新潟で「水のあと」と「人のあと」をたどる-「潟のみち」


かつて新潟の低湿地では、水に深くつかって作業するきびしい米作りをしていた。その様子をうつした映画『芦沼』に衝撃を受け、司馬遼太郎は1975年に『街道をゆく』の「9潟のみち」の旅にでた。
「潟のみち」を読んで僕もその映画を見たいと思い、2001年に新潟平野をめぐったことがある。
そのときはいくつかの所を探してまわり、ついに映画を見られたことで目的を達したのだが、今回は「潟のみち」に書かれた(描かれた)その他の地も行ってみようと考えた。
3泊4日のうち、前半は佐渡で1泊。
新潟に戻った2日目の後半から、『街道をゆく』の「潟のみち」をめぐった。

第1日 (「佐渡のみち」)  
第2日 (「佐渡のみち」から) 「潟のみち」 [新潟港 新潟市歴史博物館 新潟東映ホテル(泊)] 
第3日 「潟のみち」 [鳥屋野潟 新潟江南高等学校 親松排水機場(1) 亀田郷土地改良区 天寿園 水の駅ビュー福島潟 木崎村小作争議記念碑 阿賀野川河口 新潟東映ホテル(泊)] 
  第4日 「潟のみち」 [親松排水機場(2) 新潟市江南区郷土資料館 新津美術館 「新潟・中国語講座・上杉専門課程研修所」跡 燕三条駅] 

* 第1日と第2日前半の「佐渡のみち」については→[ふたたび佐渡へ

第2日 (「佐渡のみち」から)「潟のみち」 [新潟港 新潟市歴史博物館 新潟東映ホテル(泊)]

* 両津から乗ったカーフェリーが新潟港に着く。
連絡通路を歩いていくと朱鷺メッセがある。

■ 朱鷺メッセ
新潟市中央区万代島6 tel. 025-246-8400

朱鷺メッセは信濃川の河口にあり、川に平行して長い。
展示場や会議室やホテルなどの複合施設。
川に面した通路はガラス張りで、明るく日の光が注いでくる。
朱鷺メッセから川べりに出ると、小さな船着き場がある。
(写真は、対岸に渡ったあと、みなとぴあから)
朱鷺メッセ

* このあと対岸にある博物館に行きたい。陸の道を行くとするとかなりな遠回りをして橋を渡ることになるのだが、川沿いの観光地を結ぶ信濃川ウォーターシャトルという遊覧船がある。「朱鷺メッセ」前の乗り場から今日最後の便に乗って、対岸の「みなとぴあ」にあっさり近道して降りた。

■ 新潟市歴史博物館みなとぴあ
新潟市中央区柳島町2-10 tel. 025-225-6111

新潟市歴史博物館みなとぴあ
博物館本館は、1911年築の2代目の新潟市庁舎のデザインをとりいれて2004年に建った。佐渡にフェリーで往復するとき、港を出入りするたびにこの本館の姿が目にはいっていた。
(写真は朱鷺メッセ展望室から)

映画『芦沼』には、潟での過酷な米作りの様子がおさめられていた。
田植えどき、田に入ると、腰あたりまで水につかってしまう。後退しながら苗を植えていくが、1歩さがるには、足を高く上げて泥から引き抜き、少しうしろにまたズブズブと足を降ろしていく。体力がいるし、水は冷たいだろう。

 映画を観了えたとき、しばらくぼう然とした。食を得るというただ1つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにはそれを生涯くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか。
(『街道をゆく 9』「潟のみち」 司馬遼太郎。以下引用文について同じ。)

博物館の展示室では、潟での米作りの様子がジオラマで再現されている。
刈り入れの時期の晴れた日の夕暮れ近い時間という設定だろうか、青空に白い雲が浮かび、収穫はたっぷりありそう。映画と同じ対象を再現しているはずなのに、きれいに作られていて、のどかな作業のように見えてしまう。
潟に土を運び入れて田にするための手順がアニメーションになっていて、解説パネルもイラストをつかってすっきりまとめてある。
間違いではないが、こんなきれいで衛生的な展示にしてしまっては、実態が伝わりにくい気がする。
かといって、小さな子も見にくる博物館で、あまり暗く深刻にはしがたい事情もわからなくはない。博物館で歴史をのちに伝えることの難しさを思う。

みなとぴあ 田植え風景のジオラマ 須田剋太『田植え』
須田剋太『田植え』

みなとぴあ 田植え風景のジオラマ 須田剋太『映画の中の昔の亀田郷の田植風景』
須田剋太『映画の中の昔の亀田郷の田植風景』

* 観光循環バスに乗って新潟駅に行き、駅の北側近くにあるホテルに入る。

● 新潟東映ホテル
新潟市中央区弁天2-1-6 tel. 025-244-7101

駅から近く朝食つきでこれだけ?というほどの手ごろな宿泊料だし、明日はレンタカーを借りて1晩駐車する予定だが、駐車場も広い。
部屋は6階で、市街を広く見渡せる。
ホテルのフロントは2階にあり、1階のロビ-は、たくさんある会食場の受付専用になっているようだ。ホテルの出入りのたび何度か通ったが、ひろびろして気持ちがいい。

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第3日 「潟のみち」 [鳥屋野潟 新潟江南高等学校 親松排水機場(1) 亀田郷土地改良区 天寿園 水の駅ビュー福島潟 木崎村小作争議記念碑 阿賀野川河口 新潟東映ホテル(泊)]

* ホテル9階のレストランで朝食をとる。
窓から景色を眺めながらゆったりできる。
朝は、洋定食と和定食のほかに朝粥定食というのもある。
2泊したうち、初日は朝粥、翌日は洋食にした。
どちらも上出来だった。

* 新潟駅でレンタカーを借りる。駅レンタカーにしては珍しく、駅につながるビルの2階の通路に事務所がある。手続きをすませ、ヒミツのドアみたいのを入って、ヒミツのエレベータみたいのを降りると、事務所とは別の係員がいて、車に乗る。


■ 鳥屋野潟(とやのがた)

新潟の中央市街地の南方に、東西に細長い鳥屋野潟がある。
はじめに東のはしに行った。
司馬遼太郎はこのあたりの状景をこう記した。

道路から水際にかけて塵芥が雪崩のようなかたちで捨ててあり、まことにひるがえって考えると、住民の心の猛々しさに感じ入った。

司馬遼太郎が来たのは1975年のこと。
今は下水道が普及し、環境意識の高まりもあってということだろう、水が澄んできれいとまではいえないにしろ、岸べにゴミは見あたらない。

 鳥屋野潟の堤の上にのぼると、堤の上には桜が植えられていて、並木をなしていた。おそらく公園にするという計画があったのであろう。
 ところが並木道のそばは、長々と列をなしてラブ・ホテルが押しならび、その装飾過剰な建物のむれが、景観を特殊なものにしている。まわりは稲作の田園である。ちょっと異様な景色といっていい。


40年ほど経てもラブ・ホテルがならぶ様子はあいかわらずだった。
ただ装飾過剰ではなく、外観はひかめにおさえてある。
まわりは稲作の田園ではなく、住宅やビルに囲まれ、すっかり市街地化している。(写真は北岸の並木道からラブホテルがある南岸をのぞむ)
鳥屋野潟のラブホテル

市街に近いところに水辺があると、コンクリートで護岸し、遊歩道をめぐらしたり、ベンチをおいたり、風情を失いかねないが、芦がはえる自然の岸のままになっている。間近にラブ・ホテルがあるところに公園など作りにくいから、もしかするとラブ・ホテルが自然の景観を守っているのかもしれない。

* 鳥屋野潟の北側を西へ行く。
市街地に高校がある。


■ 新潟江南高等学校
新潟市中央区女池南三丁目6番1 tel. 025-283-0326

 鳥屋野潟に近づくと、コンクリートが白っぽい粉を吹いたようなあたらしい建造物があった。門の前を通ると、女子高校の看板が出ている。運転手さんが、
「この高校の敷地も、以前は小潟という潟だったんです」
 と、いった。

これだけの短い文章だが、すっきりしないことがある。
このあたりに今は女子高校はない。
かつて1963年開校の新潟県立新潟女子高等学校があったが、1974年に新潟県立新潟江南高等学校と改称し、男女共学にかわっている。
ほかに鳥屋野潟の近くに女子高校はないから、ここのことだろう。
ところが司馬遼太郎が来たのは翌1975年の秋で、校名変更から1年半も経っている。広い校地のどこかに前の表示が残ってしまうことはあるかもしれないが、門の前にある看板が古いままということは考えにくい。

もう1つ、その高校があったところは、「小潟」ではなく、「蓮池」だったようだ。
鳥屋野潟の北の、かつて蓮池があったところが、高校のほかに鳥屋野運動公園になっている。
鳥屋野潟の西の、かつて小潟があったところは、新潟市中部下水処理場になっている。
いずれも水面が地面になって公共施設ができたことになる。
司馬遼太郎をのせたタクシーの運転手さんは小潟と蓮池を混同したのだろう-ということは確定的に推理できるが、女子高校の看板のことはどうもわからない。
須田剋太の絵にナゾをかけられることは、これまでしばしばあったのだが、ここでは司馬遼太郎にナゾをかけられ、とけないままになった。

* さらに西に走って、鳥屋野潟の西端あたりになると、ファッショナブルな店があったり、蔦屋書店があったり、潟の東に比べて新しい街という印象がある。
なお西へ行くと、鳥屋野潟から流れ出した細い水路が信濃川にながれこむ地点にでて、その水流を操作する排水機場がある。


■ 親松排水機場

鳥屋野潟の南に位置する亀田郷の土地は、信濃川の水面より低い。
かつては「地図にない湖」といわれ、そこで腰あたりまで水につかって米を作っていた。
戦争中に食糧増産の必要から大規模排水機場の建設が始まり、完成すると排水路をめぐらして集めた水を信濃川に排水することで乾田化した。
今は住宅にかわったところも多いが、このもともとは農業用の排水機場が機能しているから都市的生活も成り立っている。

須田剋太『亀田郷 排水施設』
須田剋太『亀田郷 排水施設』。
画面下(手前)から上(遠方)に3つの建築物が並んでいる。
・排水機場
・(車が走る土手の際に)排水路先端の施設
・(濃い色に描かれた信濃川の向こう岸に)横長の大きな建造物


親松排水機場 親松排水機場から信濃川

左の写真:土手側から見た排水機場(剋太の絵の下=手前にあるもの)
右の写真:土手際の施設(剋太の絵の中央にあるもの)
どちらの施設も絵と実物の形がピッタリ同じようではないし、信濃川の対岸には大きな建造物はなくて、どうも釈然としなかった。(気になって翌日またここに来た。)

信濃川は、上の右の写真では右方向に流れて、まもなく2つに分かれる。
まっすぐに行くほうが関屋分水路で、4キロほどで日本海に注ぐ。河口に関分(せきぶん)記念公園があり、2009年に新潟で開催された野外アートイベント「水と土の芸術祭」では、そこにも作品が展示されていた。僕が見にきた日は風が強くて、流れこむ川の水と寄せる波とがぶつかって、はげしい眺めになっていた。
分かれて右にいくほうが信濃川本流で、万代橋をくぐり、朱鷺メッセ、佐渡行きのフェリーターミナルの前を流れ、日本海にいたる。(親松排水機場から河口まで10キロほど)。こちらにも何度か来ていて、懐かしく思い出すことがいくつもある。

* 広々とした田が広がるなかを東へ走る。
亀田バイパスの西側、土地が長方形に整然と区画されている1つに亀田郷土地改良区の事務所がある。


亀田郷近くの田 須田剋太『現在の亀田郷農地』
須田剋太『現在の亀田郷農地』

■ 亀田郷土地改良区
新潟市江南区東早通1-2-25 tel. 025-381-2131
http://www.kamedagou.jp/

水になかば覆われた潟の土地をふつうの田に改良するのを先導したのが佐野藤三郎(1923-1994)という人だった。
1975年の『街道をゆく』の取材で、一行は改良区を訪れ、佐野氏に会っている。

「亀田郷には、佐野藤三郎という大変な傑物がいる」
 ということは、かねてきいていた。土地の出身で、子供のころから湛水の田に入り、くびまで浸って田の仕事をしてきた農民のひとりで、陸地化したこんにち、亀田郷そのものを一種の非政治的コミューンのように仕立てあげ、いろんな意味できわだった運営をしている人である。

佐野藤三郎の胸像 長く亀田郷の発展に尽くしたが、その後亡くなられて、今は事務所のビルのロビーに胸像が置かれている。

僕は2001年に映画『芦沼』を見ようと亀田郷に来たとき、ここに話をききにうかがった。
藤倉朋良さんが、亀田郷の新しい映画を作成中だと言われていた。
岩崎秀雄さんが芦沼館の資料整理の作業をされていた。芦沼館というのは改良区のビルの隣の区画にある資料展示施設で、ふだん公開はしていないのだが「私がいるあいだ見ていっていいよ」と勧められて中を拝見した。
今回は須田剋太が絵を描いた地点でわからないところがあり、ナゾを解いてもらえるかもしれないと寄ってみた。
突然に約束なしで訪れた者にも親切なのは前回のおふたり同様で、総務課の鈴木浩司さんが時間をさいて、資料をあれこれ探してまで説明していただいた。


高い視点から描いた絵は、ふきんにそれほど高い建物はなく、航空写真に間違いないということで、幾枚か須田剋太が描いたのに似た空から撮った写真をみせてもらった。
須田剋太『亀田郷親松排水場鳥屋野潟』<BR>
須田剋太『亀田郷親松排水場鳥屋野潟』

親松排水機場の隣に大きな建造物があるのが気になっていたが、それも排水機場だった。
先につくられた親松排水機場は、農林水産省が建設し、これで潟が乾田化した。
ところがその後都市化が進行し、土地の保水力が落ち、1998年の集中豪雨では大きな被害がでた。
そこで1999年から2003年にかけて国土交通省が鳥屋野潟排水機場を建設した。
「親松」の能力を超える水量になると、「鳥屋野潟」を作動させて、あふれようとする水を信濃川に排出する。
もともと亀田郷一帯の土地は信濃川より低い位置にあるから、2つの排水機場がなくてはその生活は成り立たない。


屋外に、親松排水機場の更新にあたり撤去された羽根車軸が展示されている。こんなものが回転して水を吐き出し、土地を安定させている。
旧親松排水機場 排水ポンプ羽根車軸

建物・施設が3連する『亀田郷 排水施設』の絵は、やはりナゾのままだった。
土手上の車道がこのように見えるとすると高い視点から描いたことになるが、このように見える高い建物などはない。
向こう側に大きな建造物があるようだが、排水機場の対岸にそんな大きなものがあったかどうか。
こちら側の建造物と同じくらいの大きさに描かれているが、信濃川の対岸まではかなり遠く、遠近法からすると巨大な建物になるはずだが、そんなものは鈴木さんにも思い浮かばない。この絵はナゾのままになった。

* 昼近い時間になっている。亀田郷土地改良区の玄関ロビーに「潟キャンペーン 水の潟ログ」というパンフレットが置いてあった。
そこに天寿園で期間限定の食事メニューがあるというのを見つけ、行ってみることにした。
天寿園は鳥屋野潟の南岸にあるので、走ってきたほうに戻ることになる。


■ 天寿園
新潟市中央区清五郎633-8 tel. 025-286-1717

新潟市が管理する公園で、中国庭園と日本庭園がある。
中国庭園では、門をくぐり、回廊をたどり、滝の裏を歩き、中国ふうの独特なおもむきが新鮮でいい。


日本庭園の池には、村野藤吾設計による瞑想館があり、一時期、村野藤吾の作品を集中的に見歩いたころに見に来たことがある。
村野藤吾設計による瞑想館

園内の休憩所をキャンペーン用の「潟食カフェ」にしてあり、そこで昼を食べた。
「潟キャンペーン 水の潟ログ」のイベントのひとつとして、休憩施設の屋内に仮設上映場をつくり、スクリーンと椅子を置き、映画『芦沼』を上映していた。
2001年に来たときに見ているが、今度の旅のあいだにもどこかでもう一度見られるといいと思っていた。
思いがけないところで見る機会ができた。
仮設場には20脚ほどの椅子を並べてあったが、ずっとほかに誰もいないまま、ゆっくり見ることができた。
思い起こせば、2001年に映画『芦沼』を見ようとめぐったときにも、旅の終わり近くでようやく亀田町郷土資料館の2階のガランとした部屋でひとりぽっちで見たのだった。

* 新潟中心部からは南東にある旧豊栄市に向かう。
豊栄市は2005年に新潟市に編入合併し、新潟市北区の一部になっている。


■ 水の駅ビュー福島潟
新潟市北区前新田乙493番地 tel. 025-387-1491

ここは好きなところで、何度来てもいい。
潟の自然を紹介する博物館だが、堅苦しい感じはない。
らせん状のスロープを上がっていく。ガラス張りだから、ずっと外を眺めながら、しだいに視点が高くなっていく。
その風景は、福島潟と、広い田と、遠くの市街。
福島潟は、国の事業として半分ほどが干拓され、田になった。
半分ほどが潟のまま残ったことで、今も潟の様子を見ることができるし、このような地形で米を作った苦労もしのぶことができる。
水の駅ビュー福島潟 青木淳設計

亀田郷では、すっかり潟をなくしてしまい、歴史を思い起こす手がかりを欠いてしまったことを佐野藤三郎氏が悔いていたと、前に土地改良区の事務所でお会いした藤倉さんだったか、岩崎さんだったかが話していた。

■ 菱風荘
新潟市北区前新田乙364-1 tel. 025-388-5314

水の駅の隣にある宿泊施設で、このあたりにはじめて来たとき、ここに泊まった。天窓があって、ベッドに横になると、星空がのぞき見えた。
そのとき泊まっていたのは僕ひとり。施設の人は、職員ではなく、宿泊者があるたび臨時にやってくることになっている留守番役のような老男性ひとり。かつて潟で水につかって米作りをしていたという人で、当時の様子をきかせてもらった。

* 北に数キロ走って、豊栄新潟東港I.C.のすぐ北にある木崎保育園をめざす。

■ 木崎保育園 新潟市北区横井279 tel. 025-386-3155
■ 横井の丘ふるさと資料館 新潟市北区横井257-1

『街道をゆく』では、司馬遼太郎が木崎村小作争議のことを書き、須田剋太が「木崎村小作争議記念碑」と、付近の風景を描いている。
木崎村小作争議は1920年代に起きた地主と小作農民との争いで、その資料が横井の丘ふるさと資料館におさめてある。ただしそこは無人なので、隣接する同じ新潟市の施設である木崎保育園に申し出て開けてもらうことになっている。
須田剋太が描いた記念碑の場所を事前に確認できなかったので、木崎保育園に行けば教えてもらえるだろうと向かった。

木崎保育園は田園地帯のとても狭い道をたどったところにあった。
このあたりだけ周囲よりやや高い。海が今より内陸にはいりこんでいたころ、こうした島状の土地がぽつりぽつりと水面に現れていたろうか。

保育園で尋ねたが、最初の人はわからない。
「この近くに住む職員にきいてみる」とあたってくれた人もわからない。
「北にある水路沿いに碑があるときいたような気がする」という人がいたくらいがせいぜいの情報だった。
お母さんが子どもを迎えにひとり、ふたりとやってくる。きいてみたが、やはりきょとんとされるばかり。

* かすかな手がかりの「北にある水路」をたよりにして、カーナビに表示される細い青い線をたどってみると、記念碑があった。

■ 木崎村小作争議記念碑

木崎村小作争議は、小作料減免要求だけでなく、文化運動でもあった。
小作農たちは1926年に尋常小学校に通学する子どもたちを同盟休校させ、独自に設立した無産農民学校に通わせた。
芥川龍之介、菊池寛、佐藤春夫らの文章を新潮社がまとめて『農民小説集』として刊行して、その印税を資金にあて、大宅壮一らが課外授業を受け持った。
遠藤新が設計したライト式の校舎も建ったが、まもなく和解が成立し、無産農民学校は解散、同盟休校は終結した。校舎は補習教育機関という位置づけの新潟高等農民学校として存続したが、経営難で1928年に閉校、1936年に解体された。
そしてその跡地に、争議開始50周年の1972年に「木崎村小作争議記念碑」が建立された。

木崎村小作争議記念碑 須田剋太『木崎村小作争議記念碑』
須田剋太『木崎村小作争議記念碑』

畑のあいだを流れる水路の際に記念碑があった。
記念碑ができた5年後に、由来を記す石碑もわきに立てられた。
「この闘いを顕彰し解放運動を継続・発展させるために」記念碑を建てたと記してある。
かたむきはじめた日が水路に反射してまぶしい。

旧・木崎村の水路 須田剋太『小作争議のあった木崎村風景』
須田剋太『小作争議のあった木崎村風景』

* 東北方向へ走り、阿賀野川左岸の河口に着く。

■ 阿賀野川河口

阿賀野川の左岸の河口には、新潟空港がある。
かつて空港の展望室からこの河口を遠望したことはあるが、はじめて河口直近まで来た。
土手の道は途中で金網の門が閉じられていて、進入禁止の標識がある。
「この堤防上は、航空機の最低進入高度まで約1mしかないので非常に危険です 新潟空港事務所」とある。
閉じた門の先に、誘導灯が並ぶ赤い骨組みが見える。
去年仙台をめぐり、伊達政宗が仙台の米を運ぶために掘らせた貞山堀という運河をたどっていて、やはり仙台空港の進入路直下に行ってしまったことがある。仙台空港では、飛行機が真上に見える、進入路の真下にまで入れて、迫力があった。
ここは真下に行けないまでも、低い進入高度で降りてくる飛行機が目の前に見えそうなのだが、しばらくうろうろして待ったが現れない(飛行本数が多くはないだろう)ので、あきらめる。

新潟空港フェンス(阿賀野川河口) 進入禁止の標識

* 新潟駅前のホテルに向かう。今日は午後から雨という予報予報だったのだが、降らずにときおり日も射していた。
夕方、ホテルに向かう道でときたま雨粒が落ちてきだしたが、もう降ってもいい。


● Restaurant pic
新潟市中央区南万代町3-1 tel. 025-244-9900

ホテルの部屋から見おろすと、ホテルの駐車場の向こうに2階建ての折れ曲がった長屋がある。そのうちの1軒がレストランのようで、店も建物も気になる。
雨と風が激しくなってきたが、そこまでならそう濡れずにいけるだろうと、今夜の食事はそこに決める。

入ると僕がその夕の最初の客。
落ち着いた内装で、奥にカウンター、入り口側にテーブル席があり、カウンターに座る。
きのこソースのハンバーグに、赤のハウスワイン。
嵐でほかに客が現れないので、サーブしてくれた店主夫人と話しこむ。
Restaurant pic

ここに店を開いて35年になるという。
夫が、ここからは信濃川を隔てた北側の出身。東京で修行したあと、くにに帰って店を開こうというときに、探していてここを見つけた。
新潟駅は、かつては今より北に(つまり今より店に近いほうに)あった。
店の前の弁天公園や、僕が泊まっている東映ホテルは、かつて新潟駅だったという。
この長屋は駅前の一等地だったわけで、この店の前身は呉服屋だったらしい。
建物はだいぶ古くなったが、建て替えようとしても長屋なので意思をそろえるのが難しく、残っている。
駅前の代々木ゼミはもとNHKで厚いコンクリートの建物だったとか、あれこれきいていると新潟駅周辺の時の流れがおぼろに感じられてくる。

店を出ると、雨も風もひどくなっている。
ホテルの部屋に入っても風の音がびーびー鳴っているのが聞こえる。
昼間こんなだったら、半分も見られなかったかもしれない。
夜の嵐は、レストランには不運な日だったが、僕にはおかげでおいしい食事をしながらゆっくり話をきけてよかった。

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第4日 「潟のみち」 [親松排水機場(2) 新潟市江南区郷土資料館 新津美術館 「新潟・中国語講座・上杉専門課程研修所」跡 燕三条駅]

* 最終日、雨はやんでいる。
部屋から見おろした風景。

東映ホテルからの風景 東映ホテル高層階からのRestaurant pic

左の写真の下方がホテルの駐車場。
その向こうに、小さな弁天公園。
(公園とこのホテルのあたりが、かつて新潟駅だった。)
その右に、レストランがある長屋。
右の写真はその拡大で、やや違う角度から撮っている。

今朝もホテルの9階で、景色を見おろしながら快適な食事。
今日は、亀田郷に行って、きのう見落としたあたりをもう一度まわってから、新津に寄り、杉川に向かうことにする。
今日は晴れて、雨の予報もない。


■ ふたたび親松排水機場

『亀田郷 排水施設』の絵の見えようがまだ気になるので、ホテルを出てから再度、親松排水機場に行ってみた。
亀田郷土地改良区の佐藤さんが「川の向こうにこんな大きな建物があったかどうか」と言われていた。
土手際の施設あたりからの対岸は、右下の写真のよう。対岸はずいぶん遠いし、やはり大きな建物はない。

須田剋太『亀田郷 排水施設』 親松排水機場の土手から信濃川対岸を見る
須田剋太『亀田郷 排水施設』(再掲)

僕の推量だが、これまで見てきた須田剋太が描く風景のいくつかに、不自然に高い視点から描いたものがあった。こういうふうに景色が見えるからには、ここに高い建物か何かがあって、そこに立って描いたのでなければならない、でもそこにそんな高い何かがない。
実際の風景そのままを描くのではなく、高い視点を設定して、そこから見ればこの風景はこう見えるというふうに修正して描いたのではないかと思える。

須田剋太『現在の亀田郷農地』
須田剋太『現在の亀田郷農地』(再掲)
亀田郷の田園風景
水の駅ビュー福島潟から田園風景

たとえば農地を描いた絵でも同様で、亀田郷で実際に僕が立って撮った写真は右上のようになる。
右下の写真は、水の駅ビュー福島潟に行ったとき、その高い位置から撮ったもので、このほうが須田剋太が描いた絵に近くなる。

親松排水機場でも、実際の風景を高い視点からの見えように変換して描いたかもしれない。
建造物と土手・道路と川が並ぶ風景をおもしろいと感じて、頭のなかで風景を組み立て直し、対岸の建物も同じ大きさにそろえて画面を構成したろうか。
それにしても建造物の形がすっきり一致しないし、現地に2度来てみてもナゾは解けなかった。

* さらに亀田郷土地改良区あたりにも、もう一度行った。

■ 亀田郷土地改良区付近

大規模な排水機場が完成して田になったところは、新たな開発地だから整然と長方形に区画されている。ところが潟のなかでも、もともと水路だったところは、ゆるやかに曲がりくねっていて、乾田化したあとでも水流のなごりはのこっている。
亀田郷土地改良区の事務所ふきんの地図を見ていて、方眼紙に水をこぼしたようにまがりくねった形が貫いているのに気がついた。
須田剋太が描いた挿絵に『亀田郷のかつての水路が舗装道路となった街』があり、ゆるくカーブする道が描かれている。
この絵は、土地改良区のあたりで描いたのかもしれない。

見晴らしのきく田園風景からこの区域内に入ってくると、道がゆるい曲線で、その道に沿って家が並んでいる。
厳密にここと特定はできないが、『街道をゆく』の取材で亀田郷土地改良区を訪れているから、そこから近い所を通りかかって描いた可能性は高い。

亀田郷土地改良区近くのカーブする道 須田剋太画『亀田郷のかつての水路が舗装道路となった街』
須田剋太『亀田郷のかつての水路が舗装道路となった街』

* 蛇行する道を南に行き、途中で東に抜けだして国道403号を越えると、江南区文化会館がある。広い敷地に体育館もある。駐車場に車が多いのは、体育館内のフィットネス施設の利用者のようだ。

■ 新潟市江南区郷土資料館
新潟市江南区茅野山3-1-14(新潟市江南区文化会館内)
tel. 025-383-1001

2001年に映画『芦沼』を見ようと思い立って来たとき、2泊3日の最後に亀田町郷土資料館で見ることができた。
その後、亀田町は新潟市と合併し、亀田町郷土資料館は、新潟市江南区郷土資料館に引き継がれた。
江南区文化会館は、その江南区郷土資料館をふくめ、音楽演劇ホール、亀田地区公民館、亀田図書館の4つの機能を備えた施設で、2012年に開館した。
大きな覆いのなかに、その4つが入れ子状に組みこまれている。
その間は十字の通路になっていて、取り囲む壁面は岩のようで、歩くと洞窟の底にいるよう。
岩手県大船渡市にあるホールと図書館の複合施設、リアスホール岩手と同じ設計者だとすぐわかる。([東日本大震災後の宮城・岩手の海岸-「仙台・石巻」2(2013)]
その設計者は新居千秋氏で、2008年のリアスホール岩手は、リアス海岸をイメージしていた。
江南区文化会館では、壁面に照明が点々とついていて、この地域の稲穂から米がこぼれ落ちるさまをイメージしているという。

新潟市江南区文化会館 図書館の閲覧室からの、洞窟のような壁面。

江南区郷土資料館では、潟の土地の歴史が主なテーマになっている。
新潟市歴史博物館みなとぴあの展示は、いかにもいまどきの博物館的で、きれいにまとめてあるが、ツルツルして現実的な手ごたえが淡い。
それに比べてこちらの展示は手作りで素朴だが、訴えようとすることがストレートににでているうえに、ボランティアの説明員が話してくれるので、内容が腑に落ちる。

2001年に亀田町郷土資料館で映画を見たときには、小さな資料館のことで、館長の三村哲司さんに映写の手間をおかけし、見終わったあとにはいろいろ話をうかがうことができた。
ボランティアのひとに三村さんのことを尋ねると、館長職からは退職しているが、歴史ツアーの案内をされるなど、元気で活躍されているとのことだった。
館内では、映像装置の前に椅子が数脚ならんで、映画『芦沼』の全編を流していた。きのう天寿園で見てきたので、きょうは全編ずっとは見なかった。

博物館の2階の展示を見て、十字の通路の上を越えると、図書館棟の2階になり、郷土資料の区画がある。それは博物館の領域だが、図書館の郷土資料部分でもあって、機能的につながっている。
図書館と博物館の関係として、とても気がきいた構成にしてある。

* 久しぶりに新津美術館へ寄ってみようと南に走る。
この旅で移動しているあたりは、前に来たときは豊栄市だったり新津市だったりしたのだが、2005年に新潟市に大合併したので、きのうからずっと新潟市の域内を走っている。


■ 新津美術館
新潟市秋葉区蒲ヶ沢109-1 tel.0250-25-1300

新津美術館 「未来ちゃん 川島小鳥写真展」を開催中。
佐渡に住む女の子の1年を撮った写真を、特大から極小サイズまでさまざまな大きさで展示している。
とても個性的で存在感がある。佐渡をまわってきたばかりで、佐渡にはこういう女の子がいるのかと、佐渡観がちょっと更新する。
(写真:特長ある階段状エントランスにも写真を展示してあった)

* 南に向かい、ようやく新潟市を出て、五泉市にはいる。

■ 村松公園

村松の市街を抜けたところに村松公園があり、新津美術館の隣の花市場の売店で買ってきた弁当を食べる。のり巻きとおいなりさんと、名物だというコロッケ。

* 「潟のみち」の取材で、司馬遼太郎一行は新津を出てから「新潟・中国語講座・上杉専門課程研修所」という中国語の学校を訪れている。
インターネットで検索すると、もう存在しないらしく、たしかな場所がわからない。
司馬遼太郎の文章に、五泉市から村松町をへて山道に入るとあり、夏針とか上杉川とかいう地名がでてくる。それをたよりに地図を見ると、県道17号から杉川沿いに山道を南下した先に、「チャレンジランド杉川」という表示がある。キャンプしながら自然に親しむといった類の施設のようだ。山中に、ある程度の広さが必要なはずだから、学校があったところがキャンプ場に衣替えしたのかもしれない。
そこを目指していく。


■ 山中の廃村

中国語の学校に向かう途中、司馬遼太郎一行は廃村を見ている。
町まで遠いわけではないのに放棄されたことの発端は、1964年の新潟地震にあるという。山の人たちが復旧工事にでかけ、山の暮らしに比べれば楽な仕事で現金を得、現金をつかうという生きようを覚えてしまい、村を離れた。
千坪ほどの土地に30戸ほどの家があり、どの家も朽ちて「まことに物凄い光景」になっていると司馬の文章にある。気をつけて走ったが、ぽつりぽつりと廃屋はあったが、かたまって廃村になっているところは見かけなかった。
あとで『街道をゆく』の文章をもう一度注意してみれば、早出川(杉川)に沿う道は道路工事で途中通れないところがあり、仙見川沿いの道を行き、トンネルをくぐって上杉川に向かうとあった。
僕は、はじめから杉川に沿う道を走ってしまった。

* 杉川に添った道にも廃屋をみかけたが、炭焼きの資材置き場がいくつかあり、煙があがっているところもあった。

■ 「新潟・中国語講座・上杉専門課程研修所」跡
チャレンジランド杉川(新潟県五泉市上杉川1910番地1 tel.0250-55-6543)付近

道がつきあたるところに野外活動の施設があった。
広い草地の先に宿泊棟らしい建物があり、外には炊事場がある。
そこで食器を洗っている夫婦に、中国語の学校があったのはここだろうかと尋ねると、埼玉から泊まりにきたという人で、もちろんわからない。
チャレンジランド杉川

宿泊棟の受付に行って尋ねたが、そんなことを聞いたような気がするという程度。
別なものだろうが、少し下流に小学校があったという。

草地をはずれたあたりに立派な屋敷がある。説明書きがあり、元は庄屋の住まいで、1990年頃まで暮らしていたが、その後、五泉市が譲り受けて公開しているとある。

さらにその脇に、木々に埋もれるようにして廃屋があった。周囲の木を結んでロープをめぐらしてあり、「立入禁止」の札をかけてある。このほかにも建物がありそうだが、木の葉と草が密にあって、全体は見通せない。
ここが中国語研修所だったように思える。
家に入れて中国語がかかれたものでもあれば、ここだと確認できるのだが、立入禁止だし、そうでないとしても草が密で深くて、簡単には近づけない。

もと上杉専門課程研修所

この場では確かめようがないと車に戻って少し走ると、道でなにかの工事をしていて、作業服を着た人たちを見かけた。きいてみると、廃屋が中国語研修所だったものとこたえてくれた。
潟のみちの最後の数枚の絵の場所が確かめられてよかった。

この学校で中国語を教えていたのは西沢なぽり氏で、司馬遼太郎が訪れた当時24歳。
父は西沢隆二(しにざわたかじ 1903-1976))氏で、詩人であり、社会運動家。その義父の徳田球一(1894-1953)ともども、戦中、戦後にかけて日本共産党と中国共産党とに深い関わりがあった。正岡子規の妹の律の養子で、阪急電鉄・阪急百貨店の職員であった正岡忠三郎と親しいつきあいがあり、司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』は、その2人を主人公にしている。
息子のなぽり氏を中国に留学させると、毛沢東が発動した文化大革命の時期で、なぽり氏は紅衛兵になった。

西沢なぽり氏は、帰国後、新潟で日本語の学校が開設されるとき教師に招かれた。
学生は住み込みで、半日は学習、半日は農作業をし、教師と寮母が世話をした。
そのころ、理想を共有する人たちが小さな共同体を作って生活するコミューンの運動が各地であったが、そんな時代の空気が反映しているかもしれない。
司馬遼太郎は経済的なしくみを含めて学校の様子を説明している。
支える人のたいへんな熱意と献身で成り立っているけれど、経済的には不合理で、献身は見ようによっては度を超しているともいえる。
学校からは優秀な人が育って成果をあげたけれど、安定して長く続くことはいかにも難しいことだったと思える。

西沢隆二氏は1975年秋の「潟のみち」の旅に同行したが、1年後に亡くなった。亡くなる前、信州佐久の病院に入院しているところを、司馬遼太郎と須田剋太は1976年「信州佐久平みち」の旅のときに寄って見舞っている。(→[須田剋太のルーツへ-「信州佐久平みち」])
西沢なぽり氏のことは、共同通信社が加盟社に配信している連載企画「地球人間模様」に、中国語研修所以後のことが紹介されていた。
2010年10月「元日本人紅衛兵 柿渋生産で村おこしを」として加盟各紙に掲載された。
「2007年までの17年間は中国浙江省で日本企業のアパレル工場社長を務めた」とあるから、新潟の日本語研修所のあと、中国で仕事をしていたことになる。
その後、中国では渋柿が大量にあるのに使われていないことに着目し、山西省の山奥の村で柿渋石鹸などをつくる企業を起こし、家族と離れ、愛犬ロジン(魯迅?)と暮らしているという。

須田剋太『上杉中国語教室』
須田剋太『上杉中国語教室』

須田剋太が新潟の学校を訪れたとき、数枚の絵を描き残した。
『上杉中国語教室』は、上の写真の廃屋の中だったか、別の棟だったか、はるかな思いをそそられる。


* 五泉市から西に走る。
信越本線を越え、信濃川を渡る。
燕三条駅でレンタカーを返して、新幹線で帰る。
この旅では、もともと僕は前にも訪れたことがあったりして思い入れの深いところが多く、初めていったところも印象が濃く、いい旅になった。
燕三条駅から新幹線

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参考:

  • 『街道をゆく 9』「信州佐久平みち、潟のみちほか」 司馬遼太郎/文 須田剋太/絵 朝日新聞社 1977
    『ひとびとの跫音』 司馬遼太郎 中央公論社 1981
    『まんが亀田郷の歴史』 亀田郷土地改良区 1998
  • 『中部 2 長野・新潟・富山・石川・福井 地図で読む百年』 平岡昭利、野間晴雄編 古今書院 2000
    『新潟県大百科事典 下』 新潟日報事業社 1977
  • 『地球人間模様 元日本人紅衛兵 柿渋生産で村おこしを』 神戸新聞 2010.10.23
  • 3泊4日の行程 (2014.5/7-10) (→電車 =バス -レンタカー ~船 …徒歩)
    第1日 新潟駅=佐渡汽船新潟港ターミナル~両津港-佐渡市役所…佐渡市立中央図書館-山本修巳邸…恋が浦…司馬遼太郎碑…山本邸-佐渡ニューホテル跡-佐渡国分寺跡-妙宣寺-佐渡飛鳥の碑-伊藤屋(泊)
    第2日 …山本修巳邸-真野宮-佐渡博物館-佐渡観光協会相川支部-佐渡市立両津図書館-両津港
    ~佐渡汽船新潟港ターミナル…朱鷺メッセ~新潟市歴史博物館みなとぴあ=新潟駅…新潟東映ホテル(泊)
    第3日 -鳥屋野潟-新潟江南高校-親松排水機場(1)-亀田郷土地改良区-天寿園-新潟市北区郷土博物館-水の駅ビュー福島潟-木崎村小作争議記念碑-阿賀野川河口-新潟東映ホテル(泊)
    第4日-親松排水機場(2)-新潟市江南区郷土資料館-新津美術館-「新潟・中国語講座・上杉専門課程研修所」跡(チャレンジランド杉川付近)-燕三条駅