『街道をゆく』挿絵の地めぐりのこと


画家・須田剋太(すだこくた 1906-1990)は埼玉県吹上町(現・鴻巣市)の出身で、その生家は僕の住まいから歩いて7分ほどのところにある。出身校は旧制熊谷中学校で、僕の(ころは埼玉県立熊谷高校だったが)先輩でもある。
司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵を描いて国内・国外を旅したが、僕は司馬遼太郎の文章にも須田剋太の絵にもひかれて挿絵の地をたどってきた。

須田剋太が『街道をゆく』の旅をしたのは1970年から1989年まで、ほぼ20年だった。
最初の旅「1湖西のみち」から『雪の興聖寺』。
須田剋太『雪の興聖寺』 興聖寺

須田剋太が同行した最後の旅「34中津・宇佐のみち」から『和間神社浮殿』。
須田剋太『和間神社浮殿』 和間神社
(「35オランダ紀行」にも数枚描いたが、写真をもとにしていて、オランダには行っていない。)

僕が挿絵の地をたどる旅をしたのは2010年から2019年の10年間だった。 国内をひととおりまわり終え、あと国外はかなりを残しているが、このあたりで僕としてはひと区切りにしたい。

その最初の旅「27檮原街道」から『脱藩志士吉村虎太郎銅像』。
吉村虎太郎銅像 須田剋太『脱藩志士吉村虎太郎銅像』

高知方面に旅したとき、『街道をゆく』の挿絵にあるところだからと寄ってみたのだった。このとき、なんとなし、これから『街道をゆく』の挿絵の地をめぐることになりそうな予感がうっすらとして、そのとおりになった。

僕の最後の旅は「2 韓のくに紀行」で、この絵は『慶州吐含山石窟』。
須田剋太『慶州吐含山石窟』

慶州石窟庵 ソックラム

僕がめぐったのは司馬遼太郎と須田剋太の旅のあと、20年から50年ほども経っていた。
司馬遼太郎の文章からすると、道が今ほど舗装されていなかったり、自動車道がまだなかったり、ほとんどタクシーの運転手まかせにしても移動の苦労は小さくなかったろう。時を経て道路状況はずいぶんよくなっていた。
また歴史的存在だが現状がどんなかは知られていなくて、司馬遼太郎でさえ今もあるのかどうかわからないと不安になりながらたずねあてたところがいくつかあるが、今ではインターネットでほぼわかってしまえる。
ストリートビューやグーグルアースで事前に場所の見当をつけ、慣れない地方でもネットの乗換案内で効率的なルートを選んで、鉄道や飛行機の席もネットで確保する。
現地に着いたらレンタカーを借りてカーナビにその場所をセットすれば、ほぼ目的地に行き着ける。紙の地図と時刻表をたよりにしていたら目的地に到るまでにずっと手間と時間がかかったろうし、行き着けなかったかもしれない。
ただ事前にあまり精密に調べすぎると、現地での発見の喜びが減ってしまう。 同じところに訪ねなおすのは簡単ではないから、現地で行き着けなくては惜しい。調べすぎればおもしろみが減る。なかなかかねあいが難しかったが、しだいに慣れて、バランスをとれるようになった。

『街道をゆく』の地をたずねると、司馬遼太郎と須田剋太たちが訪れたときに出会っていて懐かしむ人もおられたし、また自分のところが『街道をゆく』の挿絵に描かれたことを知らなかった人もおられた。 僕が訪ねたことが、懐かしむ人には記憶を更新することになったろうし、知らなかった人には『街道をゆく』に描かれ、その原画は一括して大阪府で所蔵して、ときに公開されていることをお伝えすることになった。
司馬遼太郎は東北への旅で、日本の風景を和歌が育てたようにいっている。 歌に繰り返し詠むことによって、土地そのものが名勝になり歌枕になる。 そうしたことを司馬遼太郎は「山河を風雅でみがいた」という。(『街道をゆく』「26仙台・石巻」司馬遼太郎)
『街道をゆく』から20年から50年あとに旅することによって、ほんとうにささやかながら僕の旅は街道の訪問地をいくらかみがいたことになったかと思いたい。
司馬遼太郎の道々での発見と思索と、須田剋太が骨太な線で固定した時代と風景をたどりながら、「おかげでこんなところに導かれた」という深い満足感をいくども味わった。司馬遼太郎と須田剋太と自分の3つの視点から複眼的に風景を眺めていくという感覚も楽しいものだった。

時が流れて風景がかわっていたり、須田剋太が画家の感性で実景をデフォルメして描いていて、謎をかけられることがしばしばあった。
資料を調べたり、現地で人にたずねたり、推理したりして、「ここ!」にたどりついたときの快感は、すっと着いてしまうときより大きかった。
こんなおもしろいことをひとりじめしていていいのだろうかと、よく思った。
そのおもしろさにひかれたことと、インターネットなどのテクノロジーが、観光的有名地をまわるのではないマイナーな地点をたどる旅をかなり簡単にしてくれたおかげがあって、『街道をゆく』の国内の全街道をめぐることになってしまった。

旅ではいくつもの幸運に恵まれた。
司馬と須田が旅したときに会って話したり、案内したりした人が、たまたま僕が訪れたときに庭で草取りをしていたり、別棟にある仏壇におまいりするために家から出てこられたところにいきあたったりした。

幸運の例のひとつ。
淡路島に行くとき、司馬遼太郎一行は明石港から岩屋港まで播但汽船に乗ったと文章にある。それで淡路島の東岸にある岩屋港に行き、須田剋太の絵にある文字をたよりに「一二楼」を探したが見つからなかった。この絵は諦めて先に行くことにし、ある商店の風情が気になってどんな店だろうと寄ってみた。 するとその雑貨店の女性がその名をご存じだった。島の西岸の富島港にあり、その人はその町から東岸の岩屋に嫁いで来られたのだった。
富島は(旧)北淡町の中心地で、かつて富島港からも明石への船便があった。『街道をゆく』の文章によれば司馬一行も西岸に行ったのだが、富島まで到ることはなく文章は終わっている。そのあと富島港から帰ったのかもしれないということも想像させる。
僕は翌日「一二楼」に行き、そこは阪神淡路大震災の震源地間近で、思いがけない経験や風景の変貌も見ることになった。(→[淡路島の港のいちじろう])
岩屋の雑貨店に寄ったことは挿絵の地めぐりの最大の奇蹟だったが、ほかにもいくつも予想になかっためぐりあいがあった。
須田剋太『明石播但渡し場』

須田剋太『明石播但渡し場』

天候にも恵まれ、旅行前には雨の予報だったのに、着いてみれば晴れているということが、じつに幾度もあった。 極端なときには、早朝に注意報がでるほどだったのに降られずにすんだこともあった。
僕の人生にいくらかある幸運を、この旅ですっかりつかいきっているのではという気さえした。

これほどの旅を可能にしてくれた司馬遼太郎と須田剋太、現地でお会いしたひとたちに感謝したい。
またホームページに須田剋太の作品画像の掲載を認めていただいた須田剋太作品の著作権者、画像データの使用を認めていただいた大阪府江之子島文化芸術創造センター、『街道をゆく』の挿絵の地をめぐることを見守っていただいた司馬遼太郎記念財団にも、ずっと感謝の気持ちをいだきながら旅を続けてきた。
すべての旅をそっくりもう一度繰り返してみたいと思うほどに楽しい旅だった。

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