はるかな佐渡


9月初めに佐渡に行った。暑さのピークを過ぎ、学校の夏休みが終わって落ち着いてもいるだろうとこの時期にした。
かつて大学に入って初めてちょっとした日数になるひとり旅をしたのが佐渡だったが、前世紀のことで、それ以来40年ぶりになる。
須田剋太は1927年に熊谷中学校(現・熊谷高等学校)を卒業している。
僕はその学校の40年ほどあとの後輩にあたる。
佐渡を旅するうち、高校時代にさかのぼるような思いがけない展開もあった。
『街道をゆく』の「10佐渡のみち」で、司馬遼太郎、須田剋太の一行が佐渡を訪れたのは、僕のひとり旅の数年後の1976年だった。

第1日 両津港から真野をとおって宿根木(泊) [熱串彦神社 二宮神社 財団法人佐渡博物館 司馬凌海生家跡 恋が浦 倉谷の大わらじ 一里塚 蓮華峰寺]  
第2日 小木から相川を経て両津(泊) [宿根木 小木港 佐渡奉行所 濁川河口 波切観音 佐渡金山 水替無宿の墓 佐渡空港 佐渡グランドホテル] 
第3日 両津港から新潟港へ、帰る 
* この旅では須田剋太が絵を描いた地点でわからないところがあり、翌年春に再確認に出かけた。(→[ふたたび佐渡へ])

第1日 両津港から真野をとおって宿根木(泊) [熱串彦神社二宮神社 財団法人佐渡博物館 司馬凌海生家跡 恋が浦 倉谷の大わらじ 一里塚 蓮華峰寺]

■ 新潟港~両津港

2泊3日の旅程なのだが、旅行前日の天気情報では、佐渡に滞在中のはじめの2日間はきっぱりと「雨」。3日目、帰ってくる日は「晴れ時々くもり」。
ところが新潟に向かう新幹線ではまだ雨が降ってこない。
佐渡へ渡るフェリーに乗ってからも、雲はあるが、青空もあって、時たま陽がさしてくる。
ひどく暑いほどではなくて、潮風が心地よかった。

佐渡へ行くフェリーの港は、秋田や敦賀とを結ぶ長距離フェリーの港とは別にある。
佐渡汽船の船が出港してまもなく、長距離港の近くを通るとき、新日本海フェリーの船がとまっているのが見えた。かつてNHKのテレビ番組の撮影で新潟港から敦賀港に向かったことがある。このあたりの景色はそんなことも思い出して懐かしい。

信濃川河口・新潟港

新潟港は信濃川の河口にある。
河口の最先端部では両岸にタワーが立っている。(河口の地下はトンネルになっていて、タワーを地下まで降りると歩道があって、トンネルを歩いて横切れる。)
河口付近では、水は川が運んできた土で泥色だったが、沖にでるとインクのような青紫色になっている。
船にカモメの群れがついてくる。
デッキからカモメにスナック菓子をさしだす人たちがいる。カモメは風の受け具合ををコントロールしながら近づき、一瞬をとらえてくわえていく
昼が近づき、船のレストランに入り、けっこう涼しいのであたたかいラーメンにした。

* 両津港で降り、レンタカーを借りた。

■ 熱串彦(あつくしひこ)神社
新潟県佐渡市長江854

『街道をゆく』の取材で、司馬遼太郎と須田剋太の一行は、新潟空港から飛行機で佐渡に行った。
佐渡空港からは、まず熱串彦神社に向かっている。
神社は両津港の南西2キロメートルほどにあり、僕もまずそこに行った。
両津湾と真野湾にはさまれて国仲平野があり、350号線がその平野を横切って2つの湾を結んでいる。
その道からわずかに離れたところに神社がある。車でそばまでは近づきがたいようなので、道ばたの広いところに車を置いて、あぜ道を歩いた。
田んぼの先にこんもりと森があるのがそうだろうと見当をつけて向かう。
雨が降るどころか、強い日が射して暑いくらい。雨の心配をするばかりで、帽子なんか持ってこなかった。

須田剋太『橋掛りのある能楽堂 熱串彦神社内』 熱串彦神社
須田剋太『橋掛りのある能楽堂 熱串彦神社内』

木々に囲まれて神社があり、寂びた風情がいい。
本殿の左に能舞台がある。
昨年(2012年)に改修がすんで記念公演が催されたときの次第を記した紙が、壁に張られたまま残っていた。

佐渡の最初の訪問地には、とてもいい印象を受けた。
雨を想定していたのに、青空と、日射しと、いかにも青くたっぷり実りそうな田の中を歩いているだけでも気持ちよかった。
『街道をゆく』をたどるのでなければ、こうした小さくて魅惑的な神社に来ることはなかったろう。

*『街道をゆく』の行程にしたがって、次に二宮神社に向かう。
国仲平野を横切るこの道を走っているときに、須田剋太が「とても、島にいる感じがしません」と言っている。
佐渡は島全体がHの形をしていて、山脈が並行している。その間の道は、悠々と横たわる山並みにはさまれていくことになるから、景色はなかなか雄大で、たしかに「島」のような気分ではない。
350号線を行って真野湾がかなり近づいたあたりで右に(北に)それる。


■ 二宮神社
新潟県佐渡市二宮232

二宮神社では本殿の右に能舞台がある。
本殿の左に行くと、柵に囲まれた一角がある。順徳院が佐渡に流罪になっているときに生まれたその子の墓。
熱串彦神社で能舞台を描いた須田剋太は、こちらではその墓がある一画を描いている。
柵が四角く区切るなかに石があるとか墓があるとかいうところを、須田剋太はけっこう好んで描いているように思える。パワースポットにひかれるところがあるようだ。
このあたりは木々に覆われていて、しめっぽく、写真を撮っていると手に蚊がたかる。

須田剋太『順徳院の忠子内親王の塚』 二宮神社
須田剋太『順徳院の忠子内親王の塚』

* 真野湾にぶつかって350号線を南下していくと、真野の中心部より手前、小倉川河口付近に博物館がある。


■ 財団法人佐渡博物館
新潟県佐渡市八幡2041
tel. 0259-52-2447
佐渡博物館

ここを訪れた司馬遼太郎は
 全島わずか七万という人口で、財団法人の博物館を一つ持っているというのは、佐渡のけなげさといっていい。(『街道をゆく10』「佐渡のみち」。以下別にことわりのない引用文について同じ。)
と書いている。(僕が行った2013年の人口は6万人ほどに減っている。)
しかも年中無休で開館している。
館内の展示のなかに「佐渡をかけぬけた人たち」があった。佐渡を訪れた多くの人の顔写真と名前がズラリと並んでいるのを眺めていると、ドイツの建築家、ブルーノ・タウトがあった。
タウトは1933年から1936年までの日本での短い滞在のあいだに、日本各地を広く見て回った。
僕はブルーノ・タウトの足跡にも関心をもっているが、僕が旅した限りで「ここにタウトが来た」と何かしら示しているところは、これまでほとんど見たことがない。とくにタウトは日本海側の都市には厳しい評価をしていることが多く、むしろふれたくない所が多いかもしれない。
両津港から満員のバスで悪路を揺られながら相川に着いたタウトは、おそらく疲れもあって佐渡の第一印象はよくなかった。
ところが翌日、「今日はすばらしい収穫の日であった」と評価は一変する。

風景、家々、つつじの花。途中の吉井、長江等の諸村では、いかにも美しい調和をもつ農家の屋敷を見かけた。黒ずんだ木組と白壁、平たく傾斜した柿葺屋根には押石が載せてある、また藁葺屋根の家もあった。時には一つの屋敷内に、これらの様式がつきづきしくまとめられていた、私はいまだかつてこれほど趣のある建築を日本で見たことがない、実にすぐれた調和と高い文化とを示す見事な農家である。(『日本 タウトの日記 1935-36年』ブルーノ・タウト 篠田英雄訳。一部の漢字を改めている。)

佐渡博物館で須田剋太の絵を見てもらい、いくつか所在地がはっきりしなかった場所がどこかを教えてもらった。
剋太の絵のなかに地蔵の絵がある。地蔵はいくつもあるようだから場所の特定は難しいと思っていたのだが、いちおう尋ねてみると、それは「道しるべ地蔵」というものだと、僕には初めてきく言葉を教えてもらった。

* 旧・真野町の中心部に向かった。

■ 山本修之助・修巳氏宅、司馬凌海先生家跡

須田剋太は旧・真野町の中心部では、司馬一行を案内した郷土史家の山本修之助氏・山本修巳氏親子の家と、日本最初の独和辞典を出した司馬凌海の生家跡を描いている。
佐渡博物館で教えられたとおりに、山本修之助氏宅は350号線沿いに黒い塀が続いていた。山本修之助氏は1993年に亡くなり、今は山本修巳氏が当主でいられる。須田剋太が訪れたときの様子などおききしたくもあったが、たとえば泊まった旅館とかならともかく、個人宅に事前の了解もなしにお邪魔するのはどうかと、門前でしばらく迷ったあと、やはり遠慮することにした。

須田剋太『真野町東新町山本修之助家』 真野町・山本修之助家
須田剋太『真野町東新町山本修之助家』

司馬凌海の生家跡もそのすぐ近く。
須田剋太の絵では民家の前に石碑が立っているが、今はJA佐渡真野支店のビルの前の植え込みの中にあった。

須田剋太『佐渡真野町 司馬凌海先生 生家跡』 司馬凌海生家跡
須田剋太『佐渡真野町
 司馬凌海先生生家跡』
中央の玄関右に碑がある。

■ 恋が浦

真野の通りは海岸線に並行していて、家数軒分歩くと海岸にでる。
「恋が浦」というロマンチックな名前がつけられていて、須田剋太がそこで絵を描いている。
ところがその絵の場所がわからない。
広い公園があり、コンクリートの護岸がある。
須田剋太の絵では、桟橋が海に突き出しているように見えるが、そのあたりを行ったり来たりして探してみても、そんな特徴のある景色はありそうもない。
埋立工事をして海岸線の様子がかわってしまったらしい。

須田剋太『佐渡風景佐渡真野恋が浦』 恋が浦
須田剋太『佐渡風景佐渡真野恋が浦』 (この写真は翌日再び通りかかったときに撮った)

● カフェ

恋が浦のカフェ 海の近くに並ぶ家々の風情がいい。
潮風と日光にさらされた黒っぽい板壁の家が並んでいる。
「恋が浦」を探しているうちに、そのうちの1軒がカフェに改造されているのに行き当たった。
コーヒーを注文して一休み。
店を出ると、さすがに天気情報どおりに雨が降り出していた。

■ 順徳帝火葬跡

内陸部に向かって坂を上がる。
こんもりと木々が集まるところに近づくと、そこが佐渡に流されて亡くなった順徳帝が火葬された跡。雨が激しくなっているので、車の中から木々のかたまりの写真だけを撮って引き返す。

* 真野湾から小木港へ350号線を走る。

■ 倉谷の大わらじ


小木に向かう道の途中で、左の道ばたに立つ柱に大きなわらじがかかっていた。車で走りながら気がついたが、すぐには止められずに、少し先まで行って引き返して確認した。
「倉谷の集落にはこんな大男がいるぞ」と、外部の者に警告する「道切(みちきり)」というものの一種だという。
倉谷の大わらじ

当然、集落の反対側にもあるわけで、そちらは開けたところにあって、特異な民俗資料ということで案内板もあった。

■ 羽茂(はもち)町大橋の一里塚

350号線、倉谷の大わらじから近いところに、昔の街道の一里塚がある。
実は小木に向かうときには、日暮れが迫っているし、蓮華峰寺を目的地にしていて、この一里塚に気がつかずに通り過ぎてしまった。
翌日、真野に戻るときに気にしていると、道の両側にこんもりとした塚があり、説明板もあった。

須田剋太『真野より小木港への途上』 一里塚
須田剋太『真野より小木港への途上』 この写真は晴れた翌日同じ道を戻るときに撮った

ここで須田剋太は車を降りている。
「ちょっと」
 と、須田画伯が写生をするためか、車から降りようとした。着ぶくれているために、容易に降りられない。やっと、車が画伯を吐き出した。
 路傍から眺めていたが、どうも土饅頭というのは、そっけなくて描きにくいようであった。江戸期の一里塚は、塚の上に、旅人のために陽かげをつくるため、松や榎(えのき)を植えておく。が、この一里塚には、枯れてしまったのか、それがなかった。画伯は、とりつくしまがないような表情で、めがねの奥から土饅頭をながめている。
車から降りにくいほど着ぶくれているというのがおかしい。
司馬遼太郎のこの文章によれば、須田剋太はここで絵を描いたふうではないのだが、『真野より小木港への途上』と題した絵が描かれ、挿絵として掲載されている。塚の手前の白い柱には「史跡一里塚」という文字もかきこまれている。
この文章のあとに描き始めたのか、記憶にとどめておいて、あとで描いたのか。
わらじも一里塚も、司馬遼太郎の文章にあったから僕はかろうじて見つけられた。タクシーで移動していてこうしたものに目をとめる司馬遼太郎の「気づく目」をすごいと思う。

* (また1日目、真野から小木に向かう時間に戻って)小木への道の途中で案内標識にしたがって左折して蓮華峰寺に着いた。

■ 蓮華峰寺(れんげぶじ)
新潟県佐渡市小比叡182 tel. 0259-86-2530

斜面にいくつもの建物が点在している。
かすかな雨が降っているときに着いたので、空気がしっとりしめって、よけいに奥深い印象を受ける。
小比叡(こびえ)という地名の所に建ち、弘法大師が開基したといわれる。都との強い関係がうかがわれるが、創建にあたっての正確な事情はわかっていないらしい。

須田剋太『佐渡蓮華峰寺』

佐渡・蓮華峰寺
須田剋太『佐渡蓮華峰寺』

坂を上がったり降りたりして歩いていくと「御霊屋」と名づけられた建物があった。小さな堂が2つあり、それらを覆う大きな覆屋がかけられている。その案内板に「前にある石灯籠は北斗七星を表した珍しきもので、島ではほかで見られない」とある。
見ると7つの丸があいていて、こういう灯籠は初めて見た。

蓮華峰寺・御霊屋
灯籠に北斗七星

司馬遼太郎はここで起きた「小比叡騒動」について、かなりの紙数をついやしてふれている。
有能なために抜擢された相川町奉行が、腐敗している既存勢力からねたまれ対立した。奉行は江戸中央に訴えようとしたが失敗する。蓮華峰寺の僧は奉行を支持して寺にかくまい、ともに戦ったが、制圧された。

このことと比較して、司馬は『西遊記』をとりあげる。
通天河という大きな河に、霊感大王という大悪人がいた。その支配下にある小悪人どもを孫悟空が活躍して倒すのだが、霊感大王には歯が立たない。ついに天上に昇って観世音菩薩に泣きついて助けを求めた。
そこで菩薩は近くを歩いてみて、裏庭の蓮池に泳いでいる金魚がいっぴき足りないことに気がつく。菩薩は小さな籠をもって通天河に降りていき、ひょいと金魚をすくって籠に入れる。
これだけのことで解決してしまう。
(この文章にあわせて、須田剋太は『京劇孫悟空』を描いている。)
須田剋太『京劇孫悟空』

この話は中国の官僚制批判であると司馬遼太郎はいう。
 中国史はそのまま官僚史といってよく、裏返せばそれ以上に、それによる民衆の被害史であるともいえる。(中略)
 地方の官や吏は、その匪賊よりもたちが悪いというのは歴朝の民衆にとってのごく平凡な常識で、いかにすればかれら地方官吏の強欲な私益追求から、よりすくなく害を受けられるかということが、中国が官僚史である反面での中国民衆史であったといっていい。
この文章を読んで、現代中国もまたそのままではないかと思った。
僕は中国の風景や文明の魅力にひかれる一方で、政治の変転の激しさや、共産党の一党独裁でありながら資本主義経済でもあるねじれた体制にずっととまどいを感じてきた。
司馬遼太郎の「中国は官僚史である」という指摘は、そうした変化やねじれの底に一貫している根深い特質をついて、ひとつのすっきりした視点を与えられた。
今も地方では官僚が法を無視して大きな権力を行使していて、中央から目をつけられたときだけヒョイとはじきだされるということがしばしば起きる。「民衆の被害史」という状況は、体制の変転にかかわらず変わらずにある。
佐渡紀行を読んで中国観を勉強してしまった。

* 蓮華峰寺の坂を上がったり下ったりして歩いているうちに、小雨はやんだ。
日暮れが近づいているが、空は明るくなっている。
小木港を過ぎ、今夜の宿を予約してある宿根木に着いた。


● 民宿高山
新潟県佐渡市宿根木322 tel. 0259-86-3573

大きなけやきに隠れるように、守られるように、宿があった。
古い民家を現代的なセンスの宿にしている。
夏休みが終えたばかりのはんぱな時期で、ほかに客はなく、「今夜は貸切」と迎えられる。
海の幸たっぷりの夕飯をゆっくり味わう。
民宿高山

夜、寝るころはくもっていたが、明け方3時に目が覚めて窓を開けたら、視界の正面にいきなりオリオンの3つ星が見えた。
外に出てみるとみごとな星空で、真上に天の川がかかっている。
見あげている間に、流れ星が1つ飛び、人工衛星が2つ、ゆっくりと星空を横切っていった。

朝、6時少し前に森の向こうに日が昇って、細く見えている海があざやかに青い。

 . ページ先頭へ▲
第2日 小木から相川を経て、両津(泊) [宿根木 小木港 佐渡奉行所 濁川河口 波切観音 佐渡金山 水替無宿の墓 佐渡空港 佐渡グランドホテル]

■ 宿根木

宿根木(しゅくねぎ)には、集落の写真や映像にひかれて、いつか行ってみたいと思っていた。
小さな港を基点に、家並みが密集している。
集落全体の土地が狭いうえに、その間を堀が流れているから、1戸ごとの面積も小さく、変形敷地が多い。
そこに船大工の技術を駆使して家を建てている。


壁が船のような曲線になっている家を見かけた。
宿根木の家


宿根木の家の左側面
宿根木の家の右側面
 上の家の左側面。なぜこういう配置でこういう大きさと形の窓があるのだろう?    これは側面。左の窓がふしぎ。長く踏まれて石の角が丸くなっている。

いい風情にひかれて細い道をうろうろ歩いているうちに、集落を数周してしまった。
司馬遼太郎の小説『胡蝶の夢』には、この地の出身で幕末に世界地図を書いた柴田収蔵(1820-59)が登場する。「日本海」を名づけたのもこの人で、生家が残っている。

* 『街道をゆく』の取材では、司馬遼太郎一行は小木までは来たが、宿根木までは足をのばさなかったようだ。
僕は宿根木から数キロの距離を戻って小木港にでた。


■ 小木港

司馬遼太郎の文章には遊覧船に乗ったことが記され、須田剋太はたらい船を描いている。
遊覧船は1日数回の運航で、次の出発時刻までだいぶある。
たらい船は女性の船頭さんが乗せてくれて10分ほどで450円。
こちらはすぐ乗れるが、ひとりで乗るのは気恥ずかしい。
ほかの人がたらい船に乗って出たのを写真だけ撮る。
晴れて日射しが暑く、まぶしい。

須田剋太『佐渡小木港たらい船
佐渡小木港たらい船
須田剋太『佐渡小木港たらい船』

僕が高校を卒業して大学に入り、はじめてひとり旅をしたのが佐渡だった。
そのとき、小木港でだったかどうか定かでないが、遊覧船に乗った。川下りによくあるような小さな船だったように思う。
このときトビウオを見た。トビウオの飛び方というのは、水面上にジャンプして一瞬だけ現れるというようなものではなく、かなりの距離を飛んで、しかも飛びながら方向転換までするものだと知った。
海がかなり荒れていて、波に船が高く持ち上げられ、波が下がると船が一瞬宙に浮くほどだった。僕が乗った時間のを最後にして、さすがに以後の遊覧船は欠航になった。
今は大きく安定した形の船になっているし、そんな荒れたときには出港しないだろうと思う。

須田剋太『小木港
小木港
須田剋太『小木港』 

* 佐渡の南岸の小木から、ふたたび真野を通り抜け、北岸の相川についた。

■ 佐渡奉行所
新潟県佐渡市相川広間町1-1 tel. 0259-74-2201

広い敷地を占めている。奉行所という行政の場のほかに、勝場(せりば)という、鉱石から金銀を取り出す工場もあった。
その工場部分まで含めて復元されているが、須田剋太が訪れたころはまだ復元前、標柱だけが描かれた。

須田剋太『相川町佐渡奉行所址』
佐渡奉行所
須田剋太『相川町佐渡奉行所址』

窓口で入場券を買うと、売り場の人が出てきて、初めに奉行所について簡単な説明をされた。
佐渡にきて何人かの人と短い会話をしているが、ふつうに標準語を話す。40年前に佐渡に来たとき、佐渡では関西弁なのだと驚いた記憶がある。
司馬遼太郎も
新潟港をめざす北前船も、風待ちなどで大ていは佐渡に寄港することが多かった。このため佐渡の言葉は上方アクセントが基礎になっており、越後弁と異っている。
と書いている。
わずかな機会だけのことだが、この旅では関西系のアクセントをまったくきかなかった。40年のあいだに標準語化が進行したということかもしれない。

ついでにかつての旅の記憶をいうと、バスに乗ると、高校生が多かったと思うが、立っている乗客が進行方向を向いて吊り革につかまっていた。前へならえのようなスタイル。
初めての旅だったから、なるほど旅にでると、こういう思いがけないことに出会うことになるのかと新鮮だった。
バスでは今もそうだろうかと確かめたくもあったが、本数の少ないバスに乗る機会もなく、そもそも今は車が普及して、立って乗るほどにバスの利用者はないだろうと思った。

● 磯の家

昼食をとるところを探して、相川の中心部らしいアーケードがかかった通りを歩いてみる。人の気配がうすい通りで、手ごろな店が見つからない。
観光用駐車場のすぐ前にあるそばやに入った。もりそば350円と安いのに、蕎麦湯まででる。
相川町・磯の家

食べ終えてから、須田剋太が相川で描いた細い川がある絵の場所がどこか尋ねた。ていねいに教えてくれて、地図までもらっって、そこに向かった。


■ 河口ビューイング/濁川

体育館のそばで細い川が日本海に注いでいる。
佐渡・濁川

上流には近代になって操業していた金の採掘・工場があった。

須田剋太『佐渡相川にて』 佐渡、相川
須田剋太『佐渡相川にて』

* 須田剋太が描いた絵に「波切地蔵」と刻んだ石碑が立っているのがある。
きのう佐渡博物館で、波切地蔵は相川市街の北の「小川」という地名のあたりにあると教えられた。
国道からそれて海岸沿いの細い道に入り、何とか車をとめた。


■ 波切観音

トラクターの修理をしている60代くらいの男性を見かけたので波切地蔵への道をきいてみると、一緒に行ってあげようと歩きだす。
国道と海のあいだの幅の狭い土地に集落があって、道を幾度か曲がる。
歩いていくあいだに聞いた話-。
「冬は風が強い。去年(?)の4月には異常な風が吹き、高い波が押し寄せた。1.5mの堤防を越えて、5mの波がきた。波がひくと大きなタイがいくつも残っていた。もともと波から守るために、盛り土をして家の位置を高くしたり、海の側に厚い壁を作ったりしているが、今、堤防のかさ上げ工事をしている。
米を作っているが、今はいいことない。勤めにでるのがいちばんいい。
(かさかさの板壁を示して)日光と潮風にさらされてたみんなこうなってしまう。
(赤や黒にツヤツヤ輝いている壁をさして)塗ったばかりはあんななのに。」

着いてみると、海辺に小さな岩山があり、てっぺんに小さな社があるのが見える。
観光バスもくるという。
男性は海岸に残り、僕だけ岩につけられた階段を上がる。
小さな小屋が立っていて、札に「金戸山波切観音」とある。
須田剋太が描いた『佐渡風景』は街中の通りにでも面しているふうで、ここではなかった。

須田剋太『佐渡風景』 金戸山波切観音
須田剋太『佐渡風景』

佐渡博物館では、訪れたとき学芸員が不在で、受付の女性が親切に学芸員に電話をかけてきいてくれたのだった。絵を見てではなく、「波切地蔵」とだけ伝わったので違うものになってしまったようだ。
男性は下で待っていてくれて、一緒に戻る。話しながら歩いてきたから道への注意がそれていて、ひとりでは迷いかねないところだった。小さな集落だから迷っても何とかなるにしても、暑いのでムダなことはさけたい。目的の場所ではなかったが、ありがたいことだった。
       ◇       ◇
波切地蔵が謎のままになってしまったのが心残りになった。
真野で山本修巳氏の家には寄らなかったのだが、ここは郷土史家の山本氏におすがりするしかないかと、佐渡から戻ってからお尋ねする手紙を書くと、丁寧なお返事をいただいた。
須田剋太の絵にある波切地蔵は、山本邸の近く、恋が浦にあるとのことだった。
「恋が浦」が埋め立てられているということは、僕が推察したとおりで、波切地蔵のあたりも様子がかわっているらしい。
(翌年春に再確認に出かけた様子については→[ふたたび佐渡へ])

* 相川方向に戻る。

■ 佐渡金山


大きな近代の工場跡が細い川に並行して横たわっている。古代ローマの石造史跡のよう。
そこで作業服の人数人がなにか作業をしている。炎天下でひどく暑そう。佐渡は世界遺産をめざしているが、その一環の整備作業だろうか。
佐渡金山跡

往時の建物の一部が相川郷土博物館になっている。
車に乗ってわずかに坂道を上がると、佐渡奉行所の脇に出る。
そこからは近代の佐渡金山の全体を上からみおろすことになる。

* 佐渡奉行所の脇の道を、山中に上がっていく。
道をやや広くしてある所に駐車して、細い山道を歩いて数分上がる。


■ 水替無宿の墓

森の中に木を切り開いて作ったらしい、わずかな平坦地に石の墓が立っている。
佐渡の金山では、深い坑内での作業のために湧き水をたえず汲み上げなくてはならなかった。江戸などから強制的につれてこられた人たちが働かされ、水替無宿といわれた。犯罪者を連れてくると管理が難しくなるから、ただホームレスなだけというおとなしい人たちが集められた。過酷な作業のために短い期間で死を迎えた。
墓には28人の名が刻んである。もっと多くの死者があったろうに、なぜこの28人だけ名が記されているのか、わからない。

冒頭に書いたとおり、僕の出身高校は埼玉県立熊谷高校で、須田剋太の後輩にあたる。(剋太のころは旧制中学だった。)
その高校在学中、国語に船戸安之先生がいた。無頼ではかなげな、独特な印象がある先生だった。佐渡の水替無宿の墓に行き、そこで作った自作の詩を授業のときに生徒たちにきかせてくれたことがある。
その詩を一字一句正確に覚えているのではないが、詩のリズム感とか、早い死を惜しむ哀悼の気分とかが印象に残っていた。
水替無宿の墓の脇に案内板が立っている。一部の文字が欠落していて読めないところがあるのだが、そこに引用されている一節が、どうも船戸先生の詩らしく思えた。

水替無宿の墓の案内板2013年9月
「○ずかな時間で滅んだ君ら、穴ぐらしの過○、未来を圧せられ、五年ともたなかった、・・・・・・・・・」

○のところは文字が欠けていて、あとの行も脱落している。
それでも40年前にきいた船戸先生の詩に思えた。

     ◇     ◇

佐渡から帰ってから佐渡市文化財室にメールで問い合わせた。
案内板を作ったのは佐渡観光協会相川支部とのことで、そちらに照会してえられたという制作当時の写真データが送られてきた。

水替無宿の墓の制作時の案内板
「わずかな時間で滅んだ君ら、穴ぐらしの過去、未来を圧せられ、五年ともたなかった、命の散華か・・・」(詩人、船戸安之氏)

と、はっきり船戸先生の名が記されていた。
40年前にきいた恩師の詩に出会ったことになんとなし感動した。
また、正確な言葉でなくても、詩(の調子や、それを聞いて起きた感情)を覚えていたことにも驚いた。
40年も痕跡を残してしまう言葉の力というものにも感嘆する。

僕がはじめてひとり旅をしたのは佐渡だったが、今回佐渡に来るにあたって、なぜ最初の旅を佐渡にしたのだろうということを思い出そうとしても思い出せなかった。
これほど水替無宿の詩が印象に残っているからには、船戸先生の佐渡の詩にひかれてだったと思っていいようだ。

船戸先生には高校のころ国語の時間に教わったというだけで、卒業してから僕はまったく交渉がなかった。
これも旅から帰ってあとのことだが、高校時代の友人に電話したり、インターネットや図書館で調べてみた。船戸先生がいくつかの著書を出版し、1990年にまだ若い55歳で亡くなっていることがわかった。
同級生の姉と結婚したということを教えてくれた友人がいた。結婚したのは僕らが高校に在学中のことで、生徒たちがひやかすと先生が顔を赤くしていたという。

その同級生を介して、船戸夫人(同級生の姉)にお会いすることができた。
3年生のときに船戸先生が担任で、進路について相談し、卒業後も亡くなるまで年賀状のやりとりをしていたという友人も同行してくれて、家を訪れた。
2階が書斎で、蔵書はいくらか処分されているが、自作が掲載された雑誌や原稿は残されている。たくさんの著作があって、こんなにも書かれていたのかと驚いた。
水替無宿の詩を探して図書館にあたったときには、国会図書館、埼玉県立図書館、母校の熊谷高校図書館、いくつかの市立図書館に、数冊の著作が所蔵されているのを確認できただけだった。
船戸先生は、執筆時間を確保するために、僕らが在学した熊谷高校のあと、自宅に近い本庄高校の定時制に移った。昼間書き、夜働く。そのあと帰ってから酒を飲むということがあり、健康を害したようだ。たくさん書いたが、書くことに殉じたという印象がある。

水替無宿の詩が、雑誌に掲載されているか、原稿としてあるか、探し出すのはかなりたいへんかもしれないと予想していたのだが、探しはじめて数分で、同行していた友人が「あった」という。
自作が掲載された雑誌には表紙に自作のタイトルを鉛筆書きしてあり、1966年刊の「武蔵文芸」第2号に「水替無宿の墓 P.11」とあった。
武蔵文芸1966年第2号 武蔵文芸 船戸安之先生が記したタイトル

 水替無宿の墓   船戸安之

雪よ。
笹の葉/にも/石/にも
風ある向きにだけ/積もっては/消える。
・・・・・・・・・・・・・・
松太二十一歳
仙之助二十九歳
金八二十二歳
・・・・・・・・・・・・・・
わずかな時間で/滅んだ/君ら/穴ぐらしの過去。
未来を圧せられ/五年と持たなかった/命の散華か。
積もること知らぬ/雪よ。
それでも/江戸っ子/なんだ。/と誇示した。
江戸。/の縦文字。
削ろうと試るな。
雪よ。
君らは/この雪を/水の音と/聞くか。
汲んでも/汲みつくせなかった/水の音と。
一月二日というに/祝ってくれる人/とてない
これからも/あるまい。
死してなお。/怨念にひしがれて/ふるえ/立つ。
廃道の墓。

   佐渡相川にて

(原文は/でも改行)

正確に覚えていたのではないが、薄い雑誌に印刷された文字を追いながら、高校の国語の時間に聞いたのは「そうだ、この詩だ!」という思いがわいてきた。
40年も前に、おそらく1度聞いただけの詩を覚えていることに感嘆する。僕は記憶力がいいほうではないから、詩の力、言葉の力といっていいのだろう。
僕の側の事情を加えるとすれば、高校よりももっと若い頃から僕は早く死ぬという予感を抱いていた。21世紀なんてずっと先で、21世紀を僕が生きて迎えることはないと思っていた。若く早く死ぬ予感からこの詩に共鳴したということはあるかもしれない。
この詩を読み返すたび、船戸先生が、滑らかとはいえない、ブツブツと途切れがちの口調で、目をしばたかせながらこの詩について語る姿が、リアルによみがえってくるようだ。
今読んでも、いい詩だと思う。国語の時間に自作をいくつも披露したわけではなかった(と思う)から、先生にとっても評価が高い、また思い入れが深い詩だったのだろう。

須田剋太の足跡をたどっていると、想定外の新しい発見に出会うことが幾度かあった。
生きて21世紀を迎え、須田剋太の足跡をたどるうち、この詩(と若かったころの自分と恩師と)に出会えた。

* また車に乗って、わずか先に進むと、「史跡佐渡金山」がある。

■ 史跡佐渡金山
新潟県佐渡市下相川 tel.0259-74-2389

金鉱石を採掘して山が2つに割れてしまった道遊の割戸(どうゆうのわれと)のイメージ力、シンボル力はとても強く、この先端が見えただけで、「あの佐渡の金山」と喚起される。僕の場合、船戸先生の詩の影響もあってか、水替無宿の悲惨な歴史が浮かんできて、あまりいい感じがしない。

史跡佐渡金山の「道遊コース」に入ると、金鉱石を採掘した地下道を歩いていって、割戸直下まで至る。直下といっても坑道内にはとくに変化はなくて、坑道が続いていくうちのある地点に、ここが直下だと表示があるだけ。
いったん外に出て、、林の中の道を上がっていくと、割れ目のすぐそばに着く。

道遊の割戸

須田剋太『佐渡 道遊の割戸』
道遊の割戸



上は2つに割れ、下のほうは近代の機械力で採掘したあとの大きな空洞が口をあけている。あるべきものを強引にえぐりとった無惨な姿が不気味に迫ってくる。
道遊の割戸の下の穴

* 山中から、いったん相川市街方面に戻り、両津に向かって国仲平野を横切っていく。
両津にだいぶ近づいたところで佐渡空港に寄り道した。
350号線を右折すると、空港に向かう道は「人気(ひとけ)がない」という言い方にならっていえば「車気がない」。


■ 佐渡空港
新潟県佐渡市秋津1814-3 tel. 0259-27-3041


空港に着いてみると、小さなビルがポツンとあるだけ。付近に数台とまっている車は「わ」ナンバーのレンタカーばかり。
空港は閉まっているのかと思ったが、近づいてみたら自動ドアが開くので、かえって驚く。
佐渡空港

事務室に女性が一人いるだけ。
滑走路延長を訴えるポスターが貼ってある。用地取得が進行中らしい。
滑走路のはしは加茂湖に接している。

司馬遼太郎一行は新潟空港からここに着いた。
佐渡を案内してくれる山本修之助・修巳(よしみ)親子がいて、「奇遇ですね」と司馬遼太郎は喜ぶのだが、1日数便きりない、こんな小さな空港にたまたま来たということはほとんどありえないだろう。司馬遼太郎も、そう言ってしまってからすぐにわざわざ迎えに来てくれたことに気がつく。

僕はこのあと両津港近くレンタカーを返してから今夜泊まる佐渡グランドホテルに向かったのだが、ホテルはやや離れているので迎えの車をお願いした。その運転手さんから空港の話をきいた。
「佐渡空港は新潟空港路線のみ。ジェットフォイルと料金は同じくらい。
海が荒れて船が欠航しても飛行機なら飛ぶということはあるが、飛行機はわずか9人しか乗れないから、すっかり船の代わりにならない。
船が欠航したとき、急ぐ事情があって飛行機に乗ったことがある。ひどく揺れたし、急降下したり、とても怖かった。
ジェットフォイルも、かつては悪天候でも出て、どっと水をかぶるようなことがあった。今は国交省(?)の指導で、そんなときには出なくなった。」
カーフェリーは定員1700人。ジェットフォイルは250人。それが欠航したら9人乗り飛行機ではとても代わって運びきれない。
カーフェリーは2400円ほどで所要3時間。ジェットフォイルは6000円超で1時間。僕のこの旅では、時間も惜しいが、青春18きっぷで移動しようというのに6000円は高いので、往復ともカーフェリーにした。
でもジェットフォイル並みの料金で9人乗り飛行機に乗れるなら、次に佐渡に渡る機会があったら、一度ためしてみようと思う。
ジェットフォイルが、海が荒れても出港したという話には、かつて僕が乗った小さな遊覧船のことを思い出して、いかにもありそうなことだと思えた。

* 今夜の宿は加茂湖の西岸にある。両津港側の東の岸べに行ってホテルの写真を撮った。
湖畔に際立って見えるかと思ったが、低層で、目立たない。もっと背が高ければ目立つだろうが(ほかにそんなホテルがあり、最上部に旅館名を大きく表示している)、山並みを背景にして、湖岸にゆったりとある。
給油してから両津港のすぐ前にある営業所にレンタカーを返した。


● 両津港の立ち食いそば

ホテルの夕食は高いので予約しなかった。
ホテルから迎えの車を時間を決めてお願いしてあるので、店を探して食事している余裕はない。
ホテル付近に店はなさそうだし、うっすら雨でもある。
それで両津港のビル内で、自販機でチケットを買って簡素な夕飯になった。
そばとかつどんのセットが630円。生ビール500円。
昼間暑かったので生ビールがうまい。
そばとか、かつどんとか、司馬遼太郎が旅先でよく食べていたらしいものでもあった。

● 佐渡グランドホテル
新潟県佐渡市加茂歌代4918-1 tel. 0259-27-3281


加茂湖畔に建つホテルに泊まった。
地図で見るとこのホテルは太線1本をさっと引いたふうで、120m、一直線に部屋が並んでいる。どの部屋からも湖を眺められる。
構造材をデザインにいかしていて、2階は台形、3階は逆台形のイメージが繰り返される。
佐渡グランドホテルの展望室

朝の天気情報では、今夜の佐渡地方は雨が強まって「1時間に100ミリを越す雨」もあるとのことだった。
夜半に雨の音をきいたが、たいしたことはなかったし、よく眠れた。

翌日、朝食はレストランで、広い水面が広がるのを眺めながらとる。
菊竹清訓の設計のホテルということでここを選んで泊まったのだが、竣工年が1956年だったことには、あとで気がついた。
もう半世紀以上経っている。
あちこち建物の改修をしているだろうし、設備面を現代の水準にあわせていく必要もあるだろう。すっかり建て替えてしまったほうが効率的という選択もありそうだが、長く使い続けている姿勢に、がんばってほしいと思う。

行き帰り送迎してもらって、大浴場にゆったりつかり、湖を眺める部屋で安眠し、おいしい朝食をとり、菊竹清訓の建築ウォッチングまでして、7,650円だった。夕飯がちょっと高いなあと外ですませたのだが、ここですればよかったかと申し訳ないような気分になった。

 . ページ先頭へ▲
第3日 両津港から新潟港へ、帰る

* 朝、またホテルの車で港まで送ってもらう。今朝もひとりきり。マイクロバスなんかじゃなくて乗用車。ぜいたくなことだった。

■ 両津港~新潟港

新潟に戻るフェリーは、行くときとは違う船だった。
天気情報では雨だったが、フェリーに乗っている間は降られなかった。
船から見あげる広い空にはうっすら晴れ間もまじっている。
去ってきた佐渡は雲の下にある。
両津港9:15発、新潟港11:45着。今日も船内の食堂に入ってラーメンで早めの昼食をすませる。
佐渡

* 往路は時間を節約するために新幹線に乗ったが、復路は青春18きっぷのこの夏最後に残った1枚をつかって帰った。
午後2時5分に新潟駅を出て、長岡、水上、高崎で乗り換えて、夜8時46分に吹上着。
動き出す前は長いと思っていたが、1本の電車に乗りづめではなくて変化があったし、時間を忘れる本を持っていたし、飽きずに着いた。


ページ先頭へ▲

参考:

  • 『街道をゆく 10』「佐渡のみち」 司馬遼太郎/文 須田剋太/画 朝日新聞社 1978 (当初は「佐渡 国なかのみち・小木街道」)
  • 『かくれた佐渡の史跡 新装版』 山本修巳 新潟日報事業社 1999
    『私の日本地図 佐渡』 宮本常一 同友館 1970
    『日本海と佐渡』 網野善彦、内山節ほか 高志書院 1997
  • 『日本 タウトの日記 1935-36年』 ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975
  • 「水替無宿の墓」船戸安之 『武蔵文芸』第2号 1966
  • 「大先輩の須田剋太をめぐって、国語の船戸安之先生や、「坊っちゃん」の夏目漱石のこと」 渡辺恭伸 『熊谷高校百二十周年誌』 埼玉県立熊谷高等学校/編・刊 2015 → (PDF 4.3MB)
  • 2泊3日の行程 (2013.9/3-5)
    (→電車 -レンタカー ~船 =バス ⇨タクシー …徒歩)
    第1日 吹上駅→大宮駅→新潟駅=佐渡汽船新潟港ターミナル~両津港-熱串彦神社-二宮神社-財団法人佐渡博物館-山本修之助・山本修巳氏宅-恋が浦-真野宮-倉谷-蓮華峰寺-民宿高山
    第2日 -宿根木-小木港-一里塚-佐渡奉行所-磯の家-濁川河口-波切観音-水替無宿の墓-史跡佐渡金山-佐渡金山-佐渡市立中央図書館-佐渡空港-両津港(送迎車)佐渡グランドホテル
    第3日 佐渡グランドホテル(送迎車)両津港~佐渡汽船新潟港ターミナル=新潟駅=新潟絵屋(絵屋さんの車)砂丘館⇨新潟駅→長岡駅…アオーレ長岡…長岡駅→水上駅→高崎駅→吹上駅