒にシフトして、2000年には社名をチョーヤ梅酒株式会社に改称している。
太子町あたりはぶどうの名産地だということもあとで知った。


■ 竹内峠(たけのうちとうげ)

去年の春、「竹内街道」の一部をまわったときには、レンタカーで奈良県側から走って来た。国道は片側一車線ずつの狭い切り通し状の道で、まるで水を抜いたプールのなかを走っているふう。様子をみるために一時的に車をとめるだけでもはばかられる道だった。ひたすら走って峠を大阪府側に越えてしまい、やや行ってようやく余裕のあるところがあって車の向きをかえ、奈良県側にただ引き返してしまった。
今回は大阪府側からタクシーで上がってきた。
峠の頂点はタクシーでもやはり停車しにくくて、すこし奈良県側に過ぎたところでかろうじてやや広いところあって、タクシーを降りた。

竹内峠 竹内峠の最高部付近。
右が国道166号、左が旧竹内街道で、先方が大阪府、手前が奈良県。。
タクシーを国道で降りて見回して、ようやくこの旧街道への入り口を見つけられた。

竹内街道は、大阪府堺市と奈良県葛城市を結ぶ東西にのびる道で、大阪と奈良の府県境を竹内峠で越える。
難波(大阪)と京(飛鳥)を結ぶ重要な道で、7世紀に整備された最古の官道。
遣隋使が通り、シルクロードからはるばる来た仏教もこの道を通って大和へ入った。のちにさかんになった伊勢参りにもこの道がつかわれ、茶屋や旅籠でにぎわったという。


峠より奈良県側に、旧竹内街道の一部が峠趾公園のようになっている。
竹内峠の碑

右の石碑は「竹内嶺開鑿碑」。明治28年(1895年)とあるから、明治期に車道を設けたときの記念碑だろう。
中央の石柱には「これより東は奈良県管轄」といったことが刻んであるので、右の石碑と同年代のものと思える。
左の石碑の下部には、竹内街道の歴史のかんたんな説明がある。
上部には「鶯の関趾」と題されて、康資王母(やすすけおうのはは)の歌が記されている。

 我おもふ こころもつきず 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関

ウグイスがすむ関として知られていたようなのだが、こんなものを眺めたりしている間、ほんとうに今もうぐいすの鳴き声がきこえている。どこかにスピーカーでもあって人工的に声を流しているのかもしれないと、さびしい疑いをいだいて見まわしてみるが、そんなものはなさそう。そもそもこんな道端にしかけをしても観光的効果はないだろう。
古来のゆかしいニックネームのままに愛らしい鳥の声がきこえることがうれしくなる。


須田剋太が『竹内峠頂上路』と題した絵を描いている。
左にある先がとがった石碑らしきものが、上の写真のいちばん右の「竹内嶺開鑿碑」に似ていなくもない
須田剋太『竹内峠頂上路』

『街道をゆく』の文章には、竹内峠についての記述はない。
司馬遼太郎の取材一行は、奈良県葛城市側から竹内街道を西に進んできたが、峠への上り坂が始まるあたりのカミの池で車が故障してしまう。

 私どもの車は、この池のそばで自然に停止してしまった。(中略)われわれの小さな旅行はこのカミの池までで終らざるを得なかった。
 星あかりを頼りに池をのぞくと、水がなく、闇の府が虚(うつろ)になっていて、ちょうどいまが池さらえの時期であることがわかった。(『街道をゆく 1』「竹内街道」司馬遼太郎。 以下第1日の引用文について同じ。)

『街道をゆく』の「竹内街道」はこう結んで終わっていて、峠には達していない。
この絵が描かれるまでの可能性として、救援の車に迎えにきてもらうかしていったん奈良県側に戻って泊まる。翌日、きちんと走る車で竹内峠にあがり、ここで降りて描いた-ということがありうる。
ただしこのあたりは司馬遼太郎の自宅に近く、さらっと出かけてきた感じがあって、1泊したとはほとんど考えられない。救援の車が用意できれば、西に走って帰ったろう。
須田剋太の西宮の家からも遠くはないので、いったん帰ったあと、須田剋太だけ出直してきて描いたということもありうる。(実際、『街道をゆく』の旅のあと、足りない挿絵を描くために須田剋太が出なおすことがあったと、須田剋太の近くにいる人からきいたことがある。)
もう1つの可能性としては、写真かなにかの資料を参考にして描いたかもしれない。

竹内峠で、山歩きの人に出会った。
二上山、葛城山、金剛山などとつづく大阪と奈良の府県境の山塊をむすぶ山道がダイヤモンド・トレイルと名づけられている。
東西方向の竹内街道と、南北方向の山道が、竹内街道で交差しているわけだ。
20代か、快速で山を抜けていきそうな、軽快な印象のひとだった。

* ゆるい勾配の旧道をゆるゆると東へ奈良方面に下ってゆく。
堺市美原区と葛城市を結ぶ南阪奈道路も竹内街道にほぼ並行しているが、竹内峠はトンネルでくぐりぬけている。
細い道を下ってゆくうちに、竹内峠をトンネルでくぐった南阪奈道路が地上にでてくるところをすぎる。
「日本最古の官道 竹内街道・横大路」と記したノボリがぽつぽつ立っているが、このあたりではほかに歩く人には会わなかった。

■ カミの池

旧道がいったん国道に合流するところにため池がある。
竹内は司馬遼太郎の母の実家があるところだった。
大阪からやってきて、鳥や虫のことでは及ばないが、村外の知識はある司馬少年が、地元の子供たちから海のことをきかれる。海は大きいというと、カミの池より大きいかとききかえされる。

「むこうが見えん」
 というと子供たちは大笑いし、そんなアホな池があるもんけ、と口々にののしり、私は大うそつきになってしまった。

宮沢賢治が石巻で初めて海を見て感動したように、かつて内陸の人には海は遠い異世界だったろう。
カミの池に着いてみれば、たいして大きくもなく、どうということはないため池にすぎない。今どきの少年はこのため池を海と比べるなどということを思いもしないだろう。
カミの池

『街道をゆく』の「竹内街道」の旅は、ここで車が故障して終わっているが、僕は逆にこれから集落に降りていく。

* カミの池から先は旧道がなくなって、国道をわずかの距離だけ歩く。
国道が大きく左に曲がっていく地点で、旧道がふたたび分かれて直進していて、集落に入っていく。


■ 竹内村

集落のなかの道はきっかりした直線ではなく、かすかにうねっている。
細い道で、車の通行が禁止されているわけではないが、住む人と、住む人に荷物を運ぶ車くらいきり通らない。

 村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは路幅も変らず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変っていまい。それが、竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾-竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう。

今も車が一台通れるほどの道幅であることは変わらない。
舗装はされているが、無機的なグレーのアスファルト舗装ではなく、細かな石をまぜ、淡く着色した舗装で、やさしい感じがある。
住む人たちも、家を新築するにも和風の落ち着いたつくりにしている。
舗装や家の更新に気を配っているとはいえ、司馬遼太郎が訪れた1970年ころから40年を経て、いくらか古代を感じさせる風情は弱くなったのではという気がする。

それにしても、歩くのにいい道ではある。
写真を撮っていたら、来客が車で去っていくのを見送った高齢の女性に話しかけられた。
須田剋太が絵を描いたところをたどっていると話すと、『街道をゆく』のことをご承知だった。さっき通ってきたため池に標識があるわけではなかったので尋ねると、たしかにそれが「カミノイケ」だといわれた。

竹内街道 須田剋太『竹内峠竹内村 司馬さんの故郷』
須田剋太『竹内峠竹内村 司馬さんの故郷』

須田剋太がここで三叉路にみえる絵を描いている。(写真右下)
街道は細い一本道だから歩いていけば間違いなく行き当たるだろうとは思ったが、確かめるつもりで挿絵を見てもらった。
意外なことにすぐ思いつくところはないようで、
「こういうのはない...私は71年ここで暮らしてるけど...」
としばらくとまどっている。
ようやく思い当たって
「お地蔵さんだ、左の道が広いからわからなかった、この先の4つ辻にある」
といわれる。

礼をいって歩いていくと、たしかに四つ角、十字路だった。僕はすっかり三叉路と思いこんでいたから、「4つ辻」という言葉をきいていなければ気がつかなかったかもしれない。
ここに暮らす人にちょうど出会えて幸運だった。

竹内街道 須田剋太『竹内街道』
須田剋太『竹内街道』

* 竹内の集落から東へいくと、司馬遼太郎の文章に「長尾という山麓の村」とある長尾になる。
すぐに磐城という駅があるが、これから行きたい橿原神宮前駅には、ひとつ先の尺土駅で乗換になる。わずか1キロほどなので、尺土駅まで歩いてしまう。
5月末というのに夏のように暑い日で、ぐんぐん気温が上がってきている。
短いひと駅がかなりきつかった。

橿原神宮前駅で降りる。
今夜は駅からすぐ近くにあるホテルに予約してある。
駅から出て、ホテルに行き、荷物を預ける。
駅構内の食堂で昼を食べる。


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第2日(午後) 「大和・壺阪みち」:大和を自転車でめぐる [壺阪寺 高取城 高松塚古墳 橿原(泊)]

『街道をゆく』の「大和・壺坂みち」のうち、今井町には去年の春に来て、ひと晩泊まった。(→[春の奈良めぐり-「奈良散歩」ほか])
今日の午後は、そのとき行かなかった壺阪寺と高取城と高松塚古墳に行きたい。

* 司馬遼太郎は『街道をゆく』の文中で、「さか」について、「壺坂」と「壺阪」の両様の表記があることにふれたうえで、「壺坂」と表記している。
それにしたがって須田剋太の挿絵でも「壺坂」とある。
今、駅名やバス停の表示、地図や寺じしんでの表記でも「壺阪」が一般的につかわれているようなので、この文中では基本的に「壺阪」とし、司馬遼太郎の文章からの引用と、須田剋太の作品名のみ「壺坂」とする。
* 「つぼ」については、一般に「壺」と「壷」どちらもつかわれているが、『街道をゆく』での表記にあわせてこの文中では「壺」とする。

壺阪寺と高取城に、いちばん近い壺阪山駅から行くとすると、選択肢は3つある。

・全行程歩く-壺阪寺まで4キロ、さらに高取城まで2キロある。
 午後の出発なので時間的にきついし、車道を歩く区間が長いのもおっくう。
・壺阪寺までバス320円で行く-1時間に1本きりない。
・壺阪寺までタクシーで行く-片道だけで1400円ほどかかり高額。

どれも悩ましく、壺阪山駅より1つ手前の飛鳥駅で降りて電動自転車を借りることにした。自転車なら、飛鳥駅近くまで戻ったところで、高松塚古墳までもそのまま行ってしまえる。

■ 飛鳥駅

飛鳥駅の改札口を出ると風景が広々している。
いくつもレンタサイクルの店があり、どの店も同じ料金だと声をかけられて一番近い店で借りる。
電動自転車は1500円。

* 国道169号を南下する。道はゆるい上り勾配。
左折して山道になると坂が急になる。右に左にカーブしながら上がっていくと、電動自転車の充電量がどんどん減っていく。節約するために出力を控えめにして走る。そのぶん力がいるのはいいとして、暑い日なので汗をかく。
充電量が残り20%くらいになって壺阪寺に着く。


■ 壺阪寺
奈良県高市郡高取町壺阪3番地

山中にある寺だが、境内は広く、いくつもの建造物が配置されている。
浄瑠璃の「壺阪霊験記」(つぼさかれいげんき)の舞台で、目の見えない夫と、やさしく思いやりの深い夫婦の物語。
本尊の十一面観世音菩薩は、とくに目に効用があるといい、境内には目の見えない老人のための養護老人ホームもある。

階段を上がって行くと、先方に塔が見える。
その先に本尊が置かれる礼堂がある。
礼堂の回廊に出ると、山の斜面を上がってきた風が吹き抜けていって、涼しい。

『街道をゆく』で、司馬遼太郎一行は、さきに高取城をめぐってから壺阪寺に降りてきている。
数行の記述のあとに、

壺坂寺に入ったのは午後6時すぎで、三重ノ塔へゆく門は閉じられていた。空を見あげると、鳥がしきりに梢(こずえ)を駈けすぎてよく。高坂の山頂の森へ帰ってゆくのかもしれない。(『街道をゆく 7』「大和・壺坂みち」司馬遼太郎 。以下の引用文について同じ。)

と、「大和・壺坂のみち」をしめくくっている。

須田剋太の『壺坂寺』は、門の手前から三重ノ塔へ見あげて描いたかのようにみえる。だが、今行ってみると、司馬の文章にある閉じられていて三重ノ塔へ行けなかったという門がどこかわからない。
須田剋太の絵では山深い景色のように描かれているが、その後、大規模に整備されたのかもしれない。

壺阪寺 須田剋太『壺坂寺』
須田剋太『壺坂寺』

境内に茶屋がある。甘くて水気のあるものを食べたくなって、ソフトクリームを買って涼しい席でひと休みした。 

* 大講堂の脇の階段を上がって高取城へ向かう車道をすこし行くと、左にそれる山道がある。歩くには車道より山道がいい。ほとんどが木の下の道で、日射しをさえぎってくれる。
山道が車道に合流するところで城に着く。

■ 高取城
奈良県高市郡高取町高取

壺阪寺から高取城まで歩いて1時間ほどかかった。
散歩するにはいいが、城が現役だったころ、こんな山深い城に意味があったろうかと不思議になる。重要な地点間を結ぶ道の要所に位置するわけではなく、壺阪寺から高取城に向かう道は城でいきどまりになっている。
奈良にも大阪にも遠い。
別荘だとか、隠遁生活をするとかいうのならわかるが、戦闘集団がこんな奥地に引きこもってどうする?城の人は不便でつらそうなのに、ばかばかしくなかったろうか?

建物はなくて、石垣だけが残っている。
大きな石を組んで、幾重にもめぐらしている。
どこで産出した石かわからないが、仮に近くのものとしても、この山奥にこれだけの石を集めた労力はたいへんなものだったろう。
司馬遼太郎は石垣が「自然林と化した森の中に苔むしつつ遺っているさま」に感銘を受け、そのなかにいる須田剋太の姿にもひかれている。
 須田さんの姿も、どこか蒼古としている。
 精神にも肉体にも、絵を描くという以外に余分のものが削(そ)げ落ちてしまっているという意味でこの苔むした石塁のあいだを歩く人としては、風景によく適(かな)っている。

『司馬遼太郎と城を歩く』という紀行番組が、2007年から2008年にかけて、NHK-BSで放送されたことがある。
毎回、始まりのとき、
 私は城が好きである。
 あまり好きなせいか、どの城趾に行ってもむしろ自分はこんなものはきらいだといったような顔を心の中でしてしまうほどに好きである。
という朗読がテーマ曲にあわせて流れていたが、その一節は、上記の須田剋太についての文章につづいてある。

高取城趾 須田剋太『高取城跡』
須田剋太『高取城跡』

草むらに転がっている石にこしかけてひと休みした。見あげると高いところの緑の葉が青空に透けている。

高取城内のシダ 須田剋太『高取城内シダの群落』
須田剋太『高取城内シダの群落』

* 壺阪寺まで山道を歩いて戻る。
寺に置いた自転車に乗り、山から下る。
ほとんど下り坂なので、バッテリーをあまり消耗しないで降りた。
往路は広い車道を上がってしまったが、帰り道は集落を抜ける細い道を走った。
山奥の城は不便で、戦争のない年月がつづく間に城主や上級家臣は平地で暮らすようになり、この集落は城からかなり離れた城下町にあたる。
道はゆるく蛇行していて、ときおり壺阪漢方堂薬局のような古い建築もあって、道の風情がいい。

北上して、いったん飛鳥駅近くまで戻り、そこから東へ折れて、高松塚古墳に向かう。
道はゆるい上り坂で、電動自転車のバッテリーをほぼ使いきって着いた。


■ 高松塚古墳
奈良県高市郡明日香村平田

高松塚古墳は円いかわいい古墳だった。
あたり一帯が公園に整備されている。
夕暮れが近づいて、日が斜めから射してくる。芝生で遊んでいた母子が帰り支度をはじめている。

高松塚古墳 須田剋太『高松塚古墳入口』
須田剋太『高松塚古墳入口』

* 飛鳥駅まで戻って自転車を返す。
近鉄線に乗って2駅、橿原神宮前駅で降りる。
駅構内の売店で、夕方になって値引きしている弁当を買い、同じく構内にあるファミリーマートで缶ビールや、あすの朝食にするサンドイッチやヨーグルトなどを買ってホテルに入る。


● 橿原ロイヤルホテル
奈良県橿原市久米町652-2 tel. 0744-28-1511

結婚式場もあるような格式高いホテルで、部屋も清潔で快適。
地下に大浴場があるので、まず風呂に行った。今日、たくさん汗をかいたのがさっぱりする。
部屋に戻っても外はまだ日があって明るい。
6階の部屋から景色を眺めながら冷たいビールと弁当の夕食。
橿原ロイヤルホテル

橿原神宮前駅の東口あたりが見おろせる。
ビルにかかっている看板の文字を拾ってみると、
ダイアナクリニック
ヒロタのマンスリー賃貸
かぜにカゼロン、胃腸に青ぐすり
○リオン(パチンコ店らしいが、ほかのビルに隠れて前の字が見えない)
あと、予備校が4つあり、ひとつには「奈良高校146名合格」と窓に貼ってある。
全国どこにでもあるようなチェーン店の名前がまったく見えないのが珍しい気がした。

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第3日 須田剋太の肖像画の人のコンサート [奈良県立磯城野高等学校 東本願寺 大丸京都 大丸ヴィラ 高山彦九郎像  通崎睦美コンサート 京都駅]

* ホテルを出て、橿原神宮前駅から近鉄線に乗り、田原本(たわらもと)駅で降りる。

■ 奈良県立磯城野(しきの)高等学校
奈良県磯城郡田原本町258 tel. 0744-32-2281

『街道をゆく』の旅のとき、明日香村から壺阪に向かう途中で食事をしているとき、須田剋太が田原本の高校で絵の講師をしていたという話がでた。
関東から大和にでてきたあと、戦争で食糧事情が窮迫してきていた。剋太の貧しい暮らしを見かねて「田原本の農学校」の仕事を世話してくれた人があった。週に1回出勤すると、実習農場でとれたかぼちゃやウリなどをもたせてくれた。どんなふうに教えたか覚えていないが、収穫物を持って帰るときの重さと、食糧が手に入ったうれしさだけは、確かな記憶として残っているという。

「田原本は、さっき通りましたね」
 と、Hさんがいうと、須田さんは、そうなんです、車で通っているとき、どこにあの学校があったのか、車の中からさがしていたのですが、思いだせないんです、といった。
「夢のようです」
 という。

「田原本の農学校」というのは田原本農業高校のことだろうが、2005年に北和女子高等学校と統合して磯城野高等学校と改称している。
見つけられなかった須田剋太のかわりに行ってみようというような気分で田原本駅を降りた。小さな駅舎は新しく、駅前広場も整備されたばかりのようだ。
高校に向かう道の両側にはありふれた郊外の眺めがつづく。
田原本という地名には、関東に暮らすものにはなじみがないが、奈良盆地の中央にあって格式の高い神社や史跡もあるところのようなのに、こういう郊外の新興地のような風景は意外だった。

磯城野高等学校 駅から数分歩くと高校が見えてくるが、高い壁でさえぎってある。校舎が交通量の多い道に面しているので防音のためにあるようだ。
校舎は耐震補強をしてあるし、高校の前面は建築工事の印象がつよい。

門からなかをのぞくと、さすがに農業系がある高校で、ゆったりしている。先には広い農場があるはずで、全景が見えなくても向こうに広い地面があるのが予感される。
須田剋太が通った熊谷中学(のちの埼玉県立熊谷高等学校)でも、細い道を1本隔てただけのすぐとなりに熊谷農学校(のちの埼玉県立熊谷農業高等学校)があった。
農業高校では広い校地で農作物や家畜をそだてていて、独特の空気がある。須田剋太もとなりの農学校のことを思い出したことがあったかどうか。

* 駅まで戻る。踏切を東に越えると狭い通りに商店が並んでいるが、あまり活気がない。1階が美容室、2階が居酒屋という店があり、その2階ではランチ営業をしているので入った。

● 田原本町再生酒場
奈良県磯城郡田原本町戎通 190-2
tel. 0744-32-5055

いくつかの総菜を盛りつけた再生酒場ランチセット1000円を食べる。
「再生酒場」いうのは、もともと酒場でなかったところに商店街活性化のためにはじめた店ということかもしれない。昼には早い時間に入ったのだが、なじみらしい人も、そうでもないらしい人もいて、かなりの入りだった。
田原本町再生酒場

* 田原本駅からまた近鉄線に乗り、京都駅で降りる。
三条にある京都文化博物館の夕方のコンサートが今日の主目的地なので、じわじわ北にあがって近づいていくことにする。

まず西本願寺に入ると、暑い日なので広さにめげる。
寺を出て、仏具店などが並ぶ一帯を西へ行くと、伊東忠太1912年設計の伝道院があって、得意の怪物に囲まれている。


■ 東本願寺
京都市下京区烏丸通七条上る tel.075-371-9181

御影堂門を修復工事中で、巨大なカバーをくぐって中に入る。
阿弥陀堂も修復中で、遠目には白い体育館が2つ並んでいるかのよう。

御影堂から入って廊下をつたっていくと参拝接待所がある。
1934年、武田五一による接待所の奥に、1998年、高松伸による「真宗視聴覚ホール」とギャラリーが加えられている。
ギャラリーでは、ふつうは監視のために女性が座っていたり、制服のガードマンが立っていたりするが、ここでは僧衣の僧が腰かけている。
その先の視聴覚ホールは地面に埋めこまれている。高松伸という建築家はメカニックな意匠が特徴な人だが、ここでは歴史的建造物が配置されているなかに大きなものを加えることは不可能で、地下においた。
地上では「日輪」と「月輪」と名づけた採光面が見えているだけ。
地下に降りていくと、ホールの球面壁に地上から光が射していて、荘厳な印象がある。
ホールでは真宗の教義を説明する映像が流れている。
すりばち状の大空間に、僕のほかには、遠くのほうにひとりきり。
冷房がきいていて、暑い外へ出ていく気をなくすくらい。

東本願寺 接待所 高松伸 東本願寺 真宗視聴覚ホール 高松伸

* なんとか思いきって外に出るが、やはり暑い。
歩く気力がなくて、五条から四条まで1駅きりを地下鉄に乗る。


■ 大丸京都
京都市中京区四条高倉西入ル tel.075-211-8111

大阪の心斎橋にヴォーリズ設計の大丸があり、独特の意匠が魅力的で、中を歩いていると気持ちが昂揚してくる。
京都の大丸も1928年に同じヴォーリズの設計で建ったらしいのだが、前にひとまわりしてみて、とてもありきたりのビルの売り場としか見えなかった。どこかにヴォーリズらしいところがあるのを見落としているのかもしれないと、また行ってみた。


地階に下りる脇階段に、かわった意匠があることはあった。脇のほうにこんなデザインがあって、中心部がありきたりなのは、中心部をいつかの時期に現代風に(無装飾に)改装でもしたろうか。
外壁を改修中だったが、どんなふうになるだろう。
京都大丸

* 四条からまた地下鉄に乗り、丸太町で降りる。

■ 大丸ヴィラ「中道軒」
京都市上京区春日町433-2

通崎睦美さんが須田剋太に肖像画を描いてもらいに年初に行ったのは大丸だったが、この旅は大丸つながりで、さらに大丸の社長だった下村正太郎の住宅を見に行く。
丸太町の地下鉄駅から地上にでるとすぐ北側にある。
道の向かい側には京都御所。

1932年にヴォーリズの設計で建てられた。
「中道軒」という愛称は、下村正太郎(11代.1883-1944)がイギリス旅行のとき気に入ったチューダー様式で作るよう指示したことから名づけられたという。
ここにブルーノ・タウトも何度か訪れている。

煉瓦塀の向こうにその住宅があるのだが、公開されていないうえ、今は改修工事で白いスクリーンで隠されていて、外観さえ見ることができなかった。

地下鉄丸太町駅は下村邸の煉瓦塀からつづいている。
丸太町駅

* 暑さにまけて三条大橋までタクシーに乗ってしまう。

■ 高山彦九郎像

『街道をゆく』の「陸奥のみち」で、岩手県久慈を高山彦九郎が訪れたという記述にあわせて須田剋太が高山彦九郎像を描いている。
ところがその姿は京の三条大橋の東のたもとの高山彦九郎像のようだ。
「陸奥のみち」にはこれから行ってみるつもりだが、京都へ来たついでにその像を見ておこうと思った。

鴨川にかかる三条大橋の南東の小さな公園のようなところにその像があった。
1928年に有志らが寄付を集めて建てたが、1944年、兵器をつくるための金属供出で撤去され、1961年に再建された。
高山彦九郎は尊皇思想の人で、京都に出入りするたびにこんなふうに京都御所に向かって拝礼したという。
たしかにさっき行ってきた京都御所(大丸ヴィラのすぐ向かい側)の方角を向いている。

高山彦九郎像 三条大橋たもと 須田剋太『高山彦九郎』
須田剋太『高山彦九郎』

須田剋太は高山彦九郎の話にあわせて挿絵を描くにあたり、西宮の住まいから近くなじみの京都にある高山彦九郎像を思いついて描いたのだろう。
(後日「陸奥のみち」に行った。→ [東日本大震災後の三陸海岸北部(八戸~釜石)-「陸奥のみち」 (2015)]

* 三条通を西に歩く。
狭い通りに、1920年代とか30年代に建った味わいのある建築が並んでいる。

その1つが京都府京都文化博物館別館で、ここでこの時期にこの旅にきたもう1つの理由の通崎睦美さんのコンサートがある。
建物は、もと日本銀行京都支店で、辰野金吾がかかわっていて東京駅と同じように赤煉瓦に白い帯が並行している。
京都文化博物館別館

■ 通崎睦美コンサート「今、甦る!木琴デイズ」vol.1 1925-1945年編
京都府京都文化博物館別館ホール

戦前から戦後にかけてアメリカと日本で大活躍した木琴奏者の平岡養一(1907-1981)が愛用した木琴が通崎睦美さんに贈られ、通崎さんは平岡の評伝『木琴デイズ』を昨年9月に刊行した。そんな経緯から、今回のコンサートは、平岡の生涯をたどりながら平岡が愛用した木琴の調べを味わうという構成だった。

会場は広い吹き抜け空間で、とても高い天井にシャンデリアが白く輝いている。
平岡養一をしのぶのににふさわしく、平岡が生まれる前年、1906年に建っている。
もとは日本銀行だった歴史的建築で、天井の高いシックな空間に、軽やかに澄んだ木琴の音が響き渡った。

通崎睦美コンサート「今、甦る!木琴デイズ」

コンサートはモンティ作曲チャールダシュから始まった。
『木琴デイズ』によれば、「華やかな曲なので皆の受けもよく演奏のたびに大拍手だった」曲で、平岡がこのんで演奏したという。
アンコールをうけた最後の曲はエストレリーナ。
平岡養一が慕っている女性との結婚にこぎつけようとしているとき、その女性の母親がのりきでないので、あるコンサートの日、アンコールにその母親の好きな曲を演奏したという。
通崎さんは平岡養一をたどるコンサートのアンコールにその曲を選んだわけで、平岡への讃美であり、自分の遊び心でもあったろう。
激しいチャールダシュから始めて、うっとりするようなエストレリーナで終わる、平岡養一の生涯の物語を感じさせる組み立てだった。
演奏用に作られたのではない、元は銀行での演奏だったが、木琴の音の1つ1つがとてもきれいにきこえた。

●「洛旬万菜 こしの」
京都市中京区菱屋町31 tel. 075-213-5033

終わってから三条通の向かい側にある店でコンサートの打ち上げがあった。
暑い長い1日のあとの生ビールの最初のひと口が至上。
通崎さんと親しい人何人かが集まって、すてきな時間だった。
僕は途中で抜けだし、地下鉄で京都駅にでて、夜行バスに乗り、翌朝熊谷に着いた。

参考:

  • 『街道をゆく 1』「竹内街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1971
    『街道をゆく 7』「大和・壺坂みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976
    『司馬遼太郎と城を歩く』全8巻 NHKエンタープライズ 2009
  • 『木琴デイズ-平岡養一「天衣無縫の音楽人生」』 通崎睦美 講談社 2013
  • 「須田剋太が描いた肖像画」渡辺恭伸 『埼玉新聞』2014.6.23 
  • 2泊4日の行程 (2014.5/27-30)
    (→電車 ⇒地下鉄 =バス -自動車 ⇨タクシー ~自転車 …徒歩 >飛行機)
    第1日  成田空港>関西国際空港→南海線本線堺駅…ちくま…堺駅→南海日本橋駅…高島屋史料館…近鉄日本橋駅→東花園駅…東大阪市民美術センター-(友人の車)東花園駅-鶴橋-天王寺…ホテルバリタワー大阪天王寺(泊)
    第2日  …大阪阿部野橋駅→近鉄南大阪線上ノ太子駅⇨竹内峠…竹内集落…近鉄南大阪線尺土駅→橿原神宮前駅…橿原ロイヤルホテル…橿原神宮前駅→近鉄吉野線飛鳥駅~壺阪寺…高取城…壺阪寺~高松塚古墳~飛鳥駅→橿原神宮前駅…橿原ロイヤルホテル(泊)
    第3日 …橿原神宮…橿原神宮前駅→近鉄樫原線田原本駅…磯城野高校…田原本駅→近鉄京都線京都駅…京つけもの西利本店…西本願寺…東本願寺⇒大丸京都⇒大丸ヴィラ⇨三条大橋・高山彦九郎像…1928ビル…京都府京都文化博物館…洛旬万菜こしの⇒京都駅八条口=
    第4日 =熊谷