ふたたび佐渡へ


半年ほど前の秋、佐渡に行ったとき、須田剋太が『街道をゆく』の「10佐渡のみち」で描いた地点をめぐって、どこかわからないところがあった。
そのあと、わかりそうになって、再度訪れることにした。
新潟市に戻ってからは、「9潟のみち」をたどった。

第1日 「佐渡のみち」 [真野・山本邸 恋が浦 佐渡ニューホテル跡 真野(泊)]  
第2日 「佐渡のみち」(から「潟のみち」) [真野・山本邸 佐渡博物館 相川 両津港] 
  第3日 (「潟のみち」)
  第4日 (「潟のみち」) 

* 前回の佐渡旅行については→[はるかな佐渡]
  この旅のつづき(第2日後半、第3日、第4日)については→[新潟で「水のあと」と「人のあと」をたどる-「潟のみち」]


第1日  「佐渡のみち」 [真野・山本邸 恋が浦 佐渡ニューホテル跡 真野(泊)]

* 新幹線で新潟に向かう。
越後湯沢の山陵地帯を過ぎると広々とした田の風景が展開する。
5月初旬、田植え季節で水面が輝いていて、このあたりは何度も通っているのに、とても新鮮にみえる。

半年前にはフェリーで往復したが、今回、往路はジェットフォイルに乗った。
フェリーは 所要2時間半、2,510円。
ジェットフォイルは、所要1時間、6,520円。
ジェットフォイルは、すべて座席指定、室内に座ったままで、甲板にでて潮風にあたるわけにはいかない。海面を滑るように前進して、波の動きも伝わらない。
船旅の情緒はとぼしいが、退屈する間もなく両津港に着く。

レンタカーを借りて、国仲平野を横切る。
佐渡市役所の文化財担当と、佐渡市立中央図書館に寄り道して、真野に着く。


■ 山本邸
新潟県佐渡市真野新町

佐渡の旧家であり、佐渡の歴史研究を担ってもいられる山本邸を訪れる。
1975年の『街道をゆく』の取材のとき、司馬遼太郎一行を山本修之助さんと山本修巳(やまもとよしみ)さん親子が佐渡空港に迎えられ、佐渡を案内された。
山本修之助さんは亡くなられ、『街道をゆく』で高校の教師と紹介されている山本修巳さんは、すでに退職し、「佐渡郷土文化の会」を主宰しておられる。
半年前に佐渡をめぐったとき、須田剋太が絵を描いた地点でわからないところがあり、帰ってからお尋ねする手紙をお送りした。親身な返事をいただき、再度現地を確かめるためにお伺いした。


玄関わきに小さなミヤコワスレが咲いている。
佐渡に流された順徳天皇が、この花を見て都への思いをしずめていたという物語がある花を、さりげなく配している。
山本修巳邸のミヤコワスレ

玄関を入ると、壁の高いところにぐるりと宿札(やどふだ)が掲げられている。山本邸はもとは本陣で、佐渡奉行や巡検使が寄ると、この札を門前に掲げた。
名のあとに「泊」とあるのはお泊まり、「休」とあるのはひと休み。
済めば不要なので、普請のさいの材に使ったりして、全部がこの形で残っているのではないが、歴代の奉行の7割ほどの名があるという。

山本修巳邸の宿札

近代になると、佐渡に関心がある人は山本家を訪ねる。そのことがまた歴史であって、訪れた人が記帳していった芳名帳が今も現在進行形で増えつつある。(2002年段階で『佐渡 山本家来訪人名録』として刊行されている。)

『街道をゆく』の取材で訪れた一行もとうぜん記帳している。
昭和51年10月18日の日付のあとに、「司馬遼太郎 みどり」とあるのは作家とその夫人。
次に須田剋太。
「橋本申一 柴山哲也」は、週刊朝日の『街道をゆく』担当編集者と、朝日新聞学芸部の人。それにみどり夫人の友人と、「芝田米三」という名がある。
芝田米三氏(1926-2006)は、画家で、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』が朝日新聞に連載されたとき挿絵を描いた。
その連載は、1976年11月11日から1979年1月24日までだった。
司馬一行が訪れたのは、連載が始まる1か月ほど前の1976年10月のこと。
週間朝日と朝日新聞の2つの連載の取材をいちどに兼ねてしていたわけだ。

『胡蝶の夢』は、1850年に、12歳の少年、島倉伊之助(のちの司馬凌海=医師になる)が、宿根木に住む柴田収蔵から、まもなく出版される予定の世界地図の原画を山本邸で見せられる場面から始まる。

 おどろきは嘉永三年、十二歳だったこの少年だけでなく、現今(いま)のわれわれでさえ、佐渡の真野町・新町の山本家で保存されている収蔵の『新訂坤輿略全図』をみれば、えたいの知れぬ感動を禁じえない。いまの山本家のそれは、この時期から二年後の正月、収蔵が江戸春草堂から出版したものである。版の精密華麗さは、おそらく原画以上であるかもしれない。(『胡蝶の夢』司馬遼太郎)

その地図を見せていただいた。この地図の価値は緯度と経度が記されていることにあるという。160年ほど前の地図だが、きれいに保存されている。歴史家でもある山本邸では、資料はすべてこのように管理されているのだろう。

司馬遼太郎が『胡蝶の夢』の準備のため、この地図を見ながら山本修之助氏と長く話しこんでいる間、他の人たちは別室で話していたが、そのうち須田剋太は外に出てスケッチを描いてきた。
そのとき描いた数点が連載に掲載された。

● 須田剋太画『佐渡風景』と『佐渡風景佐渡真野恋が浦』

週間朝日に掲載された挿絵のこの2点を描いた地点は前回わからなかった。
外に出て山本さんに案内していただく。
山本家から数分歩いたところに『佐渡風景』の現在地があった。
絵と現景を見比べて、系絵の右の建物がなくなって駐車場になるなど、かなり様子が変わっているが、なるほどここかと納得した。
絵の左方に「波切観音」と刻まれた石があり、前回、僕はこれを手がかりに相川市街より北の海岸まで行ったのだった。

須田剋太画『佐渡風景』 真野の道から海をのぞむ

『佐渡風景佐渡真野恋が浦』に描かれているのは、海岸沿いに蔵がならぶマルコ味噌で、蔵のすぐ脇から桟橋があったのだが、埋め立てされて海との間に道が通った。すっかり地形が変わってしまっている。
前回きたときに、その蔵の一部がカフェになっている店でコーヒーを飲んだ。
そこが-この絵の風景のそのままではないにしても-続きの一部なのだった。

須田剋太画『佐渡風景佐渡真野恋が浦』 マルコ味噌の蔵

海岸とは逆の高台に上がると、斜面が公園になっていて、司馬遼太郎の石碑がある。「佐渡は、越後からみれば波の上にある。」ではじまる『胡蝶の夢』の冒頭部分で、原稿用紙に書いた司馬の筆跡が刻まれている。

● 須田剋太画『真野町より真野港』

そこからさらに高いところに司馬遼太郎一行が泊まったホテルがあった。
その後廃業し、建物は去年(2013年)まであったのだが、今は解体されてさら地になっている。高台にあるうえに背が高いホテルだったから、とても眺めがよかったという。
『真野町より真野港』は、高い視点から真野港を見おろしているから、ホテルから描いたのだろう。

須田剋太画『真野町より真野港』 佐渡ニューホテル跡から真野湾をのぞむ

下の道に降りてくると「佐渡ニューホテル」という看板だけがまだ解体されずに残っていた。

佐渡ニューホテルの看板

● 須田剋太画『佐渡真野町 司馬凌海先生生家跡』

丘寄りの道から国道350号に戻る。
以前は、交差点の角に「司馬凌海先生生家跡」の碑が立っていたと、山本さんに教えられた。

須田剋太画『佐渡真野町 司馬凌海先生生家跡』 かつて「司馬凌海先生生家跡」の碑があった角


交通の支障になり、今はJAのビルの前に移されている。(写真右下がJA。右上の写真の横断歩道の手前にJAのビルがある。)
僕は絵にある木造の家がビルに建て替わったのかと勘違いしていた。
司馬凌海生家跡の碑

● 須田剋太画『真野町東新町山本修之助家』

山本邸に戻る。南に向かって歩きだしたあと、反時計回りにぐるりと歩いてきたことになる。

須田剋太画『真野町東新町山本修之助家』
山本修巳邸

山本邸では、ほかにもいろいろなものを見せていただいた。そもそも室内で目にするものいちいちに歴史がある。
山本邸が、佐渡の歴史を貫くひとつの確実な軸になっていることが、実感として感じられた。

* 山本邸を出てから、あらためて恋が浦海岸に出てみる。
風景として美しく、歴史的由緒もある海辺を、京浜地帯の海岸のように埋め立て、人工的景観にかえてしまっている。人口や産業が密なところなら海岸に押し出していく圧力が高まるのもやむをえないかもしれないが、佐渡でここまでする理由があるだろうかとさみしい気がする。


■ 佐渡の飛鳥路

山本修巳さんの著書に『かくれた佐渡の史跡』という精細な史跡ガイドがある。このなかの「佐渡の飛鳥路」というのにそそられて、まだ日が高いのでまわってみた。
佐渡国分寺跡、太運寺、妙宣寺とたどり、「佐渡飛鳥」の石碑がある地点に着く。


国仲平野の田園が広がり、向こうに金北山を主峰とする大佐渡山脈がかすんでみえる。これが香久山、耳成山、畝傍山だったら奈良平野そっくりだと亀井勝一郎がいったという。
山本さんの著書に教えられなければ、こういう独特な景色を見ないままになるところだった。
「佐渡飛鳥」の碑

*佐渡の飛鳥路をたどる道が国道350号に合流するところに今夜の宿がある。山本邸にも近い位置に戻っている。

● ご縁の宿 伊藤屋
新潟県佐渡市真野新町278 tel. 0259-55-2019

外国人の男女が泊まっていて、女性のほうからCan you speak English?と声をかけられ、いちおうYes.と答えると、風呂の前まで行って、どっちが女湯かと尋ねられた。
見まわしたところ男女の区別を明確に記してなくて、のれんの一方が青、もう一方が赤だった。赤のほうだろうとこたえたのだが、たしかに(とくに外国人には)ちょっとわかりにくい。
伊藤屋 佐渡真野

外国人が佐渡の真野に何を見にくるのだろうと不思議におもって、あとで宿のひとにきいてみると、「近くにワインバーができて、それをめあてに来る人が多くなった」という。「フランス人の有名な醸造家で、雑誌の取材もあって、記者もうちに泊まる」というから、その店のおかげで旅館も恩恵をえているらしい。

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第2日 「佐渡のみち」(から「潟のみち」) [真野・山本邸 佐渡博物館 相川 両津港 新潟(泊)]

* 朝、散歩にでる。うわさのワインバーをインターネットで店名と位置を調べておいた。La barque de Dionysosといい、泊まった宿から近い。La barqueは船、Dionysosは酒の神。
店名の表示がないので通りすぎかけた。木金土のみ営業と貼り紙がしてある。きのうのうちに気がついたとしても休みだった。次の機会に寄ってみよう。

宿に戻って朝食の席につくと、味噌汁を運んできてくれた人が、山本さんから電話があったと伝言を伝えてくれた。
電話をかけなおすと、「船戸さんが書いた小説がのった本がたまたまでてきた」といわれる。もう一度山本邸に寄らせてもらうことにする。


■ ふたたび山本邸

「船戸さんが書いた小説があった」といわれる船戸さんというのは、僕の高校時代の国語の先生で、船戸安之氏のこと。
船戸先生が佐渡を旅して、金山で過酷な労働をしいられていた水替無宿のことを詩にかき、国語の授業のとき、生徒にその詩をきかせてくれたことがある。
去年の秋に佐渡に来たとき、水替無宿の墓に行くと、そばの案内板に船戸先生の詩の一部が引用されていた。40年も前に埼玉県の高校の授業できいた詩に佐渡で出会ったことにも、そんな前にきいた詩を(かすかながらでも)覚えていたことにも驚いた。
きのう山本さんに須田剋太が描いた絵の場所を尋ねたとき、船戸安之氏についてもおききしたのだが、ご承知ではなかった。

ところがきのう僕とわかれたあと、別のことで資料を探しているとき、船戸さんが書いた小説がのった本をたまたま見つけられ、電話していただいたのだった。
山本邸を再訪して、その「歴史読本」の1975年8月号を見せていただいた。
船戸先生が書いた『佐渡小比叡騒動(さどこびえいそうどう)』が掲載されている。
小比叡騒動というのは、有能なために抜擢された相川町奉行が、腐敗している他の役人からねたまれ対立して起きた争乱で、蓮華峰寺(れんげぶじ)の僧も支援したが、腐敗者たちの攻撃に敗れた。
司馬遼太郎も『街道をゆく』でこの事件について、かなりの紙数をついやしてふれている。

歴史読本と山本修之助氏のふせん 歴史読本目次

この本じたいがちょっとした発見だったが、さらに「おお!」だったのは山本修之助氏が文字を記した付箋が入っていたこと。
「佐渡小比叡騒動船戸安之」とある。
歴史家である修之助氏が、佐渡の歴史に関わる小説ということでチェックされていたようだ。
山本邸を訪れたことと、船戸先生の詩に佐渡で出会ったこととは別のことだったのだが、ささやかながら線がつながってしまった。
きのう伺って、その夜こういうものが見つかるというのは偶然のようだが、僕にはこの頃こんな偶然がとても高い頻度で起きる。高い頻度ということは、もう偶然ではなくて、当然に起きるべきことだったのだろう。

* 山本邸を出て、車では数分の近さにある真野宮に寄る。

■ 真野宮
新潟県佐渡市真野655

真野宮は順徳天皇をまつるところ。門を入ると、りんとしておごそか。青空の下ですがすがしい。

真野宮

* 海沿いにはしる国道350号線を相川に向かう。
途中、国府川の河口近くにある佐渡博物館に寄る。

■ 佐渡博物館
新潟県佐渡市八幡2041 tel. 0259-52-2447

山本修巳さんが主宰・刊行されている『佐渡郷土文化』の最新号(134号2014.2)を、夕べ宿の部屋で読んでいると、財団法人佐渡博物館が閉館すると編集後記にあった。去年11月30日に財団を解散していったん閉館し、佐渡市に引き継がれるとある。
司馬遼太郎は1976年に『街道をゆく』の取材でここを訪れ、
全島わずか七万という人口で、財団法人の博物館を一つ持っているというのは、佐渡のけなげさといっていい。(『街道をゆく10』「佐渡のみち」司馬遼太郎)
と書いている。
僕が去年来たのは9月だったから、その頃にはもう方針が決まっていたのだろう。
そのとき受付の女性に波切不動のことを尋ねると、親切なことに、不在の学芸員に電話をかけて確認し、教えていただいた。

佐渡市に移管された博物館がどんなふうになったか寄ってみると、展示はほとんどそのまま引き継いで大きな変化はないようだった。
受付にいるのは市の職員で、人は引き継がれていないとのことだった。
山本修巳さんは編集後記を
私には父修之助が佐渡史学会会長として博物館の創設に深く関わり、なつかしい思い出がある。
と結んでいられた。

* 相川に行き、佐渡観光協会相川支部と佐渡市立両津図書館に寄ってから、両津港に向かった。
5月初旬の佐渡はさわやか。車で窓を開けていると、風が心地よく吹きこんでくる。
木々は新緑をすぎて緑が濃くなりかけている。
山々の谷筋にだけ雪が残って白い。
前回の旅でわからなかった挿絵の地がいくつもわかり、船戸先生の新たな偶然も加わり、満ち足りた旅になった。

佐渡フェリー「ときわ丸」
両津港から新潟行きのフェリーに乗る。
12時40分発は、ちょうど1か月前(2014.4.8)に就航したばかりの新造船「ときわ丸」。
船内はキラキラと豪華で、古いのと同じ料金でいいのだろうかと思うほど。

遅い昼食にする。ラーメンとカレーセットを注文し、今日はもう車に乗らないからビールも。
新潟限定の「風味爽快ニシテ」。
海ではこんな単純な食事もわるくない。
ほろ酔いしてデッキにでると、光がいっぱいで空は青空で風が心地よい。ジェットフォイルよりこういうのがいい。
新潟限定ビール「風味爽快ニシテ」

参考:

  • 『街道をゆく 10』「佐渡のみち」」 司馬遼太郎/文 須田剋太/画 朝日新聞社 1978 (当初は「佐渡 国なかのみち・小木街道」)
    『胡蝶の夢』 司馬遼太郎 新潮文庫 1973
  • 『佐渡 山本家来訪人名録』 山本修巳編 佐渡郷土文化の会 2002
    『佐渡郷土文化』134号 佐渡郷土文化の会 2014
    『佐渡郷土文化』136号 佐渡郷土文化の会 2014
  • 「佐渡小比叡騒動」船戸安之 『歴史読本』1975.8月号 新人物往来社
  • 3泊4日の行程 (2014.5/7-10)
    (→電車 =バス -レンタカー ~船 …徒歩)
    第1日 新潟駅=佐渡汽船新潟港ターミナル~両津港-佐渡市役所…佐渡市立中央図書館-山本修巳邸…恋が浦…司馬遼太郎碑…山本邸-佐渡ニューホテル跡-佐渡国分寺跡-妙宣寺-佐渡飛鳥の碑-伊藤屋(泊)
    第2日 …山本修巳邸-真野宮-佐渡博物館-佐渡観光協会相川支部-佐渡市立両津図書館-両津港
    ~佐渡汽船新潟港ターミナル…朱鷺メッセ~新潟市歴史博物館みなとぴあ=新潟駅…新潟東映ホテル(泊)
    第3日 -鳥屋野潟-新潟江南高校-親松排水機場(1)-亀田郷土地改良区-天寿園-新潟市北区郷土博物館-水の駅ビュー福島潟-木崎村小作争議記念碑-阿賀野川河口-新潟東映ホテル(泊)
    第4日-親松排水機場(2)-新潟市江南区郷土資料館-新津美術館-「新潟・中国語講座・上杉専門課程研修所」跡(チャレンジランド杉川付近)-燕三条駅