桜と桃の紀ノ川-「高野山みち」と「紀ノ川流域」
春のおだやかな日々に、『街道をゆく』の「9高野山みち」にしたがって高野山に行った。
そのあと紀ノ川にそって西に和歌山市へ向かって下り、「32紀ノ川流域」をたどった。
第1日 九度山から高野山へ [真田庵 慈尊院 高野山金剛峯寺 一乗院(泊)] | |
第2日 高野山と根来寺 [高野山奥の院 熊谷寺 円通寺 道の駅「清州の里」 根来寺 スマイルホテル和歌山(泊)] | |
第3日 和歌山市 [和歌山城 和歌山県立近代美術館 ぶらくり丁 日前宮 聖天宮法輪寺 南海和歌山市駅] |
第1日 九度山から高野山へ [真田庵 慈尊院 高野山金剛峯寺 一乗院(泊)] |
* 羽田空港からの飛行機は、左に淡路島が見えてしばらく並行して飛び、まもなく関西国際空港に着陸した。
レンタカーを借りて、海上の空港から本土への橋を渡る。
泉佐野市の日根野というあたりを抜けると、大阪府と和歌山県を隔てる和泉山脈へのぼっていく坂道になる。
62号線を南下し、犬鳴山温泉を過ぎ、府県境を越えて、坂を下ると、紀の川市にはいる。
最初の目的地の九度山へは24号線に左折して東に走る。
右を紀の川が流れている。
水面は見えないが、対岸の斜面がこちら側と並行してずっと続いていて、間に低い河原があることがわかる。
対岸の樹林には山桜が散在していて、桜の薄紅色と、木々の淡い新緑の色が美しい。
● 道の駅「柿の郷くどやま」
和歌山県伊都郡九度山町入郷5-5 tel.0736-54-9966
最初の目的地の真田庵の近くに道の駅があったので、まず食事に寄る。
パスタセットで、なすのアラビアータを選び、あとサラダバーがついている。
今朝家を出たのは早い時間だった。せわしくおなかを満たすだけで出てきたので、新鮮な野菜を好きなだけとれるのがうれしい。
* 道の駅に車を置いて歩く。
ここで丹生川が紀ノ川に合流している。
丹生川にかかる丹生橋を渡る。 川の両岸に渡したロープに鯉のぼりが泳いでいる。 その先で右から左に紀ノ川が流れている。 |
丹生川に沿った道を少しさかのぼって、左に入ると真田庵がある。
■ 善名称院(ぜんみょうしょういん)・真田庵
和歌山県伊都郡九度山町九度山1413 tel.0736-54-2218
1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌幸・信繁父子は、高野山に追われたが、実際はそのふもとの九度山に暮らした。
真田昌幸らが住んでいたとされる地に善名称院という真言宗の寺院があって、真田庵といわれている。
本堂の前を通って外に出て、西から見あげたところを須田剋太が描いている。
須田剋太『眞田庵』 |
本堂は奇妙な建物で、西から見ると上の写真と絵のように破風が2つあるが、反対側にまわって見ると1つだけになる。 中はどういうつくりになっているのだろう。 |
もう1枚の絵もそのあたり。
左の写真の電柱のあたりに立つと、上の写真と絵にあるように、塀越しに本堂が見える。
須田剋太『九度山眞田庵附近』 |
* 道の駅に戻り、短い距離だが車に乗って慈尊院に行く。
すぐ前に小さい駐車場がある。
■ 慈尊院と丹生官省符神社(にうかんじょうぶじんじゃ)
和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832 tel.0736-54-2214
http://jison-in.org/
空海は816年に高野山に修行の場を開くと、高野山への上がり口に支所のような施設を設けた。 郷里の讃岐国(香川県)から母がやってくると、女人禁制のため高野山には上がれないのでここに滞在させた。 空海は月に9度母のもとにおりてきたので「九度山」という地名になったという。 |
本堂の前に絵馬が奉納されているが、乳房の絵馬がずらりと並んでいて驚かされた。
平面の絵ではなく、2つの立体的なふくらみがついている。
空海の母がいた由緒から女性の信仰をあつめ、安産とか乳がんの治癒とか、女性特有の願いがこめられている。
ここは高野山町石(ちょういし)道の入り口でもある。
高野山へ上がる参詣道の1つで、およそ21キロの道に1町(109m)ごとに卒塔婆石が立っていた。
司馬一行がここに来たのは1977年のことだった。
ほんの十年ばかり前までは道の廃(すた)れとともに多くの町石が谷底にころがったり、人知れずに傾いていたりしたが、最近、文化庁の肝煎(きもいり)で谷底にころがっているのを滑車をつかってひっぱりあげ、その何基かを自動車道路の路傍に移したりして、近頃は人目につくようになった。(『街道をゆく 9』「高野山みち」 司馬遼太郎。次の引用文も同じ。) |
慈尊院のわきから階段を上がると丹生官省符神社があるが、その階段の上がり口に180町石がある。
丹生官省符号神社を階段ではなく、並行している坂道を上がると、神社のやや手前に179町石があった。
これは180町石 | 須田剋太『高野の町石』 |
須田剋太の絵では「四十七丁」の文字があるが、「百」をかき加えているようにも見える。
どちらにしても、ここより上になる。
慈尊院の階段上に丹生官省符神社がある。 本堂も鳥居もちょうど満開の桜に飾られていた。 |
慈尊院の門から外に出るとゆるい下り坂になっていて、その先に紀ノ川があるが、水面は見えない。
慈尊院の僧におききしたところ、かつてはもっと水量が多く、絵のように見えていたかもしれないといわれる。
須田剋太『慈尊院より紀の川を見る』 |
* 西へ走ってから、東渋田(ひがししぶた)の交差点で左折して480号線に入る。
高野山に向かう山道を走っていると、370号線と合流する矢立を過ぎたあたりの路傍に町石が立っていた。
車をとめて降りてみると、39町石だった。
少し先に38、37とある。
車で走っていた気がついたのは、その3つだけだった。
■ 高野山
高野山では、標高800mの高さに東西6キロ、南北3キロにわたって117の寺院がある。
西の端に大門があるが、車ではその脇を通って高野山に入った。
おととし2015年は、空海が真言密教の道場として開いてから1200年で、たくさんの記念行事が行われた。
長い年月を経た今も、空海がはじめた修業の地に街があり、人が生きている。
中央あたりに高野山町役場もある。
予約してある宿坊に車を置いて、散歩に出た。
■ 金剛峯寺
和歌山県伊都郡高野町高野山132 tel.0736-56-2011
https://www.koyasan.or.jp/
金剛峯寺の境内にはいる。
金堂の後方に根本大塔がある。
須田剋太『高野山根本大塔』 |
金堂を拝観する。
外から見ても小さな建物ではないが、中に入ると奥が深く、いくつもの部屋があり、大きな石庭まであった。
拝観券には「新別館 待遇券」というものがついていて、大広間のようなところでお茶とお菓子をいただける。
● 一乗院
和歌山県伊都郡高野町高野山606 tel.0736-56-2214
宿坊に泊まる。
庭を見おろす、設備の整った快適な部屋。
夕食は部屋に運ばれてきて、肉類をつかわない精進料理。
朝は食事の前に本堂にいき、勤行に加わる。
着いたとき、駐車場が別にあるのかと思ったら、この門から車で進入していって、玄関先にとめるのだった。 |
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第2日 高野山と根来寺 [高野山奥の院 熊谷寺 円通寺 道の駅「清州の里」 根来寺 スマイルホテル和歌山(泊)] |
* 高野山は東西に長い。
きのうは西の大門から入ったが、今朝は東の端に行って、中の橋の広い駐車場に車をおいた。
■ 奥の院
奥の院への道を歩くと両側に墓や供養塔が並んでいる。
山内に20万基あるという。
名のある武将の墓もあれば、現代の企業が亡くなった社員を供養するために建てた供養塔もあり、珍しい眺めが広がっている。
外国人も含めて参拝の人が多い。
最終地点は空海が「入定」したとされるところで、空海は永遠の悟りの世界に入り、今も瞑想しているとされる弘法大師御廟がある。
今も瞑想しているから亡くなったことを意味する言葉をつかわずに「入定」といっている。
* 東西に長い高野山の中ほど、一の橋の近くまで戻る。
■ 熊谷寺(くまがいじ)
和歌山県伊都郡高野町高野山501 tel.0736-56-2119
熊谷寺(くまがいじ)の前身、智識院は837年に建立された。
源平の戦闘に無常を感じた源氏の武将、熊谷直実(くまがいなおざね)は出家して法然上人の弟子となり、その指示により1190年高野山に登って仏教の修行に専心した。
直実はその後郷里の熊谷(くまがや)に戻って1208年に亡くなった。その死を知った将軍実朝がここの智識院に「熊谷寺」と書いた扁額を寄進したことから、熊谷寺に改称されている。 高野山にある真言宗の寺だが、そうした歴史があって法然やその関わりの人もまつっている。 |
直実の出身地、埼玉県熊谷(くまがや)市の旧制熊谷中学校に須田剋太は通い、その美術教師に影響を受けながら美術の道に進んで行った。
熊谷市には熊谷寺(ゆうこくじ)という寺があり、須田剋太が熊谷駅から熊谷中学校に通ったほぼ道筋にある。
高野山から生地の熊谷に戻った熊谷直実は庵を結んで心をしずめる日をおくり、ここで亡くなったといわれる。
熊谷市の熊谷寺は、その庵の跡に1591年に建立されたといわれ、法然の浄土宗の寺になっている。
■ 円通寺(真別所)
和歌山県伊都郡高野町高野山499
寺や店が並ぶ一帯から離れたところに真別所がある。
真別所は僧が修行するところで、寺の名としては円通寺といい、外部からの訪問者が入ることはできない。
熊谷寺のわきの細い道を入った先にあるのだが、その道の入り口に 「円通寺は修行道場につき拝観はできません。円通寺事相講伝所」 という標示が掲げられている。 |
高野山中心部の繁華な一帯にあれば観光客がここも拝観してみようとふらっと入りかけることもありそうだが、円通寺はちょっとした山道の先にあり、たまたま通りかかって入りこむような場所ではない。それでもこういう標示があるというのは、わざわざめざそうとする人がかなりあるということだろうか。
あえて山道を行こうとするくらいなら、拝観できないことも承知だろうと思うが、不思議な気がする。
司馬遼太郎はかつて山道で何度か迷いながら真別所にたどり着いたことがあるが、その先までは入らなかった。
『街道をゆく』の旅では、高野山西南院の和田宥玄住職が知人なので西南院に泊まり、和田住職の案内で真別所に向かった。
同行してくれた西南院住職の和田宥玄氏でさえ、 「これでよかったかな」 と、心もとなげにつぶやいた瞬間が、二度あった。 |
厳しい修行の場で中まで入れないにしても、須田剋太が門を描いているから、そこまでは行きたいと思った。
ただ司馬遼太郎の文章からすると、複雑な山道のようなので行き着けないかもしれないとも思っていた。
ところが熊谷寺の脇の警告標示から、逆にこの道の先にあるということが確かめられたし、スマホを取り出して地図を見れば円通寺が表示され、当初の不安からすればあっけないほど簡単に門前に着いた。
須田剋太『眞別処参道』 |
こんな木立の中を行く。
須田剋太『高野山の眞の別処入口』 |
写真では、左の石に「不許葷酒入山門」とある。
「くんしゅさんもんにいるをゆるさず」と読んで、ニラやニンニクなど香の強いものや酒は修行の妨げになるので持ち込んではいけない。
右の石には「大界外相」(だいかいげそう)とあって、聖と俗の領域を区別している。
須田剋太の絵では、左の石に「不許葷酒○○入山門」と、「葷酒」と「入山門」の間に2文字加わっている。
1文字目は読めないが、2文字目は「女」のようだ。
かつて高野山は女人禁制で、今もここはそれが続いているようだから、こうした文字が入っていることはあり得そうに思える。
須田剋太が来たころは、このように刻んだ石が立っていたろうか。
須田剋太『眞別処楼門』 |
特徴ある楼門が見えてくる。
西南院の住職に導かれた司馬遼太郎一行は中に入って修行の僧に会っているが、僕らはここで引き返す。
* 車に戻って、東西に長い高野山の西の端ちかくに行く。
小さな駐車場に車を置く。
西端の大門に向かって歩いて行くと司馬遼太郎一行が泊まった西南院がある。
■ 大門
高野山の西からの入口になる門。
きのうはこの脇を車で通り抜けて高野山に入った。
今日、歩いて近づいてみると大きい。
須田剋太はその大きな門を、画面に傾けて置き、上のほうは画面の外にはみだしてしまっている。
須田剋太『高野山大門風景』 |
* 486号線を北に戻る。
きのう通った東渋田の交差点に出て、そのまま直進すると大門口大橋で紀ノ川を越す。
その先で左折して、紀ノ川右岸の国道34号を西に走る。
紀の川市に入ったあたりで右折すると、道の駅「青洲の里」がある。
● フラワーヒルミュージアム/レストラン華
和歌山県紀の川市西野山473 tel.0736-75-6008
道の駅「青洲の里」に、江戸時代の外科医、華岡青洲をテーマとする博物館がある。華岡青洲は、文献に記録が残るものとしては世界で初めて全身麻酔で手術をした医師で、この地の出身。
1966年に和歌山市出身の作家、有吉佐和子の『華岡青洲の妻』がベストセラーになり、青洲が広く知られることになった。
翌1967年に映画化され、青洲の妻を若尾文子が演じた。
フラワーヒルミュージアムは、その縁で若尾文子の夫の黒川紀章が設計して1999年に建った。
楕円形の建物のなかにレストランもあり、昼を食べに入った。 地元の食材をつかったバイキングがおいしかった。 楕円の円周にそったガラス壁の向こうに大きく外の景色が広がっている。 紀ノ川対岸の斜面の木々がのぞめて、緑のなかに山桜が淡いピンクの花をつけているのが点在して、春らしくのどかな気分になる。 |
* 紀ノ川に近い低いところを国道34号が東西に走っている。
もっと高いところには京阪奈自動車道がある。
そのあいだの小高いところをいく県道があって、その道を根来寺に向かった。畑と家が混在するあいだを細い道がぬうようにつづいている。
濃いピンクの花をつけた桃の木畑があちこちにあって、目が楽しむ。
粉河(こかわ)のあたりを過ぎる。
ここでは流し雛の習俗がある。
3月の節句のとき、ひな壇に雛人形のほかに紙の雛を飾る。
節句が過ぎると、紙の雛を竹の皮にのせて紀ノ川に流した。紙の雛にたくしてケガレや難を去らせる。
紀ノ川の河口にある淡島神社では、女性の参拝者が船に雛人形と紙のヒトガタをのせて海に流す習俗がある。粉河で流した紙の雛は、紀ノ川を下って淡島神社に流れ着くと考えられた。
■ 根来寺
和歌山県岩出市根来2286 tel. 0736-62-1144
https://www.negoroji.org/
『街道をゆく』「紀ノ川流域」では、連載8回のうち、5回を根来寺に費やしていて、司馬遼太郎の思い入れが深い。
根来寺は、高野山を追われた僧、覚鑁(かくばん)が1140年に開いた。
その後おおいに隆盛し、広い地に多くの僧と行人(ぎょうにん=経営や軍事に関わる)がいた。
商業や貿易にも関わっていて、種子島に鉄砲が伝わったとき、ちょうど島にいた根来の行人が1挺を持ち帰り、堺の鍛冶職人に作らせた。このあと堺は、近江の国友村を並ぶ鉄砲生産地になり、根来は強大な鉄砲軍団になっていく。
( →[ 丸木舟と宇宙船-「種子島みち」 ] [ 春を迎える近江-「近江散歩」 ])
根来寺は秀吉と対立し、1585年の紀州攻めで焼かれたが、家康は武力を失ったあとの根来寺を保護した。覚鑁の教義である新義真言宗の寺が関東で栄えている(成田不動尊、川崎大師など)のは、家康の好意的姿勢によるという。
僕らが行ったのは桜がみごろの季節の土曜日だった。
駐車場のはずれの草地にシートを敷いて花見の宴をしている人たちがいる。このあと境内でもみごとに桜が咲いていたが、宴の人はいなかった。寺のうちでは遠慮されているらしい。
須田剋太『根来寺 大塔』 |
1585年に秀吉が根来寺を攻めて、大半の建築物が焼かれたが、このあたりは火を免れ、上の写真の左の大師堂は重要文化財、右の大塔は国宝に指定されている。
須田剋太『根来寺 大師堂』 |
司馬遼太郎はとくに大師堂にひかれて「よく使いこまれた密教の護摩壇(ごまだん)のように歳月と風雨と人の手で黒ずんでいる」と書いた。
須田剋太『根来寺山門(A)』 |
須田剋太は絵に「根来寺山門」と文字を記したが、鐘があって、寺では「鐘楼門」とされている。
須田剋太『根来寺心池』 |
絵に「心池」と記されているのは、聖天池と聖天堂だろうが、池のまわりをめぐってもこの絵のとおりに建物と池が見えるところはなかった。
須田剋太『根来寺山門(C)』 |
車に乗ってちょっと走った先に山門がある。
かつてはそれほど根来寺の領域が大きかった。
高野山の大門と同じように、須田剋太はこの門も傾けて描いている。
* 紀ノ川に沿って西に下ってきて、河口の都市、和歌山市に入る。
はじめに市街の南部にある紀三井寺に行った。
■ 紀三井寺
和歌山市紀三井寺1201 tel.073-444-1002
紀三井寺は名草山の斜面にあり、駐車場に車を置いて、急坂を上がる。
前に来たことがあるが、桜の名所ということで来てみたが、ここではもう満開の時期をすぎていた。
市街の向こうに紀ノ川の河口をみおろす。
地図で見るとこの河口は砂州が長くのび、その長い砂州に囲まれた広い水面がある。
独特な河口をしていてそそられる。
そこまで行ってみたいが、もうレンタカーを返す時間が迫っていて、あきらめて市街に戻った。
* 和歌山駅の近くでレンタカーを返す
バスに乗って市役所前で降り、城の堀のすぐ西にあるホテルに入る。
● スマイルホテル和歌山
和歌山市南汀丁18 tel.073-432-0109
城に面した部屋を予約しておいた。
6階のツインルームに入ると、窓の向こうに堀を隔てて虎伏山(とらふすやま)の緑のかたまりがあり、その上に城がある。
司馬遼太郎一行が泊まったのはこのホテルと思われる。
ほかに城を間近に眺められそうなホテルとしては、城の北側にダイワロイネットホテル和歌山があるが、ここは2005年の開業で、司馬一行が来たときにはまだなかった。
スマイルホテルは、もとは和歌山東急インで、1977年に開業し、2016年にスマイルホテルにかわった。
朝食は9階でとった。 和歌山城は、このビルでいえば、十五、六階の高さぐらいらしいが、天守閣がほぼ等高にみえる。しかも窓いっぱいに城山と天守閣、櫓といった構えがひろがっており、おりからの樟若葉(くすわかば)で、名城がいっそうあでやかなのである。まことに贅沢な朝食といっていい。(『街道をゆく 32』「紀ノ川流域」 司馬遼太郎。次の引用文も同じ。) |
この司馬遼太郎の文章を読んで、ホテルの朝食をとても楽しみにしていたが、そのとおりに今も朝食は最上階9階のレストランでとる。 城を眺められるように城側は広いガラス面で明るい。 窓際のカウンター席で、期待どおりの大景観をたんのうしながら食べた。 |
● 銀平 匠
和歌山市南汀丁2 COURT汀 1F tel.073-431-6387
朝食をとる前の晩の夕食のこと。
ホテルの周辺は繁華なところではないが、近くに和食の店があって夕飯にはいった。
かなりな距離を移動し、かなりな歩数を歩いたので、まず生ビールで乾杯。
お通しが、ホタルイカ+酢味噌と、カツオのにぎり。
しょうもないものをお通しにだされて、なんかなあ、と感じることがときたまあるけれど、手ごろでしっかりしていて、ここはいい店と直感した。
実際、あと食べたものを並べると、
鯛の唐揚げ 鯛の煮付け エビの塩焼き 菜の花のおひたし
キュウリ+金山寺味噌 最後ににぎり寿司
どれもよかった。
この間に酒は日本酒「みなかた」にしている。
地元の酒蔵「世界一統」の酒で、和歌山出身の博物学者、南方熊楠の父が創業した。
カウンター席にいたので、店の人が忙しい支度をしながらちょこっと料理の説明をしてくれるのも楽しかった。
ホテルは城側の部屋で、城を中心に眺めのいいレストランの朝食つき。
夕食は外に出て、選んでおいしいものを適量に食べて、好みの酒を飲む。
あわせて1泊2食に換算したらとても安く、生半可な宿に泊まるよりはるかに満ち足りた。
店の人に、また和歌山に来ることがあったらどうぞと送られたのだが、その機会があればまたこの組み合わせにしようと思った。
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第3日 和歌山市 [和歌山城 和歌山県立近代美術館 ぶらくり丁 日前宮 聖天宮法輪寺 南海和歌山市駅] |
* 最終日は、きのうレンタカーを返してしまっていて、交通機関と徒歩でめぐる。
ホテルに荷物をあずけて、まず目の前の城に行った。
■ 和歌山城
和歌山市一番丁3 tel.073-422-8979
北の入口から入る。
司馬遼太郎が和歌山城でとくに石垣を気に入った「鶴の渓(たに)」というあたりはすぐ。
そこで左に折れて、西之丸庭園に入る。
須田剋太『和歌山城内茶庭』。 木々の間に、左の高い位置に橋、右の低い位置にも橋がある。 右下の近くに石碑が2つ。 |
庭に入ってみると、池があり、ゆるい傾斜のある小径がまわりをめぐっている。
たしかに橋が2つと石碑があるのだが、絵とはずいぶん配置感覚がちがう。
写真左の道の先にある橋を正面に見るとすると、右の写真の橋は視界のかろうじて右はしにあり、角度でいったら120度くらいか、そうとうな広角レンズでもおさまらないほどに離れている。
でも絵のようにおさめてしまうと、たての木々と横の橋が緑のなかに配置されて、落ち着きのいい構成になっている。
天守閣への坂を上がる。
須田剋太『和歌山城』 |
和歌山城の天守閣は、明治維新後も残ったが、1945年にアメリカ軍による空襲で焼失し、1958年にコンクリートで再建された。
天守閣は標高48.9mの虎伏山に建ち、上までのぼると展望がきいて、市街の向こうに紀ノ川の河口が見えた。
* 城の区域から南に出ると美術館がある。
■ 和歌山県立近代美術館
和歌山市吹上1-4-14 tel.073-436-8690
黒川紀章の設計による大きな美術館。 コレクション展を開催中で、所蔵作品をたくさん見られてよかった。 |
* また城の区域に入り、通り抜けて、北側に戻る。
わかやま歴史館の前のベンチでひと休み。 目の前に和歌山市役所がある。 白い直方体の下部に、断面が3角形になる張り出しがあって、東京の中野サンプラザにそっくり。 中野サンプラザには、かつて何度かコンサートに行ったり、ホテルもあってわりと安く泊まれて泊まったこともあって懐かしい。 |
中野サンプラザは1973年に建って、地上 21階+地下2階。
和歌山市役所は1976年に建って、地上14階+地下2階。
なにか関係があるのかもしれない。
今ではとびぬけて大きな建物とは感じないが、当初は「ぜいたくすぎる」という批判があったという。
■ ぶらくり丁
市役所からさらに北に歩くと、ぶらくり丁という商店街がある。
昭和初期には大阪・ミナミと肩を並べるほどの歓楽街だったというが、今はシャッター通りになっている。
個人経営の店が並ぶ商店街がシャッター通りになるのは全国にあるけれど、ここでは近鉄が移転し、大丸やビブレが閉店し、いくつかあった映画館もすべて廃業して、これほど大きな商店街がこれほど劇的に衰退したのは珍しいと思う。
今は閉まっている店の前で陶磁器や雑貨を売る露店がいくつも出ている。 もともとの店舗で営業している店があると珍しいものを見るような感じがしてしまうほど。 |
広い通りと交差する角にフォルテワジマという商業施設がある。
もとは丸正(まるしょう)という、ぶらくり丁の要だった百貨店が2001年に破産したあと、かろうじて商業施設になっている。
丸正が破産したころ、市長はここに「公立和歌山創造大学」を設立しようとし、建築家、山本理顕氏が計画案をつくったが、2002年に市議会で否決された。
和歌山大学が郊外に移転したのがぶらくり丁の衰退の一因だったが、若い世代を呼びこもうとする構想は実現しなかった。
和歌山市は、面積は県全体の約4%だが、人口は約40%も占めている。
県内で圧倒的な存在である県庁所在都市がパワー不足な感じを受ける。
* ホテルに戻って荷物を受け取り、市役所前からバスに乗ってJR和歌山駅にでた。
今度はここのコインロッカーに荷物を入れる。
妻が一度は和歌山ラーメンを食べたいというので、MIOという駅ビルにある店でラーメンを食べた。
あっさりしておいしかった。
次の目的地へは、わかやま電鉄貴志川線に乗りたい。
切符の自販機は、JRの自販機が数台並んだいちばんはずれに1台あった。
ホームもJRの先のいちばん奥にあって、わかやま電鉄のホームに上がったところでもう一度有人の改札口がある。
そこで切符を見せると、女性の駅員さんが、この人たちは初めての観光客とみて電車の案内をしてくれた。
電車のデザインに、いちご電車とうめ星電車とたま電車があり、僕らがこれから乗るのはうめ星電車。
発車時間ごとにどの電車かがわかる時刻表をもらったので、戻ってくるには別の電車に乗れるかもしれない。
■ うめ星電車
貴志川線は和歌山駅と紀の川市の貴志駅まで14駅14.3㎞の路線。
『街道をゆく』の文章では、日前宮に行ったとき、「付近を南海電鉄貴志川線が通っている」とある。「紀ノ川流域」の旅は1988年のことだったが、南海が撤退して2006年からわかやま電鉄が運行している。
南海が貴志川線の廃止を表明したところ、市民から存続運動が起き、わかや電鉄が設立されて運行を継続することになった。
この鉄道はネコの駅長がいたりしてユニークなことをしていて、電車のデザインは市民の募金によりJR九州の特急車両などの仕事などで知られる水戸岡鋭治氏に委託された。
わかやま電鉄貴志川線のうめ星電車に乗る。 |
* 2つ目の日前神宮駅で降りる。
ちょっと広い道を横切った先に神社がある。
■ 日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)
和歌山市秋月365 tel.073-471-3730
境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社がある。
どちらも読みにくい名前で、ふつうには「にちぜんぐう」といわれ、駅名も「にちぜんぐうまええき」になっている。
玉砂利を敷いた道を歩いていくと2つの神社がある。
境内全体が大きな木々におおわれているふうで、奥深い山中にひっそりあるかのよう。
きのう、根来寺から紀三井寺に向かうとき、このすぐ近くを通り過ぎた。
通行量の多い和歌山市内を走っているという印象で、すぐそばにこういう所があったというのが信じがたいような気がするほど。
信じがたいことだが、これだけの原生林が、和歌山の市内にある。(中略) 須田画伯が、傘の下で声をひそめた。 「ここはただごとならぬところですね。しんですね。」 紀州のしんだという。 |
須田剋太『日前宮神社(B)』 |
須田剋太『日前宮神社(A)』 |
帰るときにはたま電車が来た。 車内にも遊び心があって楽しい。 |
* 和歌山駅を西に出て、北大通りを北に歩いて、細い道を左に入ると、聖天宮がある。
■ 聖天宮法輪寺 (しょうてんぐうほうりんじ)
和歌山市吉田495 tel.073-423-2726
境内に入る入口には、左に「聖天宮法輪寺」、右には「東の宮神社」と刻んだ石柱が立っている。
途中に鳥居があるのをくぐって奥に進むと、本殿の前では椅子が並べられ、20人ほどの人が集まっていて、般若心経をとなえているところだった。
「寺」に「神社」。鳥居に般若心経。
日前宮とは一転して、こちらは人の気配が満ち、神仏もそろっている。
写真の場所がなかなか見つからなかったが、ようやく気がついてみれば、門を入ってすぐ左にぼけよけ地蔵があり、それをふつうの参拝ルートでは入りこんでいかなそうな右の位置から描いていた。
聖天宮法輪寺 | 須田剋太『聖天宮(B)』 |
* JR和歌山駅に戻る。
近鉄でみやげものを買おうかと売り場を歩いてみたが、これといったものがない。
紀三井寺から和歌山市街を見おろしたとき、南海の和歌山市駅の大型ビルが見えた。あれほど目立つ大きなところなら何かいいものがあるかもしれないと、そちらをあてにすることにした。
バスに乗り、また市役所前を通って、和歌山市駅にでた。
■ 和歌山市駅
大阪なんば駅と和歌山を結んで走っている南海電車の、南の拠点駅として堂々と構えている。 それにしては人通りが少ないし、1階の一部は工事用のフェンスに囲まれ、壁の文字をはがした跡があり、なにかの店か営業所が撤退したところらしい。 |
改札口がある2階に上がると、「昔懐かしの洋食喫茶店マカロニ」があるが、3月31日で閉店しましたというあいさつの紙が貼りだされている。
太い丸柱に駅ビル内の案内図があった。半分以上の施設名の上に白いテープが貼られて、撤退してしまっている。
あとでインターネットでみたら、再開発計画の途中らしい。
駅舎が1973年に建ったころには多くの乗降客があり、高島屋もあってにぎわっていた。
しだいにJR和歌山駅ににぎわいが移って、2014年には高島屋も閉店した。
再開発計画では、ビルを新築してオフィスやホテルのほか近くにある市民図書館も移転する。(市民図書館には数年前に行ったことがあるが、壁に大きなひび割れがあったりして老朽化していた。)
その後、今の南海和歌山市駅は解体され、駅舎としては今よりコンパクトになるらしい。
駅の北にはわずかな距離で紀ノ川が流れている。川好き、河口ファンの僕としては、市街に向いた駅舎南側だけでなく、ウォーターフロントの展開をしたら楽しいだろうと勝手な想像をした。
* 南海電車に乗り、のんびり揺られて、泉佐野で乗り換え、関西空港に着いた。
スターフライヤーで羽田に帰るが、右の窓側席からは、ずっと紀ノ川をさかのぼっていくのを見おろして飛んだ。
花ざかりのいい旅だった。
参考:
- 『街道をゆく 9』「高野山みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1977
- 『街道をゆく 32』「紀ノ川流域」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1989
- 2泊3日の行程 (2017.4/14-16)
(→電車 =バス -レンタカー …徒歩)
第1日 関西国際空港-道の駅「柿の郷くどやま」…真田庵-慈尊院-高野山金剛峯寺…一乗院(泊)
第2日 -奥の院-熊谷寺…円通寺…熊谷寺-大門-フラワーヒルミュージアム(道の駅「清州の里」)-根来寺-ニッサンレンタカー和歌山駅東口=スマイルホテル和歌山(泊)…銀平匠
第3日 …和歌山城…和歌山県立近代美術館…わかやま歴史館…ぶらくり丁=JR和歌山駅→ 日前宮駅…日前宮…日前宮駅→JR和歌山駅…聖天宮法輪寺…JR和歌山駅=南海和歌山市駅→ 関西国際空港