大分のふしぎな宿、ふしぎな神社-「豊後・日田街道」と「中津・宇佐のみち」


『街道をゆく』では、司馬遼太郎と須田剋太は大分県内を2度旅している。
1975年に「8豊後・日田街道」、1989年に「34中津・宇佐のみち」。
僕は大分空港を基点にして、ひとまとめに回ることにした。
空港でレンタカーを借り、大分市-日出-湯布院-日田-中津-宇佐と時計回りにまわって大分空港に戻った。
(「8豊後・日田街道」は第3日咸宜園まで、「34中津・宇佐のみち」は第3日薦神社以降。)

第1日 大分市 [大分空港 大分県立図書館 大分(泊)]   
第2日 日出から湯布院 [日出城下町 湯布院駅 金鱗湖 末田美術館 亀の井別荘(泊)] 
第3日 日田から中津 [宇奈岐日女神社 佛山寺 咸宜園 薦神社 中津(泊)]
第4日 中津と宇佐 [福沢諭吉旧居 合元寺 中津川 中津城 和間神社 宇佐神宮 安岐川 大分空港] 


 第1日 大分市 [大分空港 大分県立図書館 大分(泊)]

* 大分に向かう飛行機は、羽田を離陸すると、右に旋回していったん海に出た。
それからまた都心上空に入って、多摩川をさかのぼり、相模湖、富士五湖を越える。
赤石山脈、飛騨山脈は、高いところだけ白い雪が粉をまぶしたようにおおっている。2月初めというのに雪が少ないようだ。
琵琶湖がかすかに見えるあたりから窓の外がボンヤリしてきて、雲に入った。
機内では「現地はくもり」というアナウンスがあったが、昼ころ大分空港に降りてみると雨が降っている。レンタカーの営業所まで送ってくれる運転手さんにきくと「ついさっき降り出したところ」とのこと。
山地も走るので、いちおうチェーンをトランクに入れてもらった。

大分市街に入り、美術館(大分県立芸術会館と大分市美術館)や図書館(大分市民図書館)に寄り道してから、今夜予約してあるホテルにチェックインした。
夕飯をすませたあと、夜8時まで開館している大分県立図書館に行った。
日豊本線の線路に沿った道を行くうちに、しっかり雨が降ってきた。


■ 大分県立図書館
大分市駄原587-1 tel. 097-546-9972

磯崎新の設計による旧・大分県立図書館(1966)は、今はアートプラザに転用されている。
同じ設計者による新図書館は1995年に開館して、僕は一度来てみたことがある。
そのときは昼間だった。閲覧室に柔らかい自然光が入っていいのだけど、なにかふわっとしたあいまいな印象を受けた。
夜だと見えようが違うかもしれないと思って、今回は近くのホテルに予約して暗くなってから行った。

ロビーの高い吹き抜けの天井の大円盤が宇宙船のよう。
閲覧室にすすむと、予想どおり、人工の光だとずいぶん様子が違った。
太いコンクリートの柱が格子状に並んで、森のなかにいるよう。
それが天井に微妙な陰影を描く。
書架と床は、青みをおびた木材でつくられていて、気持ちをしずめて集中させる。
前回よりかくだんに印象が深かった。
大分県立図書館

* 閉館時間ぎりぎりの8時近くに図書館を出ると、ほぼ雨がやんでいて、傘をささずに戻った。
ホテルに近づくと、隣のマンションから夜空に白い煙が吹き上がっている。
11階建てのマンションの10階の部屋で火事が起きている。
発生してしばらく時間がたってそうなのに、異常を知らせるベルが鳴り続け、赤いランプがくるくる回る車が何台も集まっていて、アクション映画のラストシーンみたい。
大きなマンションだから、火事が起きてもごく一部で煙が上がっているだけで、ほかのところはひっそりしている。
ホテルの11階の部屋に戻る。立地の関係か、こちらよりやや低い位置に火災の部屋が見える。ハシゴ車に2人の消防隊員が乗って部屋の間近にいる。部屋の中央で長い時間、赤い火が燃え続けていた。


● レンブラントホテル大分
大分市田室町9-20 tel. 097-545-1040

朝、高層階の部屋からは、正面に高崎山、右手には別府湾という雄大な景色が見えた。
大分では格式の高いホテルのようで、館内のインテリアもきれい。
2月3日が別府大分毎日マラソンの開催日で、今日は昼間、コースの準備や下見をする大会や報道関係の人をずいぶん見かけた。飛行機の予約がとりにくかった理由が、こちらに来てようやくわかった。
このホテルでも招待選手の記者会見が予定されていた。

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第2日 日出から湯布院 [日出城下町 湯布院駅 金鱗湖 末田美術館 亀の井別荘(泊)]

* 「豊後・日田街道」の旅で、司馬遼太郎一行は大分空港に降りてから、まず日出(ひじ)に向かっている。
僕は、きのう大分市街をめぐり、行程としては戻ることになるが、朝、車を走らせて日出に着いた。
二の丸館という観光案内所に車を置いた。


■ 日出の街 二の丸館

司馬遼太郎は、この街のことをこう記している。

日出の町は小さいながら城下町だっただけに、古格なにおいがある。
 商店街通りに出ると、重厚な白壁に本瓦ぶきの商家の建物が、軒なみといっていいほど残っていた。それらはふつう土蔵造りといわれる防火性のつよい建物だが、しかしこの町のそれは、土蔵造りというよりも城の白亜(はくあ)の櫓(やぐら)を思わせるような建物なのである。その堂々たる櫓建築の軒さきに「メガネの何々屋」といった看板や、「カレーライスとコーヒー・渚」とか、「大売り出し抽籤場」といった看板ができている。
 古びてはいるが、店舗街としては尋常ならざる威容といっていい。
(『街道をゆく8』「豊後・日田街道」司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)

その通りを須田剋太が描いている。
土蔵造りの店が3軒並んでいて、中央の店には『山本』と『メガネ』という看板がかかっている。
観光案内所で挿絵を見せてたずねると、「土蔵造りの家はすっかり建て替わってもうなくなった」とのこと。
それでも絵の場所の見当はついて、今はどこになるかを観光案内図で教えてもらった。
役場の前の道をさらに先まで行って、教えられた場所に立つ。
眺めてみると絵に描かれたのと似た屋根があって、『メンズショップ スタート』とある。

須田剋太『日出街道 日出の古い町』 日出の店
須田剋太『日出街道 日出の古い町』

中に入ってお店の女性に須田剋太の絵のコピーを見てもらった。
「ここですね。私の前の前に山本さんという方がここでメガネ屋さんをしていらした。宝石なんかもおいていた。私の店はここで20年になる。」
と、やさしい笑顔で説明される。
日出=ひじは読みにくい地名というような話をしているなかに、日出でも杵築市と合併の話があったが、しないできているということもいわれた。偏狭なわが町自慢という印象ではなく、さりげなくこの町が好きというふうな好印象のひとで、もっと長く話していたくなるほどだった。

■ 日出町立萬里図書館 
大分県速見郡日出町2602−2  tel. 0977-72-2851

日出町立萬里図書館 堀の向こうになかなかいい構えをした建築があった。
行って見ると図書館で、こじんまりしているが端正ないい図書館だった。
図書館の歴史は古いが、今の建物は公民館として建てられたものを転用して使っているという。
石垣の上に建っていて、その先は有名な城下かれいを産する海になる。

二の丸館に戻ってコーヒーを一杯。
店の女性も、客でいた2人の女性も、好感の人ばかりだった。
前に湯布院に来たときは、この町で城下かれいを料理した昼食をとって、ほかのところは見る余裕もなく湯布院に向かった。
今日は昼どきには早い時間で、町を回ったかわりに城下かれいには素通りして湯布院に向かった。

* 雪が降ったり道が凍結したりにそなえて、いちおうチェーンを積んできたのだが、とても暖かい。日射しをうけると車の中は暑いくらいで、大分自動車道を走っているときには冷房をいれたほど。
『街道をゆく』の取材一行は湯布院のさらに西の長者原に行き、須田剋太がそこで描いた挿絵は連載に3点掲載されている。
須田剋太が湿原の植物を目にして歓喜したと司馬遼太郎は記している。
夕べホテルで見た大分ローカルのテレビで、「今日明日の週末、長者原で氷の彫刻を並べるイベントが開催される」と紹介されていた。この暖かさではせっかく作った彫刻が溶けて形を保っていないかもしれない。

高速道路のおかげで1時間ちょっとで湯布院に着いた。便利でいいが、簡単すぎて感動がやや薄い。前に湯布院に向かったときは由布岳を眺めながらじょじょに近づいていき、おお湯布院に来た!という満足感があった。


『街道をゆく』の旅で、須田剋太にとってはときめくような近づきだった。
須田画伯が、急に前後左右を見はじめて、落ちつかなくなった。以前(まえ)に来たことがあるんです、といった。いかにも画家らしく、一度見た風景については記憶がじつに堅牢で(中略)。
 やや興奮ぎみだったのは、風景がひらけるごとに古い記憶がいきいきとよみがえっていくという快感があるからであろう。

■ 湯布院駅

湯布院駅の脇の駐車場に車を置いて、磯崎新の設計による駅へ。
黒い板壁の列車型建築で、群馬県伊香保にあるハラ・ミュージアムを連想したが、実際、駅舎の一部がギャラリーになっている。
湯布院駅

駅前の通りにも小さな店が並んでいる。真冬の2月なのに人通りが多い。
駅からの道の正面に由布岳がすてきに見えている。

湯布院駅からの由布岳 須田剋太『由布岳』
須田剋太『由布岳』

* 湯布院は道が細いし観光客も多いので、今夜泊まる宿に車を置いてから歩いてまわることにした。

● 亀の井別荘-1

宿の駐車場に入ると、白い服を着た男性が迎えてくれる。
ロビーでお茶をいただく。

『街道をゆく』の「豊後・日田街道]の取材のとき、一行がここで泊まり、司馬遼太郎がかなりの量の文章を記し、須田剋太も絵を描いているので、この宿に泊まることにしたのだが、さっそくすぐ目の前に須田剋太の書がかかっている。
「雪月花 一九八六 剋」とある。
『街道をゆく』の取材は1975年だったから、そのとき描いたものではない。その後もつながりがあったのだろう。
亀の井別荘のロビーで、須田剋太の書

■ 金鱗湖

宿から出るとすぐ金鱗湖がある。
水に沿ってぐるりとほぼ反対側にまわると「下ン湯」という住民だけが入れる共同浴場がある。
須田剋太がここを描いていて、絵では小屋に「共同洗濯所」という看板がかかっている。
今は看板はないが、今も洗濯する人がいるとのことだった。

須田剋太『由布院温泉』 金鱗湖
須田剋太『由布院温泉』

* 湯の坪川に沿った遊歩道を行く。
2月なのに異様にあたたかい日で、春の野を散歩しているような、ウキウキした気分になってくる。
川に澄んだ水が流れているのを見ると、「水ぬるむ」なんていう言葉が浮かんでくる。
途中で四角い現代建築があって、トリック・アートの美術館だった。昔の温泉地には秘宝館があったりするが、近ごろの観光地ではトリック・アートをしばしば見かける。


■ 由布院美術館

川沿いの道に面してかつて由布院美術館があったのだが、着いてみるとロープで入口をふさいであった。

「2012.3.31で閉館しました。20年間ありがとうございました。」と貼り紙がある。もう閉めてから1年近くなる。
ここにはそれより前に来たことがある。象設計集団の設計による美術館で、仮設のサーカス小屋のような軽やかな雰囲気があってよかったのだが、残念。
閉館した由布院美術館

■ 末田美術館
大分県由布市湯布院町川上1834 tel. 0977-85-3572

またユラユラと歩いて宿に戻る手前で末田美術館に入った。
いかにも原広司の設計らしい表情をした建築だが、それを木造で作っているところが目を驚かせる。
末田龍介氏と末田栞氏の彫刻を展示している。
原広司・末田美術館

L字型の建築の、短い辺の端のほうにゲストルームがあった。前に来たときには気がつかなかった。栞さんにうかがうと、建築の学生が多く訪れるので泊まれるようにしたといわれる。
北九州からスタートして、ここを見て、熊本のアートポリスに回るのが、九州の建築をめぐる学生の定番コースになっている。少し前には学生が気軽に泊まれるところが湯布院にはなかったので、ここに泊まれるようにしたとのこと。

龍介氏が東京芸大を卒業するとき、母校の先輩の建築家、吉田五十八が成田山新勝寺の大本堂の設計していて、協力を求められたという。以後、建築家と共同することが多く、この美術館の設計にあたっても建築家とアイデアをだしあって作った。2階に回廊をめぐらして、視点をかえて彫刻を鑑賞できるようにしてあるが、それも龍介氏のアイデアによるという。

僕が須田剋太の足跡をたどっていることを話すと「隣の旅館は須田剋太(の作品)を持っているようだ」といわれる。
亀の井別荘のほかにも須田剋太に関心がある旅館があるのかと思って、なんていう旅館かたずねると、亀の井別荘のことで驚いた。
隣といっても軒を接するような近さではなくて、まるで姿が見えない。
亀の井の所有地は広くて、すぐそこまでが亀の井さんの土地-ということになるらしい。
「美術館の前の未舗装の細い道をまっすぐいくと宿に着く」と教えられたとおりに行ってみると、たしかに宿に戻れた。
宿のひとにこのことを話すと、近くに妙なものを作られてはいけないので、広く土地を持っていなくてはならないのだといわれた。たしかに湯布院I.C.からの道や、駅周辺の観光地的にぎわいのありさまを見ると、その構えはもっともなことに思える。この宿の快適さは、そうしたすぐ目に見えないところにも心くばりがあってのことと思いいたった。

● 亀の井別荘-2
大分県由布市湯布院町川上2633-1  tel. 0977-84-3166
https://www.kamenoi-bessou.jp/

広い敷地内を散策すると、食事処、カフェ/バー、土産物屋などがある。
ひとつ何かわからない建物があった。両端に象を彫った梁が目立つ。
宿のひとにきくと「近くの家が解体されるとき、象のついた梁が惜しいので引き取ってもらえないかと相談された。引き受けたうえで、その梁1本をいかすために、あとの部材を集めて1軒建てることになってしまった」とのこと。
須田剋太がここで描いた挿絵はこの建物で、そのころは湯屋に使われていたという。
絵には「殿方 風呂」という文字が記してある。

須田剋太『亀の井別荘湯屋』 亀の井別荘内。もと湯屋に使われた茅葺きの家
須田剋太『亀の井別荘湯屋』

建物の脇には馬がいる。
『街道をゆく』の文章では、司馬遼太郎が、はねおどる馬にふりまわされかけている「青年」を見かけたことが書かれている。20台半ばの青年に見えたのだが、じつはちょうど40歳くらいになる当主の中谷健太郎氏であることがわかって「私は、自分が予想で作っていたイメージがこれほど狂ったことはなかった。」と記している。
中谷健太郎氏が、かつて観光用の辻馬車を走らせていたころを回顧して、「俺の所の馬は元気が良くって、2回振り落とされたからやめたんじゃ」(『湯布院発、にっぽん村へ』)と語っているが、その馬のことだろう。
それにしても湯屋と馬小屋がいっしょの建物だったのか、たまたま馬がそこにいたのか、画家が湯屋を描いたところで(そこにいない)馬も描き加えたくなったのか。
あれこれ思い悩んでみるのも楽しい。

泊まった部屋は離れの1つで「九番館」。歌舞伎の中村勘三郎が、勘九郎時代に泊まったことにちなむという。
隣は「十八番館」。歌舞伎十八番にちなむ。
九番館と十八番館はつながった1棟の建物ではあるが、それぞれがほぼ完全な一軒家で、2間の座敷のほかに、玄関、風呂、トイレなどがゆったりと配置されている。どこからか移築したうえ、足りない部材はそれなりのものを集めて作ったようで、すてきな意匠が目を楽しませてくれて、しかも気持ちがなごむ。ふつう旅館で見かけるつくりものの宿泊装置という印象がない。
「豊後・日田街道」では、週刊朝日の連載の3回ぶんが、この宿と、この宿に滞在中のこととについやされているが、そのときの最初の文章は
 由布院では、ふしぎな宿にとまった。
とある。
司馬遼太郎にとっても印象がつよい宿だったことがうかがわれる。

夕食は、2月の立春をすぎたころのことで、春の料理だった。
魚は、魚へんに春とかく鰆。
それに肉は由布の牛。
いい気持ちで酔う。

亀の井別荘の談話室 別棟の「談話室」では、高い書架に本が並び、コーヒーをすきに飲めるようにおいてある。
暖炉に火が燃えていて、火の動きは眺めていて飽きない。

朝は薄暗いうちに風呂にはいると、湯につかっているうちに空が明るくなり、由布岳が姿を現してきた。
朝食後、へやの内風呂にも入った。
古い材を使った家なのだが、脱衣所や化粧台のあたりは床暖房がはいっていて快適。

売店「鍵屋」の棟の2階に、昼はカフェ、夜はバーになる「天井桟敷」がある。

朝行って丸テーブルで牛乳を飲んだ。
湯布院の草創期に、まちづくりをする人たちがこのテーブルを囲んで熱い議論をしたという。
亀の井別荘の丸テーブル

談話室の2階の窓には、みごとに由布岳が映っていた。
振り返るとまばらな枝越しに由布岳が眺められたが、春になって葉が繁れば見えなくなるだろう。
窓に映る姿は年中見られることをたぶん計算して作られている。
亀の井別荘の談話室の窓。由布岳がうつる。

泊まった部屋に湯布院を紹介する記事がのった雑誌がいくつか置かれていた。
その1つに、この宿の現当主の中谷健太郎氏が湯布院に図書館を作る計画を進めているとあった。
チェックアウトのとき、フロントで図書館のことを尋ねたら、健太郎氏を呼ばれて直接話を伺えた。
「図書館については賛同して本を寄贈された方もあるが、今は動きがとまっている。インターネットが普及して、図書館の意味がかわりつつある。特殊な分野に限るやり方もあるのではないかと方向性を考えている。談話室に置いてある本は、その先駆けの意味もある」といわれる。
僕も前から金太郎飴のような図書館に強い疑問をもっている。A市の図書館とB市の図書館をそっくりおきかえられるような、似たような蔵書を並べただけの図書館が多い。図書館も地域に固有の役割があるのではないか。
湯布院のまちづくりの特徴のひとつに「よそのまちにあるからこちらにも」という発想をしない-ということがあるが、図書館のことにもその伝統がうかがえる。

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第3日 日田から中津 [宇奈岐日女神社 佛山寺 咸宜園 薦神社 中津(泊)]

* 宿を出たあと、まず宇奈岐日女(うなぐひめ)神社に行った。きのう湯布院駅近くを歩いたとき鳥居があったが、そこから長い参道がここまでつづいている。

■ 宇奈岐日女(うなぐひめ)神社
大分県由布市湯布院町川上2220 tel. 0977-84-3200

ここでの様子を司馬遼太郎はこう記している。

「森の中に石畳が敷かれ、社殿までつづいている。石畳の切石の敷きぐあいが、すぐれた抽象模様をなしていて、須田さんが、それを踏んでゆくのが惜しいような表情で、飽かずながめていた。」 宇奈岐日女(うなぐひめ)神社の石だたみ

須田剋太がこの石畳を描いたかどうかはわからないが、『街道をゆく』には掲載されていない。
今、訪れると、大きな切り株に目をひかれる。1991年の台風で杉の大木144本が倒れた。そのうち数本の切り株が残されているが、たくましく太い。今は若い木が植樹されいる。まだ細いので森が明るいが、須田剋太が来たころはもっと暗く深い森だったろう。

■ 竜峨山佛山寺
大分県由布市湯布院町川上1879 tel. 0977-84-2714

宿の近くに戻って佛山寺に行った。

「このお寺では奥さんが鐘を撞くことにご熱心で、里にいますと朝、昼、晩の三度きこえてきます」
 と、中谷氏はいった。
と司馬遼太郎は書いているが、奥さんが今も鐘をついているのかは聞き損ねた。少なくとも僕が湯布院にいる間は鐘の音に気がつかなかった。

須田剋太『竜峨山禅寺山門』 竜峨山佛山寺
須田剋太『竜峨山禅寺山門』

* 湯布院を出て日田に走って中心部の観光用駐車場に車を置いた。

■ 咸宜園(かんぎえん)
大分県日田市淡窓2-2-18 tel. 0973-22-0268

咸宜園は、幕末の学者、廣瀬淡窓が教えた塾。
建物が今も残っていて、その周囲を整備する工事が進んでいるところだった。

咸宜園 須田剋太『日田市咸宜園趾』
須田剋太『日田市咸宜園趾』

『街道をゆく』の一行が取材で訪れたときは、奇妙な管理人にうさんくさげに迎えられている。咸宜園の説明はひとこともないまま、座敷でひっくり返ったり足を広げたりして自分の健康法を話して終わり。
今の案内人は一転して、流暢な説明をされた。「20分お聞きください」といって、用意してある説明板などを使って、飽かせず話す。
おもしろかったのは、廣瀬淡窓が「万善簿(まんぜんぼ)」というものを作って、自分がした「よいこと」と「よくないこと」を、白丸と黒丸で記して、白丸が多くなるように努めていたということ。
僕もその発想には思いあたることがある。日々の暮らしで、気持ちが明るくなることと暗くなることがある。健康を害したり、人を不愉快にさせたり、気持ちが暗くなることをゼロにすることは難しい。
それでも、よい景色を見に行ったり、ささやかでも人の役に立ったり、明るくなることを積み上げて、なんとか差引プラスにしたいと思っている。
説明では、廣瀬淡窓の記録には「生涯で16000の白丸がある」という。黒丸はいくつだったかきいてみたが、それはわからなかった。単純に丸1つずつではなく、著作を書いたときは10個とかつけているというから、自分の気持ちの励みのために意識的に白丸が黒丸を越えるようにしていたかもしれない。

■ 豆田町、廣瀬淡窓の生家
大分県日田市豆田町9-7 tel. 0973-22-6171

咸宜園の北、豆田町の古い街並みを歩く。
廣瀬淡窓の生家がある。

須田剋太『日田市廣瀬淡窓の生家』 日田市、豆田町の通り
須田剋太『日田市廣瀬淡窓の生家』

昼どきになり、この通りの古い民家を使った店でカレーを食べる。

* レンタカーで中津に向かう途中に眠くなって、スケートリンクの駐車場で短い時間昼寝をした。その間に携帯に留守電が入っていて、亀の井別荘から、忘れものがあったという連絡だった。
電話をいれて、明日、3時か4時ころ取りにいくことにする。

この先は「中津・宇佐のみち」になり、中津市街に入る前にまず薦神社に寄った。


■ 薦(こも)神社
大分県中津市大貞209 tel. 0979-32-2440
http://komojinja.jp/

池が御神体という神社で、水にひたって鳥居が立っている。
ひっそりしているが、大きな宇佐神宮の根源にあたる神社で、「宇佐神宮の最大の宗教行事は神職が薦神社の池で真薦を刈ること」と司馬遼太郎は説明している。
鳥居と参道と本殿と池が素直に並んでいなくて、渦をまいて歩くような感じになる。どういう考え方で配置されているのか不思議だった。

須田剋太『みすみ池』 薦神社(こもじんじゃ)
須田剋太『みすみ池』

須田剋太はここでは池に鳥居が建つ風景を実景どおりに描いている。

● スーパーホテル大分・中津駅前
大分県中津市東本町3-12 tel. 0979-23-9000

今朝までいた宿とは一転して、合理性、経済性をつきつめたようなスーパーホテルに泊まる。宿泊料は前夜と1けた違うが、経費を抑えながら快適さを保つシステムに感心する。

10階だったかの部屋に入って窓の外を見ると、隣のホテルの屋上に奇妙な物体がある。どうやら福沢諭吉像で、夜にはライトアップするように3つの照明灯が囲んでいる。
アップで撮ると、照明器具と重なって、ちょうど福沢が好きだった演説をしているふうになる。
ホテル屋上の福沢諭吉像

屋上とはいっても、そのホテル自体が道から奥まったところにあり、ふつうに街を歩いていてこの像が見えることはあまりないのではと思う。

■ 中津駅周辺

夕飯をとるためにホテルを出た。
泊まったホテルは中津駅の南がわにある。
閑散としていて、歩いている人の姿が少なく、広く空き地のままの区画もある。
でもこちらは新開発地区だからで、駅の向こうは城があったり、福沢諭吉の住居があったり、繁華なのだろうと思った。
ところが高架の駅の下を抜けて反対側にでても、静かで活気がない。たしかにそちらがメインではあるようだが、正面に福沢諭吉像が立っていて、すぐその右の角を見るとパチンコ屋がある。駅を出てまず最初の角にある店がパチンコ屋...
左にアーケードの商店街があるので入ってみるが、シャッターがおりた店ばかり。3つ4つの飲食店が開いているが、あまり人を見かけない。
仮面をかぶった小さな子が駆けてきたり、ミニスカートで自転車に乗った女子高生のナマな足がいきなり目にとびこんできて驚かされたり、寺山修司の映画世界のよう。
これが深夜とか早朝とかではなく、日曜日の夕方6時ころの風景。福沢諭吉は実学のすすめをした人だが、その出身地がこんな寂れているのはどうしたことだろう。

高架のホームの下に名店街がある。
売っている土産物は、諭吉せんべいや、諭吉もなか、諭吉の肖像が入った「一万円札」の紙幣模様のメモなど。

名店街を出てから振り返ると、名店街の入口に見覚えのある緑色の円形があって、「あれ、スタバがあったかな」ともう一度見回してみるが、やはりない。よくみると名店街のマークだった。
中津では諭吉を尊敬しているのか、パロディの対象にしているのか、わからなくなるほど。
スタバのふりをする諭吉

中津は城があり、福沢諭吉ほどの人物もでた歴史がある。青森に対する弘前、前橋に対する高崎のように、県庁所在地の大分に対抗するほどの存在感がある都市かもしれないと予想していた。
駅周辺を見るかぎりでだが、予想ははずれてひっそりしていた。

それで夕飯をとる店も選択肢がとても少なくて、結局ホテルにあった飲食店マップにある店のひとつに入った。
料理がおいしく、酒であたたまり、寂しい通りを歩いて少しスカスカしていた気分が埋め合わされた。ただその店は東京に本店があるチェーン店で、なんかなあ-という気がした。

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第4日 中津と宇佐 [福沢諭吉旧居 合元寺 中津川 中津城 和間神社 宇佐神宮 安岐川 大分空港] 

■ 福沢諭吉旧居
大分県中津市留守居町586  tel. 0979-25-0063

福沢諭吉旧居として残っているのは母の実家。
諭吉の生家は土台の石だけ残っていて、母の実家より小さい。
福沢諭吉の父の旧居のあと。現存する母の実家より狭い。

庭の井戸から石を組んで排水装置が作られている。
須田剋太がこのあたりを描いている。

須田剋太『百助のことなど』 福沢諭吉の旧居
須田剋太『百助のことなど』

別に小さな小屋があっておもしろい形をしている。この2階で福沢諭吉が学んでいたという。
その2階への階段を上がると真っ暗で、フラッシュをたいて写真を撮ると、諭吉の人形が本を読むふうに作ってあった。
須田剋太がここを描いているが、そのときは照明でもついていたろうか。
(あるいは人形まで置いているのに室内が真っ暗なのはおかしなことで、僕が行ったときたまたま照明が壊れでもしていたのかもしれない)

須田剋太『勉強した蔵の二階』 福沢諭吉が学んだ二階の部屋
須田剋太『勉強した蔵の二階』

となりにコンクリートづくりの資料館が建っている。
諭吉には子供が多くいた。女性にはきれいな名前をつけたのに、男には「一太郎」以下、記号のような名前だったというのがおかしい。
「中津の子が慶応大学に入ったら、諭吉先生は、やっぱり嬉しいと思う」というコピーがついた慶應義塾大学入学金給付奨学金のポスターが貼ってあった。

須田剋太『中津の諭吉』 福沢諭吉の旧居。大河ドラマののぼりが立つ。
須田剋太『中津の諭吉』

*福沢諭吉旧居から南に歩くと寺が多い一帯で、住居表示も寺町という。
あちこちの塀に福沢諭吉のお言葉が貼ってある。


■ 合元寺(ごうがんじ)
大分県中津市寺町973  tel. 0979-22-2037

塀の壁を赤く塗った寺がある。
短い期間、中津城主だった黒田孝高(1546-1604)が、前の領主宇都宮重房を中津城内で謀殺した。重房の家来はこの寺にいて殺された。その後、寺の白壁についた血痕が白く塗り替えても消えないので赤く塗ったという物語がある。
中の住まいの壁は、長く日を浴びて褪せた赤色だが、塀の壁はきつい赤色をしている。塗り替えて間もないのだろうか。
庭があまりつくりこんでいなくて、日常的な雰囲気で、かえって味わいがある。
来年2014年のNHK大河ドラマは、黒田孝高(くろだよしたか 通称「官兵衛」、出家後は「如水」)が主人公という。
中津市内にいくつも「大河ドラマ 軍師官兵衛」と記したノボリが立っていた。
寺町のあたりや、合元寺も、いくらか様子が変わるかもしれない。

須田剋太『合元寺 赤壁寺』 合元寺 赤壁寺
須田剋太『合元寺 赤壁寺』

■ 河口ビューイング/中津川・山国川

英彦山(ひこさん)を源流とする山国川は、北に流れて中津市で周防灘に注ぐ。
河口に小祝という島があって、川は左右に分かれる。
左が山国川で、右は中津川となる。中津川という名の川は、小祝の島に沿った部分だけで、とても短い。

河口ウォッチング・中津川 はじめに中津川のほうの河口に行った。
土手に上がると、干潮のためか川底が広く見えていて、水は少ない。
上流のほうを見ると、土手のすぐ外側に中津城が見える。

このあたりは中津の人、松下竜一(小説家、歌人 1937- 2004)が妻と暮らして、豆腐屋を営みながら幾つもの短歌や文章に記したあたりになる。

出来ざりし豆腐捨てんと父眠る未明ひそかに河口まで来つ
ひそやかに競いほぐるるマツヨイクサみごもる妻と夕土手に坐す
(『豆腐屋の四季』松下竜一)

松下竜一の住まいは、中津駅から福沢諭吉旧居に向かう福沢通りが狭くなるところ、福沢旧居と城への案内板が立つ近くにあった。
体が弱いのに過酷な豆腐づくりの作業をし、小祝島の食料品店まで毎日配達した。
妻はそうした店のひとつの娘で、その母とともに松下竜一を支えた。
松下竜一にとって、河口は、毎日橋を越えて豆腐を売りにいく商売の風景でもあり、夫婦で毎日犬を連れて散歩する気持ちのよりどころの風景でもあった。
僕は旅に出ると河口に寄り道するが、これほど個人の思いが濃厚にこめられ、また文字に残されている河口は多くない。

さらに河口先端まで行って、また土手に上がってみた。
先端部を点線で結ぶようなぐあいに、砂州が途切れ途切れに並んでいる。
他の川では、川の水が海に勢いよく流れこんでいたり、満潮で波が海から川に押し寄せていたり、海と川の境はあいまいなことが多い。こんなふうに記号めいた洲があって海と川が区切られていることも珍しい。

河口ウォッチング・山国川 橋を渡って小祝島に渡り、島を横切って山国川の土手に行ってみた。
不思議なことに全面に水がたっぷりと流れていて、川底がのぞいていたり、砂州が川幅を狭めていたりしない。こちらが山国川を名乗るように、山から流れ降りてきた水の量も勢いも優勢なのかもしれない。

■ 中津城
大分県中津市二ノ丁1273 tel. 0979-22-3651

橋を戻って中津城に行った。
コンクリートつくりの城で、中に資料が展示されている。
最上階まで上がって外に出ると、中津川の河口を見おろすことになる。
須田剋太がここでその河口方面を描いている。

須田剋太『中津城ヨリ中津川』 中津城の天守閣から中津川を見おろす。
須田剋太『中津城ヨリ中津川』

中津城には天守閣はなかったというのが通説らしい。司馬遼太郎もその立場をとるが、『街道をゆく』の取材で訪れてみると天守閣が「復元」されていて、「中津というのはそんな町か」と落胆している。
城内には幼稚園から中学校くらいまでの子どもたちに城の絵を描かせて、優秀作品を展示してあった。復元したことについて「そんな町」といわれもしているほどなのに、子どもに絵を描かせて表彰している。学校では城についてどういう教え方をしているのだろう?

須田剋太『中津城天守閣』 中津城
須田剋太『中津城天守閣』

堀の石垣から城がせりだしている。こんなふうに「復元」される根拠がなにかあるのかもしれないが、とてもバランスを欠いてみえる。

*宇佐に向かう途中、中津市内を走っていて、中津市歴史民俗資料館の前を通り過ぎた。
1938年に図書館として建てられた、登録有形文化財。
中津市木村記念美術館の前も通り過ぎた。
眼科医のコレクションで、建築もよさそうで興味をひかれるが、これから宇佐神宮に行き、湯布院で忘れ物を受け取り、飛行機に乗らなくてはならない。
中津をじゅうぶんに見たとはいえないが、古く、文化のある都市という期待ははぐらかされたような印象が残った。


駅館川(やつかんがわ)というかわった名前の川を渡り、寄藻川(よりもがわ)の河口に向かった。

■ 和間神社
大分県宇佐市浮殿

宇佐神宮の神事のひとつの放生会(じょうじょうえ)は、和間神社で行われる。
宇佐神宮の神官は、16キロほど西にある薦神社に行って池の真薦を刈り、6キロほど北東にある和間神社に行って生き物を放し、ずいぶん移動が多い。

和間神社があるところは、かつての寄藻川河口近くの海辺にあたるという。沖合に新田が拓けたことにより、今では河口から3kmほど入った位置になる。
鳥居をくぐって参道を歩いていくと、川に突き出して浮殿(うきでん)がある。
祠の側面には、青い波が描かれ、波には亀や白い水鳥が浮いている。

須田剋太『和間神社浮殿』 和間神社
須田剋太『和間神社浮殿』

● 文福
大分県宇佐市南宇佐2224-1 tel. 0978-37-2083

この旅の最終目的地の宇佐神宮に着いた。
昼をすぎている。

門前に食堂や土産物屋が並ぶなかで、昔っぽいつくりの店に入った。
店の表にいたおばあちゃんが、店の奥の者に渋い声で「お客さんですよ」と告げる。
この店とおばあちゃんを紹介する新聞記事がいくつか店内に貼られている。
よく知られたひとらしい。
文福:宇佐神宮前の食堂兼みやげもの屋

名物の鳥天定食とかだんご汁定食とかあるが、軽くきつねうどんにする。

宇佐神宮は、全国に4万以上あるという八幡宮の本宮で、豊前国一宮でもある。
案内図を見るとさすがに広いし、建築物もいくつもある。ここで須田剋太が数点の絵を描いている。どこを描いたのか、やみくもに探し回るのはたいへんそうなので、文福の店の人にきいて見当をつけて中に向かった。

■ 宇佐神宮
大分県宇佐市南宇佐2859 tel. 0978-37-0001
http://www.usajinguu.com/

寄藻川にかかる神橋(しんきょう)を渡って境内に入る。
須田剋太の絵では、欄干だけではなく、踏み板も赤く、木製に見える。コンクリートで作り替えたのかもしれない。

須田剋太『神橋』 宇佐神宮・神橋
須田剋太『神橋』

上宮に着くが、あいにく有名な国宝の社殿は改修工事中で大きな覆いがかけられていた。
百段の石段も工事中で、歩けないだけでなく、フェンスを立ててあって見ることもできなかった。(左の写真のフェンスで囲まれた内側が、百段階段をのぼりきったところ。)

宇佐神宮の百段階段。工事で立入禁止。 須田剋太『宇佐神宮百段』
須田剋太『宇佐神宮百段』

『宇佐八幡神矢』という挿絵は、上宮の楼門を描いたらしく思えるが、どうも様子が違う。

須田剋太『宇佐八幡神矢』 須田剋太『宇佐八幡神矢』

宇佐神宮上宮南中楼門 宇佐神宮上宮南中楼門

絵では正面中央に破風の屋根があり、門の前に灯籠が並んでいる。
須田剋太が、風景画であっても、造型上のくふうで実際に見えるのと違うふうに画面上で構成することがあることは、これまでいくつか実例を見てきた。
それにしても、実際にはない破風の屋根を加えるようなことはまずない。
文福で教えてくれた人は、「上宮の本殿だが、向こうの宮は向きが違うようだ...」といわれていた。
お守りなどを並べているところにいって、若い巫女さんにきいてみた。2人で相談したり、実際に視点を変えるところまで歩いていって確かめてくれたりするが、結局はっきりしなかった。

       ◇       ◇

帰ってから調べてみて、この社殿は京都の石清水八幡宮であるらしいことがわかってきた。
絵に「宇佐神宮神矢」という文字を書きこんであるので、「神矢」をインターネットで調べてみると、石清水八幡宮の神矢が名高いものらしい。
それで石清水八幡宮のその社殿の写真を見ると、破風の門、手前右の灯籠の列、門のむこうの端がはねるように反った建物が並んでいて、剋太が描いた宇佐神宮は石清水八幡宮とみて間違いないようだ。

宇佐神宮のホームページには、「授与品」という項目があるが、大麻、木札、お守りなどがあるが、神矢はない。宇佐神宮庁というところに電話して尋ねると「(神矢は)うちにはないですね」ということだった。

石清水八幡宮 このあと3月に奈良に行く機会があり、石清水八幡宮に寄ってみた。『宇佐神宮神矢』と題された絵は石清水八幡宮にまちがいなかった。→[春の奈良めぐり-「奈良散歩」ほか]

『街道をゆく』の文章では、司馬遼太郎は同行したカメラマンに「石清水八幡宮の社殿と比べてみると、おもしろいかもしれませんね」といい、帰ったらさっそく石清水へのぼりましょうと話している。石清水を訪ねた司馬に須田も同行し、宇佐の絵に石清水のイメージをとりこんで描いたために、僕は宇佐神宮で迷うことになったのかもしれない。 文福で尋ねた人も、角度をかえて描いているだろうか?とけげんそうではあったが、まさか他の神宮が描かれているはとは思わなかったようだ。誰もが「まさか」で過ぎてしまったかもしれない。

* 宇佐から大分空港に向かう途中で熊野磨崖仏に寄ってみようかと思っていたのだが、湯布院に忘れ物をしてきたので磨崖仏は諦める。

● 亀の井別荘-3

とてもいい宿だが次にいつ来られることかと思っていたが、忘れ物をしたおかげで思いがけずすぐ来てしまった。忘れた袋を受け取ったあと、天井桟敷でコーヒーブレイク。

モンユフというチーズケーキにコーヒー。
「モン」はフランス語の「山」だから、モンユフは由布岳のこと。白い雪をかぶった冬の由布岳の姿をしている。しっかりした、ほとんどチーズそのもののようなチーズケーキだった。
亀の井別荘のモンユフ

真冬で雨模様で月曜なのに、金鱗湖のあたりはやはり人通りが多い。湯布院はたいしたものだとあらためて思う。

■ 河口ビューイング/安岐川

大分空港の滑走路の南端あたりに安岐川の河口がある。
河口の先の海の中に、空港への赤い誘導灯が並んでいる。
先端部にはなかなか近づけなくて、離れたところから写真を撮った。
河口ウォッチング・安岐川

* 帰ってから湯布院のパイオニアの中谷健太郎の本を読んでいると、辰巳芳子との共著もあった。
まちづくりをリードする人と、食べるものを調理する人が、「人がよく生きる」ということに接点があって、行き来している。
ちょうど辰巳芳子を撮った映画『天のしずく 辰巳芳子"いのちのスープ"』が公開されていて見にいったが、すてきな存在感だった。
旅をした旅先で見ること、聞くことだけでなく、こんなふうに旅の外側でも広がりがあることも楽しい。
広瀬淡窓流「万善簿」の○がふえることでもある。


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参考:

  • 『街道をゆく8』「熊野・古座街道、種子島みちほか」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1977
    『街道をゆく34』「大徳寺散歩、中津・宇佐のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1989
  • 『須田剋太「街道をゆく」とその周辺 週刊朝日連載二十周年記念』 木村重信他編 朝日新聞社文化企画局大阪企画部 1990
    『「街道をゆく」展 司馬遼太郎と歩いた25年』 朝日新聞社 1997
  • 『湯布院発、にっぽん村へ』 中谷健太郎 ふきのとう書房 2001
    『まちづくりは面白い』 中谷健太郎・畠山重篤ほか ふきのとう書房  2003
    『新・ムラ論TOKYO』 隈研吾・清野由美 集英社新書 2011
    『毛づくろいする鳥たちのように』 辰巳芳子・中谷健太郎 集英社 2005
    映画『天のしずく 辰巳芳子"いのちのスープ"』 監督 河邑厚徳 2012
  • 『松下竜一その仕事1 豆腐屋の四季』 河出書房新社 1998
    『ビンボーひまあり』 松下竜一 筑摩書房 2000
    『巻末の記』 松下竜一 河出書房新社 2002
  • 4泊5日の行程 (2013/2/1-4) (-レンタカー …徒歩)
    第1日
    [大分]大分空港-大分県立芸術会館-大分市美術館-大分市民図書館-レンブラントホテル大分(泊)…大分県立図書館
    第2日
    [大分-日出]二の丸館…メンズショップスタート…日出町立萬里図書館-
    [湯布院]湯布院駅舎金鱗湖…湯布院美術館…末田美術館…亀の井別荘(泊)
    第3日
    [湯布院]宇奈岐日女神社-佛山寺-
    [日田]咸宜園…廣瀬淡窓の生家・廣瀬資料館…島屋-
    [中津]薦神社-スーパーホテル大分・中津駅前(泊)
    第4日
    [中津]福沢諭吉旧居…合元寺-中津川河口-山国川河口-中津城-
    [宇佐]寄藻川河口・和間神社-今福…宇佐神宮-亀の井別荘-安岐川河口-大分空港