薩摩へ-「肥薩のみち」2


『街道をゆく』の「8種子島みち」を回ったあと、「3肥薩のみち」 のうち鹿児島部分をたどった。
司馬遼太郎と須田剋太の「肥薩のみち」は、熊本(肥後)から鹿児島(薩摩)をめぐる旅だった。熊本から人吉にくだり、久七峠で肥薩国境をこえて鹿児島県に入り、反時計回りに回った。蒲生町(現・伊佐市)で「肥薩のみち」の文章は終わっていて、そこは鹿児島空港に近いから、おそらくその空港から帰ったろう。
僕は南の鹿児島港からはいって、時計回りに回って鹿児島空港に向かった。

第1日 種子島空港から東海岸を南端まで [M家 千座の岩屋 種子島宇宙センター 鉄砲伝来の地 南種子町(泊)]
第2日 西海岸を北端まで行く [島間港 住吉神社 能野焼窯跡 喜志鹿崎灯台 鉄砲館 月窓亭 西之表市(泊)]
第3日 鹿児島港から薩摩半島を西海岸へ [蒲生ふるさと交流館 蒲生八幡神社 竜ケ城山磨崖梵字 沈寿官陶苑 えぐち家(泊)] 
  第4日 西海岸から時計回りして鹿児島空港へ [川内原子力発電所展示館 薩摩川内市川内歴史資料館 曽木ノ滝 海音寺潮五郎生誕の地] 

*この旅の前半(第1日、第2日)は[丸木舟と宇宙船-「種子島みち」]
 「肥薩のみち」の熊本部分については[肥後・球磨川へ-「肥薩のみち」1]

第3日 鹿児島港から薩摩半島を西海岸へ [蒲生ふるさと交流館 蒲生八幡神社 竜ケ城山磨崖梵字 沈寿官陶苑 えぐち家(泊)] 

種子島の西之表港を8時に出港した高速船は、鹿児島港に9時半ころ着いた。
指定席に座ったきりで、船からは展望を楽しめない。

須田剋太『薩摩桜島』 桜島
須田剋太『薩摩桜島』 船を下りてみると、すぐ対岸に桜島があるが、上半分は雲に隠れていた。
埠頭の先までいって写真をとった。

* 天文館という繁華街にあるタイムズレンタカーの営業所へ行くのに、タクシーに乗った。歴史好きで愛郷心いっぱいの運転手さんで、短い距離だが、西郷とか龍馬とかのゆかりの地を説明してくれる。
レンタカーを借りて走りだすと、鹿児島中心部は市電が走っていて、慣れない者には市電の線路がある道を走るのは神経をつかう。
北へ向かって鹿児島市街を抜けた。


『街道をゆく』の旅では1972年に蒲生町(かもうちょう)に来ている。
その後2010年に、姶良郡蒲生町・姶良町・加治木町が合併して姶良市(あいらし)になっている。
蒲生で須田剋太が描いている八幡神社をめざすと、近くに公共駐車場らしい駐車場があり、車を置いた。

■ 蒲生ふるさと交流館
鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2241 tel. 0995-52-0115

数段の階段を上がった土地に、庭をはさんでV字形をした施設がある。
きのうの雨でしめった草を踏んで庭を歩いて、V字の先端にある入口から入ってみた。
蒲生ふるさと交流館

地域の交流拠点の場ということで、「交流室」「展示室」「資料室」「廊下ギャラリー」がある。
「展示室」には、旧蒲生町の彫刻家、板橋一歩(1911-1993)の作品が常設展示されている。
板橋一歩作品展示室

廊下に学校みたいな小さな椅子と机があり、コーヒー200円というサービスがあるので注文する。
種子島で船に乗る前に大きなおむすびをいただいていたので、それとコーヒーでランチにした。手ごろなところがあってちょうどよかった。

事務所にいらした女性に八幡神社ほかの場所を教えていただいた。
建物が学校っぽいと思っていたら、もとは保育園だと教えられた。
2011年に旧蒲生保育所を必要最小限に改築し、交流施設にかわったという。

■ 八幡神社
鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2259-1 tel. 0995-52-8400

須田剋太『蒲生町八幡神社』 蒲生八幡神社
須田剋太『蒲生町八幡神社』

階段を降りて駐車場に戻り、別な方向に歩くとすぐ八幡神社があった。
1985年の台風で社殿が大破し、現在の社殿はその後再建されたもの。
『街道をゆく』の旅は1973年だったから、須田剋太が描いたときとは社殿が建て替わっているが、形は同じようだ。

社殿のすぐわきに日本一の巨木という大きなクスノキがある。 蒲生八幡神社の大クス

神社からゆるい坂を下ると、その先の道の両側に武家屋敷が並んでいる。
よく古い風情が残っている。

蒲生の武家屋敷

司馬一行が蒲生の町役場に寄ると、町長が案内しようと申し出て、さらに町の人数人が加わった。(2010年の合併後は町役場は支所になり、当然に町長もいない。)
八幡神社で話しているとき、須田剋太は離れたところに見える竜ケ城をスケッチしていた。ひとりの人(野村さんという)が、竜ケ城には大きな岩の断崖があり、「いつの時代に誰が彫ったともわからぬ梵字が千六百個ほど残っています」と言った。
 私は内心、野村さんまずいことをいってくれた、と当惑した。須田さんが行こうと言いだすにちがいないとおもったのである。
 須田さんは具体的なものよりも象徴的なものや抽象化された世界にひどく心をうごかすひとなのである。(中略)須田さんには神秘的嗜好はないが、梵字の象徴性やその抽象画のような形象にひどく魅(ひ)かれるものがあるらしい。
 魅かれるのはむろん須田さんの自由である。ところが須田さんは魅かれたとなれば矢もたてもたまらなくなるひとで、竜ケ城への距離感や、竜ケ城に登ることの大変さなどは計算要素に入らなくなってしまう。(『街道をゆく 3』「肥薩のみち」 司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)
そしてそのとおりになって、町役場のライトバンで一行は竜ケ城山に向かったのだった。

* 駐車場に戻って車に乗り、細い川を南に越え、横尾口団地の中の道に駐車した。

■ 竜ケ城山

司馬遼太郎の文章からすると、目的地はずいぶん遠いうえにかなりの山中にあるように思える。
ところが、カーナビをたよりに着いてみれば、八幡神社から2キロ弱、かつての蒲生町の中心部からわずかに離れたところで、車ならなんてことはない。
小さな公営住宅団地のなかの道に車を置いて、草原のなかの坂道を少し歩けば崖があり、梵字が刻まれていた。
司馬遼太郎は坂道がきわめて苦手なもので、竜ケ城は遠くて高くてとんでもない行程と感じていたようだ。

かつてここに蒲生氏の本城(竜ヶ城)があった。
梵字は120メートルにわたって1,700字ほどあるという。
ここで須田剋太は梵字の崖を2枚描いている。
草がきのうまでの雨で湿気を含んでいて、歩くと蒸し暑い。
須田剋太が描いた文字を探す気力は失せているが、1文字だけ似たような形を見かけた。

須田剋太『蒲生城磨崖梵字不動』 蒲生城の磨崖梵字
須田剋太『蒲生城磨崖梵字不動』 似ているような...

* 旧蒲生町は、薩摩半島の東寄りにあり、桜島をかかえる鹿児島湾に近い。
いったん西へ走って半島を横切り、外海(東シナ海)に面する日置市にはいった。


■ 沈寿官陶苑
鹿児島県日置市東市来町美山1715 tel. 099-274-2358
http://www.chin-jukan.co.jp

駐車場に車を置いたあと、正門に向かわず、敷地の奥にある工房に向かう道に入ってしまった。
垣根に沿っていく。
蒲生の草道では、雨のあとの湿気に辟易してきたが、ここでは、しっとりと心地よい。
沈寿官陶苑:垣根

沈家は、秀吉による朝鮮出兵のとき、島津氏が連れ帰った工人たちのうちの1族で、薩摩の貴重な産物となった陶器をつくり、島津氏から厚遇された。
当初の陶土や釉薬の探索や、日韓のあつれきや、大きな苦労を重ねてきた。
12代からは「沈寿官」を代々引き継いで名のるようになった。
今の当主は15代。

司馬遼太郎は14代と親しかった。
1968年には14代沈寿官氏を主人公にした『故郷忘じがたく候』を書いている。
『街道をゆく』では、1972年の「肥薩のみち」のとき、ここ美山に訪れている。
1975年の「種子島みち」では、司馬遼太郎一行に沈寿官氏も加わっていて、夜の宴ではおおいに盛り上がって、須田剋太と沈寿官氏が暗い道にくりだしてゆくというようなことまであった。(→[丸木舟と宇宙船-「種子島みち」]

登り窯や庭を眺めていると、この窯の女性に声をかけられた。
須田剋太が描いた地をたどっていると話すと、「今ちょうど売店棟に(14代の)沈寿官さんがいる。制作場がまもなく休憩時間にはいるので、今のうちに見てきて、すんだら売店にいらっしゃい、ひきとめておくから」と親切にいわれる。
沈寿官陶苑:窯

ガラス窓ごしに制作工程を見られるようにしてある制作場を見てから売店棟に向かった。
中に入ると沈寿官さんに笑顔で迎えられ、支払いをするカウンターから少し離れて作業机のような場所があり、そこで話をうかがった。
いちばんはじめにでてきた話は、須田さんはおかしな人で、故郷にスパイがきたという。
故郷(埼玉県吹上町=現鴻巣市)に骨董屋ができたが、おかしな言葉を話すので、故郷の人たちはあやしみ、スパイではないかとうわさがたち、みな敬遠していた。
後年、京都に行ったら、かつて聞いた怪しい言葉を話すスパイがたくさんいると驚いたが、わかってみれば骨董屋は、ただ京都弁を話す京都の人だった。
この話は『街道をゆく』の「種子島みち」に司馬遼太郎も書いているが、よほどおかしくて印象が強かったのだろう。

種子島に行ってからきたと話すと、種子島市長のことになった。
市長とは戦友で親しいとのこと。
小西行長と戦ったと、遠い先祖のことを自分のことのようにユーモラスに言うような人。
その市長が過疎化に悩んでいて、島に関心を持ってもらう1つの手立てとして司馬さんに来てもらえないだろうかという。
司馬さんにどうしようかというと、司馬さんが「そうするといいよ」ということで、『街道をゆく』で種子島に来たという。

島の話が続いて、その先の奄美大島で講演したことがある。方言であいさつしたいから教えてと講演担当者にいうと、紙に5つも書いてあるのを渡された。方言が島ごとに違うという。
種子島で、妻の先祖が徳之島から種子島に丸木舟で着いたとき、言葉がわからないので、最初の上陸地からは追い払われたということだったが、なるほどそれほど言葉が違うのかと納得した。

かつて司馬遼太郎がここを訪れたとき、外から座敷にあがってきた沈寿官さんが、
「きょうは日暮を厭(いと)わずゆっくりして賜(たも)っせ」と言いながら、もう焼酎の茶家(ちょか)をとりあげていた。(『故郷忘じがたく候』司馬遼太郎)
ということがあった。(茶家は薩摩でいう土瓶のこと)
種子島の旅でもおおいに飲んだことが『街道をゆく』に記されている。
おおらかな話しぶりに誘われて、今も焼酎はさかんに飲まれているでしょうか?と、つい失礼かもしれないことをきいてしまった。
すると顔をちょっと下に向け、頭のてっぺんを指さしてみせながら
「ここらでは焼酎は髪と同じにといわれている」
と(鹿児島弁で)言われる。
髪が薄くなったら、焼酎も薄くということ。
司馬遼太郎は沈寿官さんについて、ユーモアがひとつの特性であることに何度かふれている。つらく厳しいことが多いだけ、ユーモアで乗り越えていく。
焼酎の話で、そのユーモアの一端にふれた気がした。

話がひと息ついたところで、「須田さんの絵を見よう」と売店を出た。
沈寿官さんはことし90歳になる。大柄だが、体重を感じさせないような軽い足どりで先導されて本宅に入った。
庭にのぞむ応接間の、庭をみおろすような位置に、須田剋太が桜島を描いた絵がかかっていた。
もとは司馬邸にあったのだが、沈寿官さんがとても気に入って、欲しいとねだった。
司馬さんも気に入っていた絵なのでしぶったが、桜島の絵はやはり鹿児島にあるべきと説得して、こちらに来たという。
床の間には「南州(西郷隆盛)がここで書いた」という書がかかっている。
さりげなく「ここで」というのがすごい。

写真左、床の間にかかっているのが西郷隆盛の書。
右上、壁にかかっているのが須田剋太の桜島。
沈寿官氏宅 西郷隆盛の書と、須田剋太の桜島の絵

司馬遼太郎が沈寿官さんのことを書いた『故郷忘じがたく候』に、初めてここを訪れたときのこととして、
客はこの中庭の沓脱石(くつぬぎいし)からいきなり縁にあがってゆく。座敷は中庭に面して大きく開口しており、十四代沈寿官氏が近眼鏡をかけて縁にすわり、大きな体をゆすって機嫌よく迎えてくれた。(同上)
とあるのは、この部屋のことだろう。

沈寿官陶苑:客間

入り口の間には書の屏風があり「百世清風」とある。
今でいえば朝鮮半島の南北の境に位置する所にある石碑の文字で、亡父(13代)が若い時に旅行し、人を雇って足場を組んで拓本をとった。
帰国の途中、風がやんで船が進まなくなった時、この「百世清風」をかざすと風が吹きだし、無事に帰国できたという。

百世清風

1999年、14代沈寿官さんは、長男に15代を襲名させた。以後、14代は陶器をきっぱり作らなくなった。
それから17年経つが、今もろくろを回している夢を見ることがあるという。

司馬遼太郎が『街道をゆく』の「肥薩のみち」の旅でここを訪れたときは、沈寿官さんはかなり酔っていたし、夏子夫人は窯場の指示で忙しそうで、15分いただけだったという。
とつぜん訪問した初対面の僕らが、それより長い時間いて、ゆったりとさまざまな話をきかせていただくことになってしまった。
まさか沈寿官さんご本人にちょっとでもお会いできるとさえ思っていなかったので、おおらかな人柄に間近にふれ、ゆったりお話しでき、ありがたいことだった。

* 今夜の宿に入る前に北へすこし通りすぎて喫茶店にはいった。

● JAZZ&自家焙煎珈琲パラゴン
鹿児島県いちき串木野市昭和通102 tel. 0996-32-1776

1967年開店のジャズ喫茶。
奥の壁の中央に名スピーカー「パラゴン」がある。
かなりのクラスの自動車が買えるほどの超高級機。
といっても、しかつめらしいところではなく、店内は明るく広々していて、小さな子どもをつれた夫婦ものんびりコーヒーしている。
自家焙煎のコーヒー、自家製のケーキとピザでも知られていて、むしろその客のほうが多いようだ。ケーキだけ買っていく人もいる。
僕は、「シロクマ」という鹿児島名物のかき氷をこだわりで作っているという雑誌の記事でこの店を知った。
でもかき氷にはまだ早い季節で、コーヒーと、僕はシフォンケーキ、妻はフルーツケーキ。

窓の外には並木道。
広い通りだが、すぐ市役所につきあたる市役所への進入路のような道だから、通る車は少なくて静か。

珈琲パラゴン 市役所の隣には図書館があって、図書館の帰りにこんな店でおいしいコーヒーを飲めるなんてすてき。
このあたりの一角だけで、ここはいい街だと思ってしまった。

* 来た道を少し戻って今夜のホテルに着く。

● OCEAN RESORT えぐち家
鹿児島県日置市東市来町湯田731 tel. 099-274-1173

海に面した高台にある。
部屋からはもちろんオーシャンビュー。
海に近い側に低いベッドがある。
一段高くなったところにバスルームがあって、その壁がガラスなので、海を見おろしながらはいれる。

食事ももちろん海の見えるレストランで。
いいホテルだった。

えぐち家

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第4日 西海岸から時計回りして鹿児島空港へ [川内原子力発電所展示館 薩摩川内市川内歴史資料館 曽木ノ滝 海音寺潮五郎生誕の地] 

* 今日は朝からすっきり晴れている。
天気情報では、この旅の4日間、ずっとさえないふうだったのだが、1日目は夕方降られただけ。2日目はほぼ1日中降られたが、雨のおかげで緑の葉が鮮やかな庭を見られた。きのうは回復してきていたし、今日はきっぱり晴れで、旅行前の予想よりは天気に恵まれた。
ホテルを出て、海に近い道を北に向かう。


■ 川内原子力発電所展示館
鹿児島県薩摩川内市久見崎町1758-1 tel. 0996-27-3506

川内川の左岸河口に川内原子力発電所があり、そのわずかに内陸部に広報用の展示館がある。

川内原子力発電所 ガラス張りの展望室から外を見ると、ため池の向こうに川内原子力発電所がある。
展示館に向かう道からも、展示館の中の展望室からも、原発にカメラを向けて勝手に写真を撮れる。

川内原子力発電所:原子炉 高さ12mもある原子炉の実物大模型があって、これも写真撮影禁止ではない。

原発の安全をPRするための展示物があり、いくつものカラフルな広報物がある。
入館無料で、年末年始を除いて年中無休。
今は全国の原発がとまっているが(2015年5月)、川内が再稼働の第1号とみられている。

* 原発の外周に沿って川内川の河口へ向かった。念入りな鉄条網が敷地を囲っている。

■ 河口ビューイング:川内川


川内川左岸の河口にでる。
原発の敷地は河口の先端までは占めていない。
突堤が海に向かって延びていて、釣りをする人がいた。
突堤の基部に、釣り客相手の食堂が1軒だけある。

左岸先端部は砂地に草がはえている。
そこの原発に近い側に原発反対の砦があって、「川内原発再稼働阻止!」とかかれたテントやのぼりが見える。
川内原子力発電所:再稼働阻止の砦

対岸(右岸)には、九州電力川内火力発電所の塔が見える。 九州電力川内火力発電所

* 川内川に沿ってさかのぼり、薩摩川内市街にはいる。

■ 薩摩川内市川内歴史資料館 
鹿児島県薩摩川内市中郷2-2-6 tel. 0996-20-2344

須田剋太が市内にある武家屋敷を描いている。

須田剋太『鹿児島川内市武家屋敷跡』 須田剋太『鹿児島川内市武家屋敷跡』

司馬遼太郎の文章では
「大島馬場」
 という一角が、市街部のはずれにあった。そこへ行ってみると、川内川の堤防下にわずかながら武家屋敷の集落がのこっていた。
とある。
ただ、今、薩摩川内市に大島馬場という地名はないようだ。
市内に入って、武家屋敷のことがわかるかもと、はじめに歴史資料館に行った。
展示を見たが、とくに武家屋敷のことはなかった。
窓口で尋ねても、はっきりと武家屋敷が集落として残っているところはなさそうだった。
川内駅のすぐ東側に平佐西小があり、その近くに武家屋敷がいくつかあるかもしれないと、あまり明快ではなくいわれる。

■ 大島馬場

川内川を南に越えて、左岸にある平佐西小に向かった。
周囲をぐるりと1周するが、武家屋敷らしいところはなかった。

市内に大島馬場という地名はないようなのに、インターネットで検索すると大島馬場自治公民館というのがでてきて、所在地は東大小路町(ひがしおおしょうじちょう)となっている。
川内川の右岸にあたるので、また川内川を北に越えた。

国道3号の太平橋、肥薩おれんじ鉄道、九州新幹線、天大橋と、重要な橋が短い距離に集中して川内川に架かっている。
旧薩摩街道
大平橋と鉄道橋の間の土手下を歩いてみると、「薩摩街道(出水筋)」と記した案内柱が立っている。「筋」は街道のことという。

土手に上がると「渡瀬口(わたせぐち)」の案内板があった。
参勤交代の一行がここで川を渡り、陸路を小倉に向かったという。
そのまま川内川の河口に下り、船を乗りかえて、長崎、玄界灘、瀬戸内海を経て大阪に着き、そこから東海道を江戸へ向かうルートもあったとある。
このあたりで、塀の低い部分にだけ石垣が残る家が散在していた。
『街道をゆく』の取材は1972年だった。
それから40年以上経ち、武家屋敷の集落は失われ、かろうじて石垣に痕跡が残っているのかもしれない。
 旧薩摩藩時代、郷士集落のことをフモトとか外城(とじょう)とかいった。大口にもあったが、川内にその大集落があった。その屋敷あとがすこしは残っているはずだとおもってわざわざ川内をえらんで通過してみたのだが、田舎銀座といったふうの月並みな商店街があるだけで、それらしい家並みは見あたらなかった。
 川内のこの変貌は、戦災やら水害やらによるものらしい。かつては個性的で、それなりの文化の伝統をにじませていた地方の小都市が、いまは即席ラーメンの袋のようになってしまっている。
司馬遼太郎の失望の大きさがうかがわれる文章になっている。
そのあとかろうじて大島馬場にわずかながら武家屋敷の集落が残っていたのを見いだしたのだが、今はそれもなくなったらしい。
結局武家屋敷が見つからなかったせいもあって、僕にとっても川内の街の印象はなにかとりとめないものになった。
『街道をゆく』の1972年の旅のあと、1984年には川内原発が稼働し、2004年には九州新幹線が開通して川内駅に停車するようになった。
大きな経済効果がありそうだが、それで格別に都市の魅力がましたということはなさそうだ。

鹿児島名産の黒豚を味わってみようと、とんかつの店に入って昼にした。
おいしいが格別ではなかった。

* 1972年の『街道をゆく』の旅で、司馬一行は熊本県人吉市から久七峠を南に越えて大口市に入っていた。
大口市はその後2008年に伊佐郡菱刈町と合併して伊佐市になっている。
僕らは『街道をゆく』とは逆に南から回ってきたので、まず伊佐市街の南西にある滝に着いた。


■ 曽木ノ滝
鹿児島県伊佐市

薩摩川内市街を出てからは、ずっと通行量の少ない道を走ってきた。
ところがこの滝の駐車場に入ると、人も車もいっぱいで、店も多く、とつぜん魔法で現れたような感じがする。
水がすとんと落ちる滝、石段を流れ落ちてくる滝は、よくある。
ここは横に広がって水が流れ落ちていて、なるほどナイアガラ・スタイル。
ずっと滝を眺めながらかなりの広さを散策すると、滝の眺めが移り変わっていく。
さすがにアメリカの大陸的スケール感はないが、上空の空も広々して、気持ちがあかるくなるような眺めだった。
こんな滝は国内でほかにあるだろうか。
『街道をゆく』のおかげでまた新鮮なところに導かれた。

須田剋太『大口市曽木の滝』 曽木の滝
須田剋太『大口市曽木の滝』

* 旧・大口市街に入る。

■ 寺田病院(海音寺潮五郎生誕の地)
鹿児島県伊佐市大口上町31-4 tel. 0995-22-1321

市街地の1ブロックの角に5階建ての寺田病院がある。
前に石碑があり「海音寺潮五郎生誕之地」と刻んである。

寺田病院 石碑:海音寺潮五郎生誕之地

ところが『街道をゆく』の記述とも、須田剋太の絵とも、様子が違う。
商店のならぶ道路をすこし入ると、寺が二軒あった。その寺のそばに石垣を組みあげた五百坪ほどの屋敷地があり、家屋はすでに取りはらわれていて、草だけが茂っていた。
「そこはね、海音寺潮五郎先生のお屋敷です」
 と、下の道路を通っていた中年婦人が立ちどまって教えてくれた。
寺田病院が立つところは、市街の規模からすれば広い道が交差する角にあって「商店のならぶ道路をすこし入ると」というふうではないし、石垣の上の屋敷地というふうでもない。


須田剋太の絵には司馬の文章と符号する石垣の上の地面が描かれている。
ただ不思議なのは周囲が木々と草地がはえる広い土地のように見える。
石垣の屋敷地あとに病院が建つのもありうることだが、寺田病院は住宅に囲まれた市街地にあり、寺田病院が建つのは絵と文章と同じ場所には思えない。

須田剋太『大口市海音寺潮五郎氏邸跡』
須田剋太『大口市海音寺潮五郎氏邸跡』

(旅から帰ってから伊佐市社会教育課に問い合わせた。
海音寺潮五郎は、東京に出たあと、大戦中に疎開して大口に住んだ。でもそれは生家とは別のところで、絵と文章の場所はそちらだろうという。区画整理があって風景はすっかり変わっているということだった。)

海音寺潮五郎(1901-1977)は、直木賞の選考委員をしていて、1960年に司馬遼太郎が受賞するとき強く推している。
以後も司馬遼太郎を高く評価し、司馬は恩義を感じていた。
大口での文章では、そうした個人的思いにはふれず、海音寺先生の屋敷跡をとおったことだけ淡々と記されている。

* 市街地は小さな住宅が並んでいるが、とびぬけて大きな建物があり、入る。

■ 伊佐市立大口図書館
鹿児島県伊佐市大口里2845番地2 大口ふれあいセンター2階
tel. 0995-22-0417

大口ふれあいセンターは鉄道駅の解体跡地に建った市の交流施設。
もとは宮之城線と山野線が走っていたが、廃止になり、駅舎は1990年に解体された。
1992年に大口ふれあいセンターが開所し、2階に図書館がある。
海音寺潮五郎の書斎が復元されている。
ここで須田剋太が大口市街を描いた場所についてきいてみたが、解決しない。
4階に資料館があるので、そこの学芸員に尋ねててみようと上がっていった。

■ 伊佐市大口歴史民俗鉄道資料館
鹿児島県伊佐市大口里2845番地2 大口ふれあいセンター4階
tel. 0995-22-1613

ところがここは無人なのだった。
学芸員が配置されていないというだけではなく、まったく人がいない。
展示室は暗くて、ガラスのドアを開けて中に入り、自分で照明をつける。
古代からはじまるよくある歴史資料館の展示に加えて、ここでは廃駅・廃線になった鉄道関係の資料が展示されている。
鉄道が失われたことは惜しいが、展示としては魅力的なものができそうだが、無人で照明が消えていることに力の入れ具合がうかがわれる。

大口ふれあいセンターは5階建ての、このあたりでは群を抜いて大きな建築で、体積の半分ほどは巨大な吹き抜けになっている。

大口ふれあいセンター 吹き抜けの下では、特産品売場があったり、ベンチで中学生くらいの子がたむろしていたりする。周囲の街並みからするととびぬけたスケールだが、これほどの大空間をなぜ作ったのかわからない。妻は、体育館のリノベーションではというのだが、そうとも考えないとこの巨大さは理解しがたい。

『街道をゆく』の取材は、肥後(熊本)の人吉市から、久七峠を越えて薩摩(鹿児島)に入ってきた。
肥後側から大口盆地にむかってなだらかな傾斜がある。この傾斜の風景は、声をあげたくなるほどに美しかった。(中略)
 ただ、この低地部にくると日本のすべての地方都市を醜劣な景観に変えてしまったブロック塀やコンクリート建造物、セメント製の色瓦などが点在していて、決して景色がいいとはいえなかい。
 都市部?というのは、前節でのべたように、狭い入り組んだ道路と、道路わきにびっしり建てこんだ古風な店屋があるだけである。板塀や電柱に、焼酎(しょうちゅう)の広告ポスターが目だつ。


須田剋太が描いた「道路わきにびっしり建てこんだ古風な店屋」の風景。
でも僕が行った40年後には、こういう通りは見つけられなかった。たぶんほとんど建て替わったことだろう。
須田剋太『鹿児島大口市街』
     須田剋太『鹿児島大口市街』

司馬一行が訪れたあと、鉄道がなくなり、バス路線も縮小している。
人口の減りようも加速している。
活気がないともみえるが、鉄道の線路あとが長い緑地帯になっていて、空が広く、街の独特な表情に不思議に心ひかれるものがあった。

* 肥薩国境の久七峠までできれば行ってみたかったが、それほどの時間はもうなくなっていて、空港に向かう。
鹿児島空港が近づくと、溝辺というあたりを通る。
1日目、空港のレストランで食事したとき、妻がおいしいと気に入って、わざわざ店の人にどこのお茶か尋ねていた茶の産地だ。
道沿いに茶の販売店があって寄る。
お茶は、大きさも軽さも値段も手ごろなので、僕も妻もみやげにいくつかずつ買う。
空港では、機内での夕食用に寿司とサンドイッチを買った。
帰りもスカイマークを予約してある。
飛んでいるとちょうど雲に日が沈む時間だった。


スカイマーク羽田行きからの日没

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参考:

  • 『街道をゆく 3』「肥薩のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1973
  • 『故郷忘じがたく候』 司馬遼太郎 文藝春秋文春文庫 2004
  • 『サライ・インタビュー 沈寿官』 根津信之 サライ1994.7.7
  • 3泊4日の行程 (2015.5/14-17)
    (>飛行機 -レンタカー ~船 =タクシー …徒歩)
    第1日 羽田空港>鹿児島空港>種子島空港-M家-千座の岩屋-種子島宇宙センター-門倉岬-種子島民宿はぴすま
    第2日 -島間港-住吉神社-能野焼窯跡-喜志鹿崎灯台-鉄砲館-赤尾木城文化伝承館月窓亭-栖林神社-種子島あらきホテル

    第3日 西之表港~鹿児島港=天文館-蒲生ふるさと交流館…蒲生八幡神社…蒲生町武家屋敷跡-竜ケ城山磨崖梵字-沈寿官陶苑-バラゴン-えぐち家
    第4日 川内原子力発電所展示館-河口ビューイング川内川-薩摩川内市川内歴史資料館-曽木ノ滝-海音寺潮五郎生誕の地-伊佐市立大口図書館・伊佐市大口歴史民俗鉄道資料館-鹿児島空港>羽田空港
    *この旅の前半(第1日と第2日)は[丸木舟と宇宙船-「種子島みち」]