幸運のえひめ-「南伊予・西土佐の道」


『街道をゆく』「14南伊予・西土佐の道」をたどって、松山から南にくだった。
宇和島からは東へ向かって高知県に入り、「27檮原街道」にある檮原に行き、ちょうど催されていた津野山神楽を見た。

須田剋太が絵を描いた場所をたどっていると、しばしば幸運に恵まれる。
この旅の最大の幸運は、宇和島から檮原に向かう途中の松野町でのこと。
絵に店名がかかれている旅館兼うなぎ屋の「末廣」には簡単に行き着いた。ところが絵と、目の前にある風景とが、しっくりあわない。いったりきたり、しばらく悩んだが、とにかく現地は確認できたということで立ち去ろうとしたら、店からヤカンを持った女性が現れ、須田剋太が来たときに会っていた人だった。そのときの様子をきくことができ、なぜ絵と風景がずれているかもわかった。
別棟にある仏壇に、ヤカンにお茶をいれて供えにいくところだったそうで、すばらしいタイミングで現れてくれた。
ほかにも幸運に恵まれた楽しい旅だった。

第1日 松山市
[松山市] 正宗寺 松山城 愛媛県美術館 坂の上の雲ミュージアム 道後館(泊)
第2日 松山市~内子町
[松山市] 椿神社 伊丹十三記念館
[砥部町] 大森彦七供養塔 森陶房
[内子町] 大江健三郎生家 大瀬中学校 月乃家(泊) 
第3日 大洲市~西予市
[大洲市] 大洲城 油屋
[西予市] 宇和米博物館 開明学校 二宮敬作墓 愛媛県歴史文化博物館 まつちや旅館(泊) 
第4日 宇和島市
[宇和島市] 法華津峠 シルビア 旭醤油 河合太刀魚巻店 和霊神社 天赦園 神田川 愛宕山 木屋旅館・蔦屋旅館 斉藤鮮魚店 宇和島城 桑折氏長屋門 石丸ふとん店 宇和島第一ホテル(泊) 
第5日 鬼北町~高知県梼原町
[鬼北町] 鬼北町庁舎
[松野町] 末廣 滑床渓谷 目黒ふるさと館
[高知県梼原町] 三島神社・津野山神楽 いちょうの樹(泊) 
第6日 久万高原町~松山市
[久万高原町] 岩屋寺大師堂
[砥部町] 梅山窯
[松山市] 坂の上の雲ミュージアム 


第1日 松山市
[松山市] 正宗寺 松山城 愛媛県美術館 坂の上の雲ミュージアム 道後館(泊)

* 羽田空港から松山空港に向かう。
富士五湖から甲府盆地あたりを過ぎると雲に入る。
あとは、瀬戸内海の大崎上島、大崎下島あたりの小さな島々を橋が結んでいるのが見えてきて、松山空港に着陸した。
空港の外側に、空港を見物する小さな展望公園のようなものがいくつかある。日曜日のことで、子連れの見物客らしき姿がちらほらいる。
僕は高いところ、速い速度、飛行機が好き。気軽にこんな風景を楽しめるところに住む人がうらやましい。

バスで市内に向かう。
ときおり建物のあいだから高い位置に城が望める。
城がいい感じにある。
JRの松山駅を経て、伊予鉄の松山市駅で降りる。
駅をくるむように高島屋があって、屋上に観覧車が回っている。


● やまとなでしこ
愛媛県松山市湊町5-5-6 tel. 089-998-8881

ひるどきになっている。
バス乗り場が並ぶ狭い駅前広場から細い路地に折れてみたら、手ごろそうな店があったので入る。
かやくうどんとばらすし730円。
とくに期待しないで入ったがおいしい。
とくにうどんのつゆがいい味で、食べ終えてしまうのが惜しいようだった。
やまとなでしこ

* 松山市駅を南に抜ける。
駅にはコインロッカーがないので(見つけられなかったので)諦めて、5泊6日でやや重いリュックを背負ったまま歩くことにした。
結果として、駅まで戻らずにすみ、行程に無駄がなかったという効果はあった。


■ 正宗寺(しょうじゅうじ)
愛媛県松山市末広町16-3 tel. 089-945-0400

松山市駅屋上の観覧車を見あげる近さに寺がある。
門を入ると左手に子規堂がすぐ目についたのでそちらに近づいたら、玄関前のスピーカーから声が降ってきて、入館料を払うようにという。
かなり離れたところに小さな小屋があって、そこで50円払った。
漱石の『坊っちゃん』的おかしさがあった。

正宗寺

子規堂は、正岡子規が17歳まで過ごした邸宅を模して建てられた。
木造平家で、たよりなげな古い家らしく復元し、子規が使っていた机や遺墨、遺品、写真など展示している。

* 松山市駅の北側に戻る。
さらに北へ歩き、愛媛県庁のわきの道から松山城に向かう。


■ 松山城

城へ上がる道はかなりの急坂。
10月下旬にしてはあたたかい日で、たっぷり汗をかいた。
だいぶ上がったかと思うあたりにリフト終点がある。
道案内の標識によればまだ500m以上あってげんなりするが、そこから先は緩い坂道で、軽くあがりきった。
城の西の市街がみおろせて、すぐ足もとには松山市民会館と、美術館がある。
天守までは上がらないで引き返す。

松山城天守閣 須田剋太『松山城天守閣』
須田剋太『松山城天守閣』

須田剋太は『街道をゆく』の挿絵に松山城天守閣を描いている。
司馬遼太郎の文章では、松山空港から松山市街南部を経て砥部に向かい、松山市中心部には寄っていないように書かれている。
司馬遼太郎にしてみれば、松山に寄ってしまったら書きたいことがありすぎて先へ進めなくなるという感じがあったかもしれない。
須田剋太の城の絵は、写真をもとにして描いたろうか。
石垣のうえに城ががっしりと構えていて、ユーモラスな趣もあり、いい感じだ。

* 城からおりると、広い芝生の広場がある。
芝生のほうから見あげると、城はおむすび形の山のてっぺんではなく、上部が平らな台地状の地形にのっている。
すっきりしていい。
その広場の外縁をなぞるようにして市街電車が走っている。
ほとんど初めてきたような街だが、緊張をしいられるような感じがなく、気持ちがゆったりしてきて、いい都市だと思う。


■ 愛媛県美術館
愛媛県松山市堀之内 tel. 089-932-0010

城山公園の南西のすみに美術館がある。
もとは愛媛県民館という、体育館とコンサート・ホールを兼ねた複合施設があった。1953年に丹下健三の設計で建ち、貝殻を伏せた特異な形が市民を驚かせたが、そのシェル構造が評価されて建築学会賞を受賞した。
老朽化を理由に、同じ丹下健三の設計により、道後温泉方向に2kmうごいた位置に愛媛県県民文化会館が建てられた。
旧館は惜しむ意見もあったが1996年に解体され、跡地に美術館が建った。

愛媛県美術館 公園側からは3つの棟が並んで見える。
美術館建設にあたり遺跡調査を実施したところ、江戸時代の武家屋敷と道路の遺構がでてきて、道路の遺構を避けるように配置したという。
右2つの棟は正面中央に太い柱が1本だけある。
内部奥には2本の太い柱があり、3本で展示室の箱を支えている。
柱が大胆で小気味よくもあり、角に柱がないので明るく開放感がある。

2階に上がると長い展望ロビーがあって、公園と城の眺めがいい。
企画展はロバート・キャパの写真展だったが、松山まで来てキャパを見なくてもとパスした。

■ 愛媛県立図書館
愛媛県松山市堀之内 tel. 089-941-1441

美術館の裏にひそんでいる感じで図書館がある。
正面を入ると右にまず事務室があり、左に児童書の区画がある。
ふつう図書館では事務部門がどこにあるか気にして探さなければ見えないくらいだが、ここではまず事務室があり、しかも戸が開いていて、しかも真正面に館長席がある。こんな図書館もあるのか!と新鮮ではある。
2階の閲覧室は狭く、開架部分に蔵書が少ない。書庫の広さはわからないが、書庫だけが広いことはなさそう。
3階から上は改修中で入れなかった。

* 道後温泉に向かう電車が走る通りを東へ歩く。
電車には、正岡子規を生んだ街らしく、俳句らしきことばが書かれている。

 「怒るよ!」もうおことるくせに!ねぇ、母さん
 お母さんが弟を「ギュッ」今度はぼくかなドッキドキ
子どもから募集した句だろうか。
伊予鉄道の電車

■ 坂の上の雲ミュージアム
愛媛県松山市一番町3-20 tel. 089-915-2600
https://www.sakanouenokumomuseum.jp/

これから南にくだって宇和島まで行き、高知県檮原まで回ってからもう一度松山に戻ってくる。

このミュージアムはそのときゆっくり見るつもりだが、通り道なので寄ってみて、カフェでひと休みした。
コーヒーと、松山名菓の一六タルトとで400円。
かなりのお得感。
コーヒーと一六タルト

建築の設計は、大阪の司馬遼太郎記念館を設計した縁で、安藤忠雄による。
城がある高台と平坦地との境にあることと、万翠荘への通り道にすることを考慮して、三角形に作ってある。
カフェは万翠荘を向いた一辺にあり、明るく開放的で、外を眺めながらぼんやり。
案内の女性が親切なのにも気持ちがなごむ。

■ 万翠荘
愛媛県松山市一番町3-3-7 tel. 089-921-3711

坂の上の雲ミュージアムから坂を上がると洋館がある。
このそばに1895年8月から10月までの52日間、漱石と子規が共同生活した愚陀佛庵があった。戦災で焼失したあと、復元されていたが、2010年7月12日の豪雨で斜面に土砂崩れが発生して全壊した。
なかをさらっと眺めて出た。

万翠荘

* 「大街道」から伊予電鉄に乗る。
ゆらゆら揺られながら、速すぎないな速度で運ばれていくのが心地いい。
終電の「道後温泉」で降りる。
この駅は1895年開業、1986年に復元新築されている。
予約した宿にチェックイン。
宿にももちろん温泉大浴場があるが、道後温泉本館に行くためのタオルやそれを入れる小さな篭が用意されている。
浴衣に着替え、雪駄をはき、篭をさげて向かう。


■ 道後温泉本館
愛媛県松山市道後湯之町5-6 tel. 089-921-5141

風呂からあがってくると「おあがりなさいまし」と迎えられる。
座敷の定位置に座ると、お茶とせんべいを持ってきてくれる。
道後温泉の独特の方式にゆったりするし、漱石や子規が、誕生まもないここに来て楽しんでいたろうと思いうかべて、はるかな感じもある。
道後温泉本館

ここには前に来たことがあり、やや苦い思い出になっている。
ずいぶん前のことで、たぶんユースホステルに泊まっていた。
朝いちばんというような時間に来て、1万円札を出したら、受付のおばちゃんにかなりの勢いで叱られた。こういうところに、こんな早くに1万円札は非常識!ということだったろう。
今夜は1,250円だったが、当時はもっと安かったろうからなおさら迷惑で、おこるのももっともなことと思うが、それを見越して小銭を用意しておこうというほど気がきかなかった。
ところでそのときほかに松山のどこに行ったか、四国のどこにいったか、まったく覚えていない。
松山に来たのは今度の旅が初めてのような感じでいるのに、道後温泉の朝だけがポツンと記憶にある。
早朝1万円札の事件がなければ、松山に来たことじたいがまったく記憶から消えていることで、楽しい思い出ではないが、それなり意味があるともいえる。

● 道後館
愛媛県松山市道後多幸町7-26 tel. 089-941-7777

道後温泉にたくさんの宿があるなかで、僕の旅行水準からすると高額だが、黒川紀章設計の宿を選んだ。
箱を積み重ねたような外観と、ところどころに散りばめられた幾何学的な意匠が目につく。

道後館 ロビーが広く、川が流れていて、そばにある土産物売り場が唐破風や格子をそなえた古建築として作ってある。
川には滝が流れ落ち、水のかわりに俳句のことばが流れ落ちている。

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第2日 松山市~内子町
[松山市] 椿神社 伊丹十三記念館
[砥部町] 大森彦七供養塔 森陶房
[内子町] 大江健三郎生家 大瀬中学校 月乃家(泊)

* 翌朝、松山市駅まで伊予鉄に乗る。月曜朝の通勤通学時間で、混むかと思ったがすいている。高校生は女性が二人だけ。外には自転車で走る高校生を見かけるから、道後温泉くらい近くからだと自転車にするようだ。

レンタカーの営業所は松山市駅からやや遠いのでタクシーに乗る。
(レンタカーを借りるのにタクシーで行くのもヘンだが、いちど歩きかけて違う方向に行ってしまった...)
道後温泉に人がいっぱいで混んでいたと話すと、「松山が景気がいいかどうか... 大企業もないし」という。
「でも四国でいちばん大きな都市ではある。愛媛の人口の1/3か1/4が松山に集中している」という。
そんな割合なのかと驚いて、あとで統計の数字をみると、ことし2014年11月の愛媛県の人口はおよそ140万人。松山の人口はおよそ52万人。たしかに1/3を越えている。
ついでに人口の推移を1年前と比べてみると、松山市の人口はほとんど変わらないのに、県人口は1万人近く減っている。
つまり松山市以外の90万人のうち1万人が1年で減っている。
月別統計をみると、3月から4月のあいだに5千人減って、あとの各月は数百人程度の減。
新卒者が県外に出ているということだろうから、高齢化も進むわけで、かなり深刻な事態だろうと思う。

レンタカーを借りて、松山市街の南方にある椿神社にまず向かった。
『街道をゆく』の取材では、司馬一行は松山空港から-松山市街には入らず-南に走っていて、豪壮な長屋門と塀を見かけてこの神社に寄り道している。


■ 椿神社(伊豫豆比古命神社 いよずひこのみことじんじゃ)
愛媛県松山市居相2-2-1 http://www.tubaki.or.jp/

司馬遼太郎は神社の社務所でたずねて、その長屋門と塀のなかが神社の宮司の屋敷であることを確かめている。
楼門の「伊豫豆比古神社」とあるのを見、新春におこなわれる椿祭が盛大なものであるらしいと書いている。
今ここに来てみると、地図には「椿神社」と記され、道路標識やバス停も「椿神社」になっている。
椿祭が知られているので、通称がほとんど正式名のように扱われているらしい。

椿神社の拝殿の天井の椿の絵 拝殿の天井は椿の花盛り。

ここで須田剋太が挿絵につかわれた絵を描いている。

須田剋太『伊予豆比古神社長屋門』 須田剋太『伊予豆比古神社長屋門』

境内をひとまわりしてみたが、この絵の場所が見つからない。
石段を上がったところに拝殿があり、御守りなどの授与所にいる若い巫女さんにきいてみた。
須田剋太の絵の写真を見て、しばらくあちこち思い浮かべているふうだったが「すみません、わかりません、下に宮司さんがいるのできいてください」という。
司馬遼太郎がここを訪れて社務所に寄ったとき、小窓越しに中をのぞくと老宮司が書見のさいちゅうだったが、気づいて「上に、あがられよ」とすすめられている。その文章からは、小さな小屋ていどの社務所のように思われるが、建て替わったのか、今はりっぱなオフィスのようで、声をかけにくい。

紅い大きな鳥居があって、なんとなし鳥居の外に出てみると、絵の場所があった。
司馬遼太郎の文章を思い出してみれば、たしかに道を通りかかって長屋門と塀に気づいて車をとめて神社に入っている。
椿神社の長屋門

長屋門から神社寄りに新しそうな住宅がある。
また鳥居の内側に戻ってくると、本殿にいた若い巫女さんより長く神社にいるかと思える年ごろの巫女さんが庭を掃いていらした。絵の写真を見せて尋ねると、新しい家は宮司さんの住まいで、「古いのが、まだ残ってましたか...」といわれる。
どちらの巫女さんも、宮司の私的なところには敬して距離をおいているということなのだろう。
拝殿まで階段を上がって、はじめの巫女さんに見つかったと報告する。
「向こうにありましたか!」とはずむような笑顔でわらって、「気をつけて旅を!」と見送ってくれる。

* 旅から帰ってから、1977年公開の映画『坊っちゃん』を見た。
中村雅俊と松坂慶子が、坊っちゃんとマドンナだった。
後半に椿神社の長屋門が、短い時間だが登場した。
『街道をゆく』の取材が1978年6月だから、ほとんど同時期。
手前の田に青々と水がはられたさわやかな景色が映っていて、季節も同じころだった。

* 2キロほど北東へ行く。

■ 伊丹十三記念館
愛媛県松山市東石井1丁目6 tel. 089-969-1313

伊丹十三記念館 水路が合流する先端の三角形の土地に、黒い四角な展示棟と、黒いガレージがある。

展示室に入ると、伊丹十三の元夫人の宮本信子が映像ですてきな笑顔で迎えてくれる。
展示棟は、十三にちなんで13のテーマを設けてある。

1 池内岳彦  2 音楽愛好家  3 商業デザイナー
4 俳優  5 エッセイスト  6 イラストレーター
7 料理通  8 乗り物マニア  9 テレビマン
10 猫好き  11 精神分析啓蒙家  12 CM作家
13 映画監督

あらためて伊丹十三の多才な活躍に見入る。

建築の設計は中村好文氏で、館内は遊び心に満ちている。
テーマごとの壁面を、「料理通」ではキッチンらしく白タイル、「乗り物マニア」では赤い車体塗装の曲面、「精神分析啓蒙家」ではロールシャッハテストのような左右対称模様にしてある。
黒いガレージには愛車だったベントレーが展示されている。

カフェでは記念館の建物を模したチョコレート・ケーキもある。 伊丹十三記念館のカフェ

伊丹十三は「CM作家」としては地元の菓子「一六タルト」のCMを作り、自分でも出演していた。

* 松山市は、夏目漱石と、『坊っちゃん』のモデルの弘中又一もいた街で、その2人が須田剋太とも妙なつながりがある。( →桜の洛北、漱石の嵐山-「洛北諸道」と「嵯峨散歩」2]の「二軒茶屋」~「夏目漱石と須田剋太」の項)。
でも、そんな関係地までまわる余裕はなく、松山市を出る。


伊丹十三記念館からすぐ前の水路にかかる橋を越えると、砥部道路に出る。
南下して、とべ動物園のあたりで並行する細い道にそれる。
通行量が少ない道で、路上駐車しやすい。
動物園を背にする斜面をわずかに上がると、供養塔がある。

■ 大森彦七供養塔

大森彦七は南北朝の戦乱期の人で『太平記』にも登場する。
司馬遼太郎はここを訪れたときのことをこう記している。
 溝川を越えて左への小径をのぼると、荒陵(あらはか)といった一角があり、草が茂り、目の覚めるように赤い肌の赤松が、下枝なしにひょろひょろと天に伸び、白い雲に映えてわずかに梢で群青(ぐんじょう)に近い翠をしげらせている。(中略)
 その一本きりの赤松の下に、大森彦七供養塔と刻まれた小さな古碑がある。べつに、町文化財と書かれた標柱が立っている。
(これだけか)
 拍子ぬけがした。
(『街道をゆく14』「南伊予・西土佐の道」 司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)
そして古碑の由来などを記した説明書きがないことへのやや不満な思いも記している。


須田剋太が描いた挿絵は、ほぼ司馬遼太郎の文章のとおりのようだ。
背の高い赤松の下に、「大森彦七之遺跡」と刻まれた石が、4本の柱と鎖で囲われた区画の中央に立っている。
須田剋太『大森彦七之遺跡』
須田剋太『大森彦七之遺跡』

現地に着いてみると、司馬の文章とも、須田の絵とも、しっくりあわない。
木がうっそうと繁って赤松は見えない。
「大森彦七之遺跡」と刻んだ石は、区画の左隅にあり、中央の屋根下の古碑を説明する役割のようだ。
大森彦七供養碑
由来を説明する案内板は司馬遼太郎一行が来たあとに作られたのだろうから、そういう違いは納得できるが、松と古碑の違いはなぜかよくわからない。

(帰ってから砥部町教育委員会社会教育課に照会した。
大森彦七供養塔については、1969年(『街道をゆく』一行が訪れた9年前)に砥部町指定文化財に指定して以来、供養塔の場所等は一切変えていないとのこと。指定当時の写真もないそうで、確認できなかった。)

* 大森彦七供養塔のあと、司馬遼太郎一行はタクシーの運転手に梅山窯へ案内されているが、月曜は休みのようなので、一行がそのあと行った森陶房に向かった。
ゆるい斜面になっている住宅街の中を、角をいくつも曲がりながら上がっていく。カーナビで設定しているからいいが、そうでなければたどり着けなかったかもしれない。


■ 砥部焼窯元 森陶房 (もりとうぼう)
愛媛県伊予郡砥部町北川毛714 tel. 089-962-2482
https://www.moritoubou.net/index.html


おしゃれな喫茶店のようなドアをあけると、こじんまりしたギャラリーに、ここで作られた陶器が並び、奥が制作場になっているようだ。
砥部焼 森陶房

もとは大阪生まれの森和氏がここに陶房をひらいたのが始まり。
森和氏のことは『街道をゆく』に書かれていて、司馬遼太郎がでた大阪外語の蒙古語科の先輩で、国家公務員になり大蔵省などに勤務した。
「好きなことができなくなってしまう」と定年前、50くらいで退職し、土を選んで砥部に住み、以後、家族も陶芸に関わっていまも森陶房がある。

須田剋太が砥部で描いたところをたどってきたというと、森和氏のご子息の妻、紀美代さんから話を伺えた。
『街道をゆく』の取材のときは、まだ結婚してここに住む前で知らないが、その後にも『街道をゆく』のような一団で来られたときにはお会いになっている。タクシー2台だかで来て、司馬遼太郎夫妻、編集者、須田剋太のほかに作家の太田治子さんが一緒だった。

森和氏は、言葉の人・司馬遼太郎とは古くからのなじみだが、美術の人、創作の人須田剋太に心情的に共感すること大だったという。
須田剋太の秀作をたくさんもつ大阪の喫茶美術館に見に行ったこともあるが、喫茶美術館まで行ったのに、歩いていける近さの司馬邸に寄らなかったことについて、のちに司馬遼太郎からみずくさいことと惜しまれた。

森紀美代さんが会ったとき、須田剋太はいつものつなぎ服を着て、小柄で、はじめ司馬の奥さんかと思われた。
たしか司馬遼太郎の文章でも、どこの旅の誰だったかに須田剋太を妻と勘違いされ、とんでもないこと!という調子で書かれていた。
須田剋太を前から知る人には、とんでもないにしても、初対面ではそのように見間違えるひとが1人ではなかったことになる。

須田剋太が描いた『砥部町風景』にある山は障子山ではないかといわれる。
裏に出ると見えるというので、工房を通りぬけて裏に出てみた。
このあと移動すると山を見つけられるかあやしいので、いちおう写真を撮った。

須田剋太『砥部町風景 森陶房から障子山
須田剋太『砥部町風景』

ギャラリーの棚にはそそるものが並んでいるのだが、これからまだ先が長いので小ぶりな湯呑みをふたつだけ買った。
いい土産もえられた。

* 砥部から379号線を南下して大瀬に向かう。
ずいぶん前に大江健三郎の「谷間の森」を舞台にした小説を読んで以来、奥深い、特別な場所という思い入れがある。
南下する道がつきあたって西に向きをかえると川に沿う道になり、あの作家が育ったところへ向かっているという昂揚感がある。


■ 大江健三郎生家
愛媛県喜多郡内子町大瀬本町

通りに面して大江健三郎の生家があった。
古格な雰囲気を感じさせるが、この道では町並み修景が行われ、大江家も最初に改修されている。
ひるどきになっているが、集落には食事できるような店はなさそう。
生家の隣が本田商店というよろづ屋で、ガラスケースにパンが見えたので入って買った。
店番をされていた高齢の女性に町のことなど話をうかがった。
店を出てあらためて見ると大江家とのあいだに細い路地がある。
路地を抜けると川が流れていて、大江少年がとびこんで泳いでいたろうかと思う。

大江健三郎の生家の裏の川

■ 内子町立大瀬中学校
愛媛県喜多郡内子町大瀬中央4701

橋を渡った南側に、山を背にして大瀬中学校がある。
大江健三郎の友人で、小説中にもそれらしき人として登場する建築家、原広司の設計による。

大瀬中学校
メカニックな構造体のような原建築がこういう山中にどんなものかと思っていたのだが、意外にしっくりおさまっている。長い宇宙船が舞い降りてきたふうでもある。

前の坂道に駐車して、パンを食べ、短い時間、うたた寝した。
大江健三郎は、僕には先行する世代だが、少なくともある時期以降の同時代を生きてきたという共感がある。そのふるさとに来られてよかった。

* 西に走って内子町に入る。
内子町図書情報館の前の広場に駐車する。
情報館は今日は月曜であいにく休館日。


■ 内子の町並み

内子は木蝋生産で栄えた町。
その富はたいしたもので、たとえば公開されている上芳我(かみはが)邸に行ってみると、広い敷地に、立派な住まいのほかに10棟の木蝋生産施設があって、どれも重要文化財に指定されている。

1916年に建った内子座も、町に暮らす人の豊かさをしのばせる。
老朽化により解体されかけたが、保存運動があって、1980年代に当初の姿に復原された。(歌舞伎公演などもあるが、ふだんから地元の文化団体の発表会などに使われている。)
内子座

大江健三郎が生まれた旧大瀬村との距離は10キロほど。
初期の小説では奥深い谷間の村のように想像していたが、文化とか情報とかの熱が届く範囲ではあったろうと思う。

重要伝統的建造物保存地区に指定されているが、こうした町が残っているのには保存に尽くす人があってのこと。
おかげで通りを歩いていて、懐かしいような落ち着きを覚える。
観光用に店が並んでしまっていなくて、行きあうのは観光の夫婦や少人数のグループと、あとは学校帰りの小学生くらい。
懐かしいような風景のなかに、人が自然に暮らしている感じで、いい町だと思う。

● 月乃家
愛媛県喜多郡内子町内子2646  tel. 0893-43-1160

古い町並みの中にある宿に泊まった。
夕食は野菜が主の料理。
ご主人はもともと農家で、宿をはじめてからもご自分でつくる野菜をつかっている。
よく作られた野菜を心をこめて料理されているのを食べると、しみじみと「この野菜で生かされている」と感じる。
さすがに野菜だけでは蛋白質がものたりないが、後半に豚のスペアリブと魚の塩焼きが加わる。
銀杏を混ぜこんだごはん。銀杏のちょっともちっとした食感が絶妙。
デザートにさりげなく柿がでて、さっぱりと甘く、あとコーヒーが香る。

ついでに朝食は、もちろん野菜各種をさまざまに調理してあり、蛋白質に自家製の(といっていいだろう、こちらは息子さんが作っている)太めのソーセージ1本が加わる。
大きなブドウ2粒に、ヨーグルト。
これだけ食事に満足させてもらって(酒代は別として)1万円弱だった。
ご主人はもと農業の人で、料理を専門に学んだわけではないとのこと。僕には料理を評価するような味覚はないが、少なくとも好みにぴったりの食を楽しませてもらって、感動的なほどだった。

宿には外国人も多く訪れるという。
東日本大震災で減ったが、オランダ人だけは減らなかった、オランダ人は長崎を起点にして西日本を回るのだという。

通りに面した2階の部屋で眠る。
こんな道だから夜になるとますますひっそりして、ひたすら静かだった。
月之家の前の通り

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第3日 大洲市~西予市
[大洲市] 大洲城 油屋
[西予市] 宇和米博物館 開明学校 二宮敬作墓 愛媛県歴史文化博物館 まつちや旅館(泊)

* きのう休館日だった内子町図書情報館に寄った。
木がたくさんあって、森にいるよう。
大江健三郎作品をおさめた書架があった。
内子町を出て大洲市に向かう。
10キロほどで、車だとあっさり着く。


■ 肱川橋から

肱川の橋を渡って大洲にはいるときの眺めを、司馬遼太郎はとても楽しみにしていた。
 「右手を」
 川下をご覧あれといってみたのだが、言いつつ、元気が失せた。碧い淵と磧(かわら)に面していた白壁の可愛い櫓(やぐら)の横に、およそまわりの自然とは不調和なコンクリートの会館のようなものができていたのである。
 「あのコンクリートの建物ですか」
 右をむいた画伯が、すぐ興をうしなったように首を前に戻した。
北から城を右にみて市街に入っているから、このとき渡ったのは肱川橋だろう。
僕は橋の手前に車をとめて橋に進んだ。

肱川から大洲城 司馬遼太郎と須田剋太はコンクリート建築にあぜんとしたが、僕は城より大きい異様な木の姿に驚いた。
城の森の左に壁が見えているのが1968年に建った大洲市民会館。
城の天守閣は、司馬一行がきた1978年よりあと、2004年に復元されている。

司馬遼太郎が愛すべき風景と眺めたときは、コンクリートも大木も天守もなくて、小さな櫓が清流に映っていたのではないか。
その後、コンクリートの建物が加わり、木が大きく育ち、天守が復元されたという時間の経過が想像できる。
あとからのものは、どれもないのがいいように思う。

* 市役所の向かい側にあるビル型の駐車場に車を置く。
うすぐらい廃墟のようで、ただの駐車場にしては忘れがたいインパクトがあった。


■ 大洲城

市役所から大洲城に向かうと、城山の手前に大洲市民会館がどんと立ちはだかっている。
城が復元されたのがあととはいえ、城山を隠すほどに大きく、しかも異様な形をしている。
司馬遼太郎は、橋からの眺めに失望したあと、ほかにも景観をそこねる例をあげ、「この行為のたけだけしさ」という言葉を使っている。
「たけだけしさ」の一語に深い怒りがこめられているが、僕もこの建物にはその言葉がぴったりだと思った。

大洲市民会館と大洲城 市役所から歩いていくと、市民会館の向かって左の肩に、かろうじてちょこんと城が現れる。

城跡に上がると、川の眺めがいい。
城のなかには入らずに坂を降りた。

● 油屋
愛媛県大洲市大洲42 tel. 050-5870-8027

司馬遼太郎一行は大洲で泊まった。
宿の前に来て、司馬遼太郎は宿の手配をしてくれた編集者に
 「Hさん、これはよかったですな」
 と、路上に立ちどまってしまった。(中略)
 ともかくもこんにち、むかしの旅籠の外観をのこしているのは、もはや大洲のこの油屋だけではあるまいかと思われた。

須田剋太も宿の様子を描きのこしている。
須田剋太『大洲油屋旅館玄関』
須田剋太『大洲油屋旅館玄関』

ところがその建物はなくなって駐車場になり、蔵だけが改装されて宿の名前を残したレストランになっている。
昼食だけでもとれればよかったが、あいにく臨時休業だった。
大洲の油屋

油屋は肱川の土手のすぐ内側にあり、このあたりから描いたらしき眺めもある。
僕が行ったのは10月で、鵜飼いの舟は岸に上がっているのもあった。

須田剋太『大洲風景』 肱川 鵜飼いの船
須田剋太『大洲風景』

油屋のとなりに赤レンガの建物がある。
1901 年に大洲商業銀行として建ったが、今は観光用の休憩施設「おおず赤煉瓦館」で、土産物など売っている。

■ おはなはん通り

古い町並みが残る一帯はNHKの朝の連続ドラマ「おはなはん」のロケにつかわれたところで、「おはなはん通り」と名づけられている。
樫山文枝が演じて人気が高かった。
放送されたのが1966年で、まもなく半世紀になるが、平日でも観光客が歩いていた。

須田剋太『大洲市木蝋を入れた蔵』 おはなはん通り
須田剋太
『大洲市木蝋を入れた蔵』

* 司馬遼太郎一行は富士山(とみすやま)のことなど話しながら如法寺に近づいたが、どしゃ降りになり、タクシーから降りないまま去っている。
如法寺は須田画伯が好きな盤珪禅師ゆかりの寺で、須田剋太はこの旅が終わったあと、盤珪禅師の住山であった播州網干の竜門寺をたずねたという。
(僕もならって、如法寺は寄らずに、後日、室津を訪ねたときに竜門寺に寄った。→[なつかしい龍野から揖保川をくだって室津みなとへ])
廃墟のような駐車場に戻って車に乗る。
南下して西予市にはいる。


■ 宇和米博物館
愛媛県西予市宇和町卯之町2-24 tel. 0894 -62-5843

もと小学校だった建物が米についての博物館になっているが、旧校舎の百間廊下というのがすごい。
木造校舎に109mの廊下が一直線にあって、視線がずーっと向こうまでとおる。
宇和米博物館

今はこの廊下の長さが特徴のようにいわれるが、もとの校地図を見ると、学校全体がよく作ってある。
3棟の校舎の中央に管理棟があり、校庭が広い。
本プールに補助プールまであり、昭和初期にプールがある小学校は珍しかったろう。
大学にできる水準をめざしたというのが誇張でなく納得できる。
教室の天井を見あげると、換気のためらしい切り込みが花びらの形にあけてある。
かつての建築はこういうところにも意匠をこらしてあって、心がこもっている印象を受ける。

旧・宇和町は、山塊の間を流れる宇和川に沿って、細長く市街がある。
1928年に建った旧宇和町小学校は、もと川沿いの低地にあったが、一部が山をいくらか上がったところに移築され、博物館としてつかわれている。
博物館は古い街並みが集中する一帯から、やや北にはずれている。
受付の人は笑顔で明快で、これから知らない街に入っていくのに、いい感じで向かえる。

■ 開明学校
愛媛県西予市宇和町卯之町3-110 tel. 0894-62-4292

開明学校は1882年に建った学校で重要文化財に指定されている。

須田剋太『宇和町開明小学校』 開明学校
須田剋太『宇和町開明小学校』

今は明治時代を中心とした教科書を展示する教育資料館になっていて、当時、主要な教材だったさまざまな掛け図が展示されている。

須田剋太『宇和町教育資料室にて』 掛け図 算用数字図
須田剋太『宇和町教育資料室にて』

2階に教室がそのまま再現されていて、新潟からきた団体客を生徒に見立てて授業が始まったところだった。
 机もイスも長く、二人掛けである。
 須田画伯はその一つにすわり、すわってから表情に驚きがひろがってきて、
「私(わっち)のころと同じです」
 といった。明治三十九年生まれの画伯は武州熊谷在の吹上(ふきあげ)で育ち、大正初年にその集落の小学校に通った。そのときの小学校の机とイスはこれとまったく同じだったというのである。むろんこの開明学校の創立から画伯の小学校入学まで半世紀近く経っている。

僕はその須田剋太からさらに半世紀ほどあと、須田剋太と同じ小学校に通った。
もしかすると僕の小学校期とも同じ机かもしれないと予想して来たのだったが、違った。

開明学校の教室 僕のころも、やはり2人掛けの木の机ではあった。
開明学校の机は、下の物入れの手前側が開きっぱなしだが、僕らのころは、机の天板がちょうつがいで留めてあり、上に持ち上げて開く型だった。
イスは2人掛けではなく、1人1脚に独立したものだったと記憶している。

この受付の若い女性2人も感じのいい人たちで、須田剋太が描いた絵の場所についての心当たりなどを教えてもらった。

■ 二宮敬作墓

開明学校の裏の坂を上がると墓地があり、江戸末期の洋学者の二宮敬作の墓がある。
開明学校の受付のひとに道をきいてきたのだが、「苔むして新しくしたが、ありきたりになってしまった」といわれていたとおりに、すっきりきれいではあるが、歴史的人物の墓のようではなくなっている。

須田剋太『二宮敬作墓』 二宮敬作墓
須田剋太『二宮敬作之墓』

墓地の高いところまで上がると、教会の塔が見える。
『宇和町風景』はこのあたりから描いたようだ。

須田剋太『宇和町風景』 宇和町風景
須田剋太『宇和町風景』

■ 卯之町の町並み

開明学校のあたり一帯に古い街並みが残っている。
静かな通りで、歩く人のすがたは少ない。
「シバさん」
 須田画伯が画板を胸に当てて寄ってきた。
「ここは大変な町(ところ)です。京都だって奈良だってこんな一角がありますか」

松屋旅館の前を通る。
 松屋旅館とひそやかに看板が出ている家屋など、城のように重厚な白壁で中二階の外観を塗りこめ、一階に古風な格子戸を張り出させている。
今は門の左右の塀に有名人の名をずらりと書き並べてある。
来館した著名な政治家・文人として、後藤新平、犬養毅、尾崎行雄、浅沼稲次郎など。
泊まった著名人として、前島密、新渡戸稲造など。
宇和文化の里俳句フォーラム宿泊者として、金子兜太、有馬朗人など。
そんな看板も、日光や雨にさらされて古びていて、目にうるさくない。

須田剋太『卯之町風景』 松屋旅館
須田剋太『卯之町風景』 松屋旅館

元見屋酒店に入ってみると、「開明」という酒の蔵元。
天窓があり、帳場に光をもたらすように作ってある。

■ 愛媛県歴史文化博物館
愛媛県西予市宇和町卯之町4-11-2 tel.0894-62-6222

宇和特別支援学校の脇の道から細い山道を上がる。
地図上ではとても近い距離にみえたのだが、傾斜がきつい坂道で、夕暮れ近くにはこたえた。
坂道は「俳句の道」になっていて「原子炉のもゆるふるさと大西日」という句が石に刻まれていた。
伊方原発がここから北西に直線距離24キロにある。
かつては西方で発電している原子炉がふるさとを支えていてくれるものとうつったのだろうが、同じ人が福島の事故のあともおなじように感じているかどうか。
ちょうど西に日が傾いていく夕方に歩いていて、僕には「大西日」が終末の予感のように感じられた。

あがりきると博物館がある。

円形4つを花びらのように配置しているが、花びらの形は上から見ないとわからない。ふつうに人がみる高さでは、舌状に半円が飛び出している。
外壁には石を組んである。
閉館時間が近いので、奥までは入らずに引き返した。
愛媛県歴史文化博物館

* 駐車場に車を置いた先哲記念館の展示をさらっと見てから宿に向かった。
駐車場は数軒ぶん離れていて、商店街の共用らしい。小屋のなかにいる係の人に「まつちやさんに泊まりで」と伝えると、気持ちいい笑顔で見送ってくれた。


● まつちや旅館 
愛媛県西予市宇和町卯之町3-324-2 tel. 0894-62-0126

お遍路さん用の宿に泊まる。
限定というのではないが、お遍路さんによく知られた宿で、利用が多いらしい。
電話で予約したときに「お仕事ですか、お参りですか?」ときかれた。
「旅行で」とこたえたのだが、仕事でもお参りでもなくただの旅行というのは珍しいのかもしれない。
宇和町 まつちや旅館

夕食は、8畳ほどの部屋2つの仕切りを取り払ってある部屋でいっしょにとる。
僕のほかに2組。
男2人は仕事組で、ダム工事で来ている。しばらく泊まっていたが、あさってには終えて去るとのことで、なじみになっていた宿の人たちが寂しがっている。
5人グループはお参り組で、女4人、男1人、香川からきて車で回っている。全員そろうと女将がお迎えのあいさつと話をする。
この町には4つの自慢がある、名水と、100mの廊下の学校と、女医イネと、 開明学校だったか。
今夜はお遍路さんは1グループだけだったが、見知らぬどうしでも情報交換で和気藹々になるらしい。

風呂もトイレも共用。
僕は着いたときに、あとから団体さんがくるので風呂がきれいなうちにすませておくようにとすすめられて、はいっておいた。

テレビはある。
ニュースで今季いちばんの冷え込みという。
卯之町は海抜100mくらいで、海辺よりもともと気温が低いと女将が話していた。

朝5時過ぎから男女のお遍路さんたちの話し声がきこえてくる。
7時に食事の部屋に行くとダム工事の人たちといっしょだった。
お遍路さんたちはもう発ったようだ。

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第4日 宇和島市
[宇和島市] 法華津峠 シルビア 旭醤油 河合太刀魚巻店 和霊神社 天赦園 神田川 愛宕山 木屋旅館・蔦屋旅館 斉藤鮮魚店 宇和島城 桑折氏長屋門 石丸ふとん店 宇和島第一ホテル(泊)

* 卯之町駅が近いので、車に乗る前に散歩する。
駅のすぐ前に西予市役所があり、図書館もとなりにある。
市の中心部なのだろうが、人も車も少なくて、ゆったりしている。
朝の空気がひんやりしている。


■ オフサイトセンター
愛媛県西予市

四国電力の伊方原発の緊急時の対応施設を建設中ときいて寄ってみた。
今の施設は原発本体に近すぎるので西予市に新設・移転するという。
「愛媛県オフサイトセンター 西予土木事務所 新設工事」という標示がでている。
オフサイトセンターというのは四国電力の施設かと思ったが、県の施設らしい。
原発から離れたのはいいが、車で1時間かかるし、道も1つきりのよう。
距離は遠くなっても、こんな盆地では放射能がこもって、事故のときにはやはり危険なのではいかという危惧をいう人があった。
それに宇和の古い街並みが残る区域から、細い道1本隔てただけの位置で、こういう位置を選んだことも「たけだけしい」という気がする。

この道のすぐ向かい側(写真左方向)が、開明学校など古い街並みが残る区域になる。 四国電力 オフサイトセンター

近くでは野球場の解体が終わって、整地作業をしているところだった。

* 西予市から宇和島へ南下するには峠を越える。
1978年に訪れた『街道をゆく』の一行は、1970年にまっすぐ抜けるトンネルが完成しているが、まがりくねった旧道を上がって、峠で休んで宇和海を眺めている。
僕もそれにならう。


■ 法華津峠(ほけづとうげ)

峠に上がりきると、海を見おろす眺めがひらけている。
四国側から半島が迫りだしている向こうに、九州らしい陸地を望む。
石碑が立ち、右手のほうに、石碑の由来を説明した案内板がある。
長く松山市で教育に尽くしたクリスチャン、西村清雄(にしむらすがお 1871-1964)が、布教の途中ここを通りかかって作った詩が賛美歌になり、その冒頭を刻んだとある。
 山路こえて ひとりゆけど
 主の手にすがれる 身はやすけし
石碑が立ったのは1955年、案内板は1978年に作られている。
西村清雄は、祖父が幕末の松山を代表する歌人西村清臣、叔父は道後村村長で道後温泉本館を建てた伊佐庭如矢というから、松山市民にはなじみの人のようだ。

須田剋太『法華津峠』

須田剋太『法華津峠』
法華津峠の石碑

* 峠道は車で走るのにきびしい道だっだ。
左の崖との間に溝があり、溝の中は黒い鋭い石片が詰まっている。
右は崖が落ちている。
細いベルトの上を走っているようなもので、左右どちらにでもタイヤが道をはずしたら車の底がぺったり地面にはりついて、動けなくなりそう。
対向車が来たら、すれ違うのもたいへん。
さいわい、タイヤは道からはずれず、対向車もないまま降りきった。

56号線に合流すると、まもなく旧・吉田町になる。
吉田町は地形的にも歴史的にも独立した区域だったが、2005年に宇和島市と合併している。
旧・吉田町の中心市街地の北端に吉田高校がある。
『街道をゆく』の一行は、宇和町から同行してきていた人と、吉田高校の前で別れているが、なるほどここでひと区切りという位置に高校があった。

吉田高校の前から市街地をカラー舗装の道が貫いている。
吉田支所があったので駐車したが、庁舎内に照明が消えている。
おかしいと思って見まわすと、道の向こう側に新しい庁舎があって、移転したようだった。
新庁舎の駐車場に車を移した。


■ 宇和島市役所吉田支所
愛媛県宇和島市吉田町東小路甲70番地 tel. 0895-52-1111

吉田町で須田剋太が2枚の挿絵を描いている。
絵には場所を特定できるような手がかりがない。
観光地図でもあるかと庁舎に入って見まわしたが、なさそう。
通りかかった女性職員(名札によると笹井さん)に絵を見せてたずねた。
別の職員と相談すると、思いあたったところがあるらしく、玄関を出る。
わかりやすいように外に出て道を示してくれるのかと思ったら、するするとそのまま歩き出して、現地まで案内してもらえるようだった。
たしかに説明するより歩いてしまったほうが早いかもと思える近さで、1街区こえて、庁舎前の道より1本東の道に出ると、それらしい家があった。

喫茶シルビア 『街道をゆく』の文章に、「一服しましょうか」と須田画伯をさそって向かいのコーヒー店に入ったとあるのだが、そのとおりの店まである。
笹井さんに礼をいって、僕もひと休みにコーヒー店に入った。

● シルビア
愛媛県宇和島市吉田町東小路甲26 tel. 0895-52-1853

中はゆったり椅子を配置してあり、赤い椅子カバーなどレトロな雰囲気がとてもいい。
窓際の席にすわると、絵に描かれた長屋門が道の向こうに眺められる。

須田剋太『吉田町民家』 喫茶シルビアから吉田町民家
須田剋太『吉田町民家』

シルビアブレンドコーヒーを注文する。
コーヒー店主の中田八代茂さんによると、中田さんがここを営むようになったのは10年ほど前からで、司馬遼太郎が来たときのことはわからないとのこと。
テレビの取材がきたこともあるそうだが、当時のことはこたえようがない。
吉田では古い家が次々に解体されてきた、価値がわかっていなかったのが惜しいといわれる。

司馬遼太郎が「一服しましょうか」と須田剋太をさそったとき、須田剋太はスケッチの途中だった。
それで編集部のHさんに、ここを写真に撮っておいてほしいと頼んだ。
こんなふうにと手で大きな円を描いて指示したのだが、Hさんのカメラは簡素なもので、近くからそんな大きな風景を写しとれる性能はない。
司馬と須田が先に店内に入っていると、Hさんがあとから入ってくる。
須田剋太が撮れましたかときくと、撮れましたとこたえるのだが、司馬遼太郎にだけ「とてもそんな構図には撮れない」という笑顔を見せる。
 画伯はこの半生のあいだ、写真機のファインダーというものをのぞいたことがないために、写真機が切りとることができる空間の大小がわからない。
挿絵に使われた絵には、その写真が役立ったのかどうか。

もう1枚の絵の位置が定かではないので、中田さんにたずねると、確かにここと思いあたるところはないが、吉田高校の方向に古い家が残っているとのこと。
店を出て北に向かって歩いた。

右手に細い川がゆるくカーブしながら流れている。
細い川にふさわしい細い土手に上がると、桜並木。
桜の季節はみごとだろう。

でも目指す絵らしい家はみつからないまま、吉田高校で折り返した。
カラー舗装の道の両脇に住宅が並んでいるが、4階建てで白いコンクリートの破調なたてものがあって、「吉田町老人保健施設 オレンジ荘」とある。
向かい側には広い駐車場をもったさらに大きな施設があって、壁の高いところに「市立吉田病院」とある。
地方の小都市では、いちばん新しくて立派な建物は病院ということがしばしばある。
すぐれた機能をもった病院が地域にあるのはいいことだが、それが最大で際立っているのはいいことではないだろう。少子高齢化が進むと町がどうなるかを見る思いがする。

■ 旭醤油醸造場
愛媛県宇和島市吉田町東小路甲112

吉田支所の笹井さんが、自分でも納得しがたいまま、もう1点の絵の候補にあげていたのが、支所のすぐ前にある醤油屋さん。
吉田高校まで行っても手がかりがないまま支所付近に戻ってきて、旭醤油に寄った。
大正期の建築で、登録有形文化財。
店の正面ではなく、市役所側から見た姿がよく似ている。

店に入ると母娘がおられて、娘さんは、うちではないようだといわれる。
おかあさんは、絵と現状とが違うところについて、前はこうだったというふうな、希望をいだかせる感想をいわれる。
でも外に出て見比べてみると、角の建物の向きも屋根も違うようだ。

須田剋太『吉田町の武家屋敷』 旭醤油醸造場
須田剋太『吉田町の武家屋敷』 旭醤油醸造場

娘さんが「橋の向こう(南)にこんなのがありそう」といわれるので、橋を渡った。

短い橋だが、とても眺めがいい。
さっき歩いた桜並木の下流になる。
おだやかで、海が近いのを忘れそうな、山中の別天地のよう。
吉田町の清流

● 河合太刀魚巻店
愛媛県宇和島市吉田町魚棚29 tel. 0895-52-0122

橋の先の通りを歩いてみてもそれらしい構えの屋敷は見あたらない。
家の前でなにか焼いて売っている店があった。

河合太刀魚巻店 きいてみると、タチウオマキというもので、宇和海でとれたタチウオを三枚におろし、竹に巻きつけ、タレをつけて炭火で焼く、宇和島独特のものという。
有名な店で、遠くから来る人もいるとのことだった。

なにか不思議なものを見たような気になった。
絵のことを尋ねると、「橋のこちらには武家屋敷はない、こちらは漁師町で、それで『魚棚』という地名」という話で、なるほどそうかと納得した。
橋を北に戻った。

市役所に戻って、ここまでのことを笹井さんに報告した。
笹井さんは教育委員会の文化財担当者にたずねてくれていて、教育委員会のある2階に上がった。
文化財担当の職員は、「絵には溝が描いてある。西側の川に沿った道は、54号線ができて様子が変わったが、そのあたりに水路があり、小さな橋を架けていた。そちらではないか」という意見をいわれる。
そういわれて絵を見直すと、家と道の境に水の流れがあるようにも見える。

下に降りると、また笹井さんが、今度は違う方向にするっと歩き出す。
細い水路に面して古い家があったが、絵とは様子が違った。
古い家が次々と解体されてきたというから、絵に描かれた景色は、もうないのかもしれない。

● 国安
愛媛県宇和島市吉田町東小路甲71-1 tel.0895-52-0533

昼近くになり、笹井さんがすすめてくれた店でざるうどんをおいしく食べた。
結局2枚目の絵の場所はわからなかったが、探しているうちに、桜並木の清流や、太刀魚の店や、笹井さんをはじめ吉田の人の親切な心持ちにふれられて、いい所にきたと思った。
めん処国安

* さらに南下して宇和島市の中心部に向かう。
宇和島で行くべき地点のうち、北のはしにある和霊神社にまず寄る。


■ 和霊(われい)神社
愛媛県宇和島市和霊町1451 tel. 0895-22-0197

宇和島藩の財政を安定させるのに大きな功績があった人が、城中に緊縮を強いたことから反発をかい、暗殺された。民の人気が高かったので、懐柔のために神社まで作って祀りあげられた。
須田剋太はこの神社を大鳥居の前の橋越しに描いている。

須田剋太『和霊神社』 和霊神社
須田剋太『和霊神社』

* そのあと、宇和島で行くべき地点のうち、東南のはしにある愛宕山に向かった。
ところがその麓に近づくと、もともと狭い道に露天が並び、はっぴ姿の人もいてにぎわっている。
愛宕山の北すそにある宇和津彦神社の祭礼の日だった。
とても車を駐められる場所など見つけられそうもない。
駐車場がありそうな天赦園に向かった。
ここでも祭の演じものがあるらしく、マイクロバスなども駐まって狭い駐車場はほぼいっぱいだったが、かろうじて置けた。


■ 天赦園
愛媛県宇和島市天赦公園 tel. 0895-22-0056

天赦園をつくったのは宇和島藩第7代藩主の伊達宗紀(むねただ)。
産業を興す一方で、質素倹約につとめ、藩を豊かにした。
明治維新後の97歳まで生きたが、70歳をこえたとき、「もう多少の贅沢をしても天が赦してくれるのではないか」と周遊式の大庭園と住居をつくった。


須田剋太が公園の花菖蒲を描いている。花菖蒲があるのは、入口をはいってすぐ、受付の建物がある向かい側だけのようだが、見比べてみると違和感がある。
須田剋太『宇和島天赦園公園 花菖蒲』
須田剋太『宇和島天赦園公園 花菖蒲』

受付の女性に尋ねると、たしかにすぐ前が絵の場所だといわれる。
今、生け垣になっているところが、前は絵にあるような塀で、さらに上に高くネットを張ってあった時期もあるという。
天赦園

隣の空き地で子供が野球をして、ボールが飛び込んでくるのを防いだという。
隣地は伊達家の土地だったが、今は市有になっている。
管理をしっかりするようになったということだろうが、今もたまに球が飛んでくるらしい。
左の藤棚は同じだけれど、藤を支える木材は補修などするから、絵のころそのままのものではないといわれる。

* 駐車場に戻ると、祭の関連の人たちがひきあげて、がら空きになっていた。
近くの川まで歩く。


■ 神田(じんでん)川

司馬遼太郎一行は、宇和島を去る前に、このあたりに住む蚕(さん)種の専門家の浜田美登氏宅を訪れている。
川から細い道にすこしそれたところに大村益次郎の住居跡がある。

須田剋太『宇和島神田川原風景』 神田川
須田剋太『宇和島神田川原風景』

* 天赦園の駐車場で、もう一度地図とカーナビを見る。
愛宕山には、宇和津彦神社を避けて、南側からユースホステルを目指して上がる道がありそうで、行ってみることにした。
でも市街近くの公園に上がるにしては、とても細いスリリングな道だった。
ちっぽけな公園とユースホステルがあるだけで、通過車両がないから、整備の必要が少ないのかもしれない。


■ 愛宕山
宇和島市は狭い平地にあり、西の方向だけ宇和島湾に面してひらけているが、あとの3方は圧倒的なボリュームの山地に囲まれている。
その迫りくる山地の先端の1つが愛宕山公園になっている。
小さな公園で、ブランコと展望台がある。
宇和島市中心部が眼下にあり、海も見える。
城のある森だけがこんもりと高く、司馬遼太郎は「もとは島だったろう」と書いていて、なるほどと思う。

須田剋太『宇和島市全景』 愛宕山から宇和島市
須田剋太『宇和島市全景』

今夜予約してあるホテルも、壁に記した文字が見えた。なかなか大きい。

* その宇和島第一ホテルに行く。車を置き、チェックインして、あとは市街を歩く。

■ 木屋旅館・蔦屋旅館

木屋旅館:愛媛県宇和島市本町追手2-8-2 tel. 0895-22-0101
1911年創業の宿。
1995年に廃業したが、2012年に現代的センスで改修・再開している。
司馬遼太郎が宿泊した部屋も改修されて残されている。
1日1組限定で、僕などには高額で泊まれない。

1978年の『街道をゆく』の取材のときは、一行は城の近くの蔦屋旅館に泊まった。
『街道をゆく』の文章では、かつては「古風な日本建築で、いかにも宇和島でもっとも古い宿の1つ」だったのに、1968年に建て替わって「白い洋館になっており、内部の形式もすべて純然たるホテル」になっていた-とある。
その新しかったほうの建物も解体され、駐車場になっているという。

■ 斉藤鮮魚店
愛媛県宇和島市本町追手1-3-21

『街道をゆく』で訪れたとき、司馬遼太郎は寄合酒(よりあいざけ)をしてみたいと旧知の市立図書館長だった人に依頼している。
寄合酒というのは、仲間が集まり、自宅を提供するもの、料理するもの、材料を調達するものと手分けして宴会をひらく。
司馬遼太郎から依頼された人は、純粋のはもうできないから、かわりに似たようなものとして、斉藤鮮魚店の2階を会場にした。
下の魚屋で魚を買い、魚屋の主が調理する。

主人は二代目で、夫人ともども高校を出てまもないのかと思われるほど若々しかったが、陽久(はるひさ)君はもう三十歳で、夫人は二つ年下だという。夫人は色白で、目が水を張ったような感じの宇和島顔といった美人である。

店の前に着いてみると、シャッターが下りている。
向かい側に米倉種苗園があり、ご主人に話をうかがった。
驚いたことに、夫は60代で、妻もあとを追うようにまもなく亡くなったという。お子さんは別の仕事につかれていて、店が開くことはないだろうとのこと。
『街道をゆく』をたどっていると、しばしばかつてあったよいものが失われていることに出会う。
でも司馬遼太郎にこんなに魅力的にえがかれた、まだまだ元気でいていい年ごろの夫婦が、まさかお亡くなりになっているとは思いもよらないことだった。

須田剋太『宇和島街頭』 斉藤鮮魚店
須田剋太『宇和島街頭』

夫は静かに笑う人。
妻は明るく、ちょっと向こうからもう声が聞こえてくるような人だったという。
司馬家でお手伝いさんに宇和島の女性を選んでいたというのには、この妻の印象が後押ししているかもしれない。
(ほかに九州・島原出身の女性も司馬家のお気に入りだった→[島原と天草のあかるい海]の「口之津歴史民俗資料館·海の資料館」の項参照)
『街道をゆく』のあとも司馬さんはなんどか来て、白髪なので通りを行くとすぐわかったという。

このあたりが宇和島商店街発祥の地で、年月とともに盛んなところがだんだん坂の下のほうへ下っているということだったが、その下のほうへいくとアーケードになっていて、祭の人混みができている。
南伊予のまつりの花形の牛鬼が、かつがれて動き出すところだった。
かつぐ人もまわりの人も若者が多いのがいい。

■ 宇和島城

須田剋太『宇和島城』 宇和島城への石段
須田剋太『宇和島城』

城に上がる。
独立した小山だから、眺めがいい。

『街道をゆく』の取材のころ、ここに武道館を建てる計画があり、城山の木を伐ってはいけないという反対運動が起きていた。
司馬遼太郎は「新・宇和島騒動」と名づけ、長いページをさいて書いていて、それほど賛否両派の対立がはげしかったのだろう。
この旅に出る前に、その結果はどうなったのだろうと記録をさがしてみたが、見つけられなかった。
来てみれば武道館はないから、木を伐らないで自然を守るという意見がとおったのではあるようだが、建設推進派もいたわけだから、ただ建設をやめるということでおさまったのかどうか。

須田剋太『伐ってはならぬ城山の巨樹』 桑折氏長屋門
須田剋太『伐ってはならぬ城山の巨樹』

■ 桑折氏長屋門
須田剋太の『伐ってはならぬ城山の巨樹』に描かれているのは、もと家老だった桑折氏の長屋門で、移築されて城へ東側から入る門になっている。
もと35mあったが今はおよそ半分の15mに縮められている。
門に向かって右に、そうした由来を記した解説板があって、もとの姿の写真もある。
須田剋太が『移築前の桑折氏長屋門』を描いている。
解説板にあるのとは角度が違うから、別の写真をもとに描いたのだろう。

須田剋太『移築前の桑折氏長屋門』 桑折氏長屋門の解説板
須田剋太『移築前の桑折氏長屋門』

■ 石丸ふとん店
愛媛県宇和島市丸之内5-1-1

長屋門から56号線にでてきた角に石丸ふとん店がある。
司馬遼太郎夫人と、石丸家の夫人が、女学校からの友だちで、司馬遼太郎の宇和島への親しみはこの縁にもよるだろう。
店のシャッターが閉まっているので、近くの店できくと、3年ほど前に閉めたという。
斉藤鮮魚店につづいてこちらもかと、寂しい思いになる。

石丸ふとん店 右が石丸ふとん店。
奥に見えるのが桑折氏長屋門で、その裏が城山。

● 宇和島第一ホテル
愛媛県宇和島市中央町1-3-9 tel. 0895-25-0001

今度の旅は宿が多彩で楽しみにしていた。
1泊目 黒川紀章設計の道後温泉の宿
2泊目 内子の重要伝統的建造物保存地区にある宿
3泊目 卯之町のお遍路さんの宿

4日目の宇和島では、蔦屋がなくなり、木屋旅館は僕には高い。
それでホテルに予約した。
2食つきで9000円弱で名物の鯛めしがついている。
鯛めしとはおよそこんなものというのがわかればいいかというくらいで(失礼ながら)あまり期待していなかったが、いいほうにはずれた。
チェックインのときフロントで告げた時間どおりにレストランにいくと、天ぷらや茶碗蒸しが時間にあわせて用意されていて熱い。
旅館の食事のように皿がたくさん並ぶのではないが、丁寧に作られた料理がおいしく適量で、生ビールを飲みながら満ちたりる。
さいごに名物の鯛めしでしあげる。
サーブしてくれる女性もさわやかで、4泊目も楽しんだ。

宇和島第一ホテル 宇和島第一ホテル。
(愛宕山から遠望して撮ったものを拡大。)

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第5日 鬼北町~高知県梼原町
[鬼北町] 鬼北町庁舎
[松野町] 末廣 滑床渓谷 目黒ふるさと館
[高知県梼原町] 三島神社・津野山神楽 いちょうの樹(泊)

* 宇和島を出て320号線を東に走る。
「武陵桃源の地にゆくみたいですね」
須田画伯が詩人としての直感でいった。山路が曲折して視界もせまいが、のぼりつけば一個の天地がひろがっているような気がしないでもなかった。
そんな道を走って『街道をゆく』の一行は松野町に向かうのだが、僕はその前に鬼北町に寄り道する。

■ 鬼北町(旧広見町)庁舎
愛媛県北宇和郡鬼北町大字近永800番地1 tel. 0895-45-1111

四国の奥まったところにアントニン・レーモンドが設計した建築があるとは、この旅まで知らずにいた。
僕は(須田剋太より前から)群馬県高崎市の井上房一郎の足跡をたどっている。井上房一郎は建設会社の経営者だったが、文化に深い関心を寄せ、群馬音楽センターや群馬県立近代美術館などの誕生に関わり、若いアーティストを支援した。
建築界では、アントニン・レーモンド、ブルーノ・タウト、磯崎新らと深いつながりがある。

この庁舎が建ったのは1958年で、当時は広見町庁舎だった。
そのころのレーモンド事務所の代表取締役であった中川軌太郎(のりたろう)が広見町出身ということから、レーモンドと中川が主に設計にあたったようだ。

庁舎に入ってきょろきょろしていたら、何か?と声をかけられ、建築を見にきたと話すと、企画財政課の善家直邦さんに紹介され、案内していただいた。

部屋の仕切りに使われているベニヤ板は井上房一郎の自邸を思わせるし、議場で議員席と傍聴席を隔てる木のバーは、日本人ではしないだろうし、あちこちにレーモンドらしさがある。
椅子や書類の記入台などは妻のノエミ・レーモンドのデザイン。

最大の特徴は3階中央にある議場で、天井を見あげるとシェル構造による特異な意匠になっている。
開口部に色ガラスをはめ込んであり、ステンドグラスのようで、明るい。

建築後、半世紀を越え、解体しようという意見もあったが、保存の方向になっていて、登録有形文化財に登録している。
今はとなりに新庁舎を建築中で、設計は今回もレーモンド事務所があたった。
新庁舎に移転後、現庁舎は改修して、今後も使っていくという。

3階議場の色ガラス部分にとりつけてある空調機器は外す。
色ガラスは、外側からもあざやかだったのに今はグレー一色になってしまっている。かえるには枠ごとになるので、ガラス部分を削って、きれいな色の面をだしていく。
12月に竣工して年末年始に引っ越すというから、職員の人たちはこの暮れと正月は忙しい。
鬼北町庁舎
鬼北町庁舎 椅子
鬼北町庁舎 天井
鬼北町新庁舎の工事

1958年に建ったということは、高崎市にある群馬音楽センターより3年早い。
群馬音楽センターの建設にあたっては、井上房一郎の尽力で市民の音楽への関心を高めていき、多額の寄付を集めて実現した。センターの前庭に「昭和36年ときの高崎市民之を建つ」という石碑が誇らしく立っている。
驚いたことに、この庁舎の横に回ると、役場の建設資金を寄付した人の名を刻んだ石碑があった。

広見町役場の碑 小さい立方体には「広見町役場」とあり、大きいほうには
 「広見町役場庁舎建設資金寄付者御芳名
 昭和三十三年十二月二十三日落成」
とあって、以下ずらりと氏名と金額が刻まれている。

音楽センターのような文化施設ならともかく、基幹施設の役場の庁舎に町民の寄付を募るというのは珍しいのではないだろうか。
1958年には群馬音楽センターの設計は始まっていて、資金計画も進行していたはずで、広見町の経験が影響しているかもしれない。

宇和島では、店が閉まり、宿がなくなり、人がなくなり、と寂しい思いのことがいくつもあった。ここでは、レーモンドとノエミの建築にひたりながら、先人の寄付で建ったレーモンドの建築を保存活用していこうとしている話をきいていて、明るい気持ちになってきた。

* 鬼北町庁舎から松野町庁舎へは5キロほどと近い。

● 末廣
愛媛県北宇和郡松野町大字松丸488 tel. 0895-42-0156


『松野町』と題した絵に、「末広」と看板がかかった店が通りの角にある。
須田剋太『松野町』
須田剋太『松野町』

松野町に「末廣」(「廣」をつかっている)は今もあり、場所はすぐにわかった。

松野町 うなぎ末廣の交差点

ところが、四つ角の反対側から眺めると、道と家の向きの関係が違う。
左の角に「末廣旅館」があり、右の角に「天然うなぎ末廣」がある。
四つ角のあちこちに移動し、紙の向きをかえ、いろいろ思いめぐらすが、どちらの建物にしても絵と同じようようにな見えてこなくて、釈然としない。

しばらくウロウロしたが、ともかくこの場所には来たということで去ろうとして右にあるうなぎの店の前を通りかかったら、中からヤカンを持った女性が出てきた。
たずねてみると末廣の経営者で、左の家(旅館のほう)に仏壇があるので、これからお茶をあげにいくのだとのこと。
須田剋太の絵の場所をたどっていると話すと、『街道をゆく』の取材一行がきたときに会われていて、まあ懐かしい、入りなさいとすすめられて、ヤカンを持ったまま、うなぎの店に戻った。
女性は友岡勝子さんといわれて、この店の経営者。
テーブルに腰かけると湯呑みをだして、ヤカンのお茶を入れてくれる。ほとけさんを待たせたまま先にいただいてしまうことになり、申し訳ない。

旅館は須田剋太が描いたよりあと建てかわっているという。
前のほうが風情があったと。
前は旅館とうなぎ屋が同じ家だったが、うなぎの匂いがしすぎるので、通りの向かい側に店を建てたとのこと。たしかにうなぎが焼き上がる匂いはけっこうなものだが、泊まっていてあの香りがずっと部屋に漂ってきていたら、たまらないかもしれない。

絵にある手前から奥に向かう道は旧道。
絵の左にある「末広」の看板が見える左に、広い道が新しくできた。
旧道に並行していて、家並みと山並みの間をはしっている。
僕は、新しくできたほうの道の交差点が、絵にある交差点と思いこんで眺めていたから、絵と風景が同じにならなかった。
うなぎの店は、「末広」の看板と正対する位置、絵では左下にはみだしている位置に加えられた。
あとで店を出てみると、すぐ目の前に、絵で手前から右奥に向かっている道がある。家は建て替わっているが、道と家とその向こうの家並みの関係に「ここからだったか」と納得した。

松野町 うなぎ末廣 須田剋太『松野町』

須田さんは小柄で、こんがすりのようなのを着ていた。
描くのがはやい。
しゃかしゃかと(司馬)先生がしゃべっている間に描いてしまう。
みどりさんはウナギが嫌いで食べなかったという。

先生たちは、とっぽばなしをしよったとも言われる。
「とっぱばなし」とはどういうものかきくと、う~んと詰まってしまった。
ほら話だが、奇妙とか、でまかせとかのニュアンスも含んでいて、ひとことでは説明しにくいものらしい。
「とっぱ」は「突飛」のこととすれば見当がつく気がするが、「突飛話」が「とっぱばなし」に変換して定着するようなことがあるかどうか、語源の探索のようなことは僕にはわからない。

芝不器男(しばふきお 1903-1930)という人のこともきいた。
松尾町出身の才能ある俳人で、東大の入試に句が出題されたこともあるという。
夭折の画家とか詩人とかには親しみがあるが、夭折の俳人というのは、はじめて知った。
子規がいた松山だけでなく、こういう山中からも俳人がでるところが伊予の風土を思わせる。

「今度はうちに泊まるように」と笑顔で送られて店を出た。
ちょうど去りかかるタイミングにお茶をあげに出てきてくれて幸運だった。

* 松野町の中心部から西の山中に向かう。

■ 滑床渓谷

『街道をゆく』の文章では、最終的には四万十川を経て土佐に南下するが、松野という国境いの古い宿場で泊まることになっていると書かれている。
司馬遼太郎は、松野市街にある宿に泊まることになると予想していたように読めるが、実際はかなり奥にはいった渓谷ぞいにある「松野町の町立の青少年旅行村の宿」に泊まっている。
一行は大洲では「油屋」に泊まった。
思いがけない風情のある宿で、司馬遼太郎は 「これはよかったですな」と、予約した編集部のHさんにもらす。
そこにつづく文章で、Hさんは無頓着な人で、町の観光課に電話して宿の電話番号をきき、評判などを確かめるでもなくあっさりと決めてしまう、とある。
だから当たり外れがあって、大洲の宿は大当たりだったということだろう。

須田剋太『滑床渓谷』
須田剋太『滑床渓谷』

松野町の青少年旅行村は、渓谷を散策するなど、屋外体験を主目的にするようなところで、『街道をゆく』で泊まる宿にしては珍しいところだ。
Hさんは、宿の手配にあたり司馬遼太郎や週刊朝日を名のらず予約の手配をしていたというから、電話を受けた町の観光課が、松野にお泊まりならこちらへ、とすすめたのかもしれない。

* 南の土佐方向に走る。あいかわらず山中にいるが、目黒川の川原にそって眺めが開けている道に、目黒ふるさと館がある。

■ 目黒ふるさと館
愛媛県北宇和郡松野町大字目黒684-2 tel. 0895-42-1118(松野町教育委員会)

目黒山形模型が展示されている。
江戸時代、1665年に、吉田藩領と宇和島藩領の境界争いがあり、幕府に訴えるために土地の形状をわかりやすく模型に作ったもの。
1964年頃、建徳寺という寺が山形模型保存していることを松野町に報告した。
町では文化財に指定したが、2002年には県の有形文化財指定、2007年に国の重要文化財に指定となった。
寺にひっそりとあって世間には埋もれていたものが、どんどん出世したことになる。
今も建徳寺の所有物だが、目黒ふるさと館に預けられ、山形模型が保存されている蔵だけは有料区域になっている。

1978年の『街道をゆく』の取材で、一行は町の教育委員会の人たちに案内されて建徳寺を訪ねている。
まだ山形模型が寺にあったころで、寺ではこころよく承知してくれて、みんなで力をあわせて納戸から大きな木箱をかつぎだしてきた。
6分割されているものを箱から1つずつとりだし、組み立てると「畳3畳ほどの面積に堂々たる山々が盛り上がった。」と司馬遼太郎は記している。
須田剋太『宇和島藩吉田藩藩境争いの模型造型』
須田剋太 『宇和島藩吉田藩藩境争いの模型造型』

目黒ふるさと館に着くと、係の人が常駐して公開しているのではなかった。入口の案内板にある番号に電話すると、役場から車に乗って教育委員会の人が来てくれた。
蔵をあけると、かつて寺の納戸にあった模型は、中央に立派な展示台を作ったなかに置かれていた。
目黒山形模型

山や谷や川を正確に立体にし、地名が記してある。
家もかきこんであるが、おそらく実際どおりに四角一個が一軒だったろう。
模型をつくる技術の精度にも感嘆する。
江戸時代に四国の山中からこんな大きなものを運んだのかと驚かされる。
これほどのものを作って江戸まで運び訴えざるをえない境界争いの切実さも思いいたる。

* ここから司馬遼太郎と須田剋太の一行は(地図でいえば)右下に向かって高知県に入り、四万十市にでて、旅を終えている。
僕も高知県に向かうが、右上に走り、松野市街をもう一度通りぬけて、檮原(ゆすはら)にでた。

* 『街道をゆく』の「檮原街道」の地には前に来たことがある。(→ [はじめの旅-「檮原街道」])
このときは旅のついでに須田剋太が描いたところも見てみようというくらいで、今のように須田剋太の絵を中心にして動いていたのではなかった。
それで檮原で見逃していたところに行ってみようと思った。

檮原には隈研吾氏が設計した建築が多い。
前回は2010年に来て、その1つの雲の上ホテルに泊まった。
そのとき檮原の中心地でもう1つのホテルが建築中だったが、今は1階がまちの駅ゆすはらというみやげものを売る店、2階がマルシェ檮原というホテルとして開業している。
そこに予約をとろうとしたが、あいにく満室で、中心部からやや離れたところにある民宿に予約した。
電話したとき「津野山神楽の日なのをご存知ですか?」ときかれた。
『街道をゆく』の取材できたとき、一行は三島神社で食事と酒をふるまわれ、津野山神楽を見ている。
僕の今度の旅は、とくにそれを目指したわけではなく、民宿に予約した電話でたまたまあたっていたことを知ったのだが、運がよかった。
午後1時から夕方まであるというので、昼すぎ、できるだけ早く着きたいと走ってきた。

隈研吾氏の設計による役場の駐車場に車をおいた。神楽のある特別な日だから混雑するかと予想していたのだが楽におけた。
町役場に入って神楽についての様子をきこうと思ったが、きき方がまずかったらしく「祭はきのう終わった、だしもでてにぎわったが...」と、あとの祭に来てしまったかのように、気の毒そうにいわれる。
今日のかぐらのことはとくに気にしてないふうで、駐車場のあき具合からしても外から見にくるほど評判のものではないらしい。
マルシェ檮原が前後の日があいているのに、この日は満室だったから、神楽めああてでかと思ったのだが、そういうことではないらしい。


■ 三島神社の津野山神楽

三島神社へは屋根のついた橋を渡る。川風が気持ちよく吹いてくる。
露天の店がでている。
大阪道頓堀たこ焼、フランクフルト、伝説のからあげ、たいやき、くじびき、大盛りポテトなど。

須田剋太『檮原三島神社』 檮原三島神社
須田剋太『檮原三島神社』

戦後ほとんどすたれていた神楽を復興するために1948年に有志が津野山神楽保存会を結成し、当時ただひとりの伝承者から教えをうけてきた。
かつては舞い手は男性に限られていたが、伝統を維持するために今は女性も保存会に加わっていて、着いたときにはちょうど若い女性4人が舞っていた。
赤と白の衣装で、髪に黄色い花飾りをつけ、手には緑や紫の帯を持ち、カラフルで凜として美しい。

花米 次の『花米(はなよね)』だけは、神社の神官が舞う。
天地創成時の神々から全国にある小さな神祠にいたるまで花米を供えてひとびとの安全を祈るものという。

神楽は、本殿の中央の4本の太い柱に囲まれた区画で舞う。
東西南北の柱と中央に神がいて、5方向にそれぞれ同じ舞いを奉納するのが正式な舞いで、18演目を正式に舞うと8時間かかる。
今は3方向にして時間を短くし、午後1時に始めて4時間ほど。
左に演奏者が並んでいて笛や太鼓を奏でる。テンポが早く、ひざを手で打ってあわせたくなるほどにノリがいい。

四天 最後の舞いが『四天(してん)』。4人が剣をもって舞う。剣をはげしく振り回して迫力がある。真剣ではないが、そうとう重いものというから、踊るには力もいる。
舞い終えると4本柱の周囲で見ていた人たちが頭を垂れる。
4人の踊り手がその頭上を剣で祓って終える。

観客はほとんど地元の人たちだったようで、ゆるゆると散っていく。
橋を渡って戻るころは、もうだいぶ日が傾いている。
よいものを見た。

奉納されていた酒樽は高知の酒「司牡丹」だった。学生時代に高知に縁があり、仲間と東京四谷にあった「司」という酒場にしばしば行って「司牡丹」になじんでいた。ちょっと懐かしい。 司牡丹

* 前回、檮原にきたとき見そこねたところをたずねあてる余裕がないまま、民宿にはいった。

● 農家民宿 いちょうの樹
高知県高岡郡梼原町川西路1921 tel. 0889-65-0418

夕飯はいろりを囲む。
ほかに高知から水道工事にきて数日間泊まりこんでいる3人の男性が一緒だった。
食べているとカメラをかついだ人が現れ、TBSの取材とのこと。
財団法人都市農山漁村交流活性化機構が選定した「農林漁家民宿おかあさん100選」というものがあり、ここのおかあさんもそのひとりで、100人のなかからここを選んできたのだとう。
取材記者はひとりで来ていて、カメラを構えながら話しかけて応答されるのを撮影する。
台所にいって調理のようすを撮ったり、いろりの脇にきて客と話すようすを撮ったり忙しい。
(飛行機とバスを乗り継いで来て、3泊だか泊まりこみで撮影して、1週間ほどあと「あさチャン!」という番組で10分ほどに編集して放送された。NKKの番組で僕がレーモンドの建築をめぐる旅をしたときは、3泊4日+単独2日の計6日間撮影し、2か月近く編集にかけて、放送時間は45分だった。テレビ番組の制作には手間ひまがかかっている。)

きのうは「じんさい」で大勢の人がきたという話がでた。
「じんさい」は僕には耳慣れない言葉だが、まつりのことだった。
この日は勝手にやってくる人に食事と酒をふるまう習慣があり、夜中までに100人ほど来たという。
今はうけいれない家が多くなってきて、うけいれる家にはますます人が多く集まる。
(「じんさい」は「神祭」のことのようで、「神祭」はふつう「しんさい」と読むが、「じんさい」は高知県あたりのいいかたらしい。)

須田剋太が描いた神楽は「山探し」の舞い。
金山彦の使いの神が宝剣を探し歩き、みつけだして歓喜するまでを舞う。
ここのご主人が「山探し」を舞う人で、司馬遼太郎がきたときもご主人が舞ったという。
司馬遼太郎らのために酒と食事を用意し、舞いまでみせてくれた好意にこたえてという意味もあるだろう、『街道をゆく』の文中には津野山神楽保存会の人たちの名前が列記されている。
第五期生とされるなかに「上田和弘」とあるのが、おかあさん=上田知子さんのご主人のこと。
須田剋太『檮原神楽』
須田剋太『檮原神楽』

ご主人は、前夜の神祭で遅くなり、今日も神楽のあとの宴で飲んで、さすがにつぶれたらしい。
僕らはいろりのまわりでゆったり食事。
おかあさんの明るい笑顔にさそわれて酒が進む。
TBSの記者は、なかなか食事にしないでカメラを回している。
その間にご主人からおかあさんに迎えの要請があったようだが、取材中だからと遅くまで待たされることになった。

記者がようやくカメラを置いて食べ始めたのは3時間ほども経っていたか。僕はさきに部屋にひきあげたが、記者や工事の人たちはそのあと深夜まで飲んだらしい。
さすがに土佐。
翌朝、僕はとくに早起きしたわけでもないが、みんな深酒でつらい思いをしているようで誰にも会わなかった。
ご主人に話をうかがえなかったのがちょっと心残りだったが、絶好の日に来て、絶好の宿に泊まれてよかった。

いちょうの樹 檮原

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第6日 久万高原町~松山市
[久万高原町] 岩屋寺大師堂
[砥部町] 梅山窯
[松山市] 坂の上の雲ミュージアム

* 最終日は、高知県の山中の檮原から愛媛県に戻り、坂の上の雲ミュージアムで面会の約束があり、夜、松山空港から羽田行きの便を予約してある。
まず檮原から北に走り、地芳峠(じよしとうげ)を越えると、愛媛県に戻っている。
松山に戻る途中のほぼ通り道に、四国八十八箇所霊場の45番札所があって寄る。


■ 岩屋寺(いわやじ)大師堂
愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468 

この地域、岩屋は国の名勝で、そこに建つ岩屋寺大師堂は重要文化財。
大師堂は、火災で焼失たあと、1920年に新たに建った。
設計は愛媛県出身で大蔵省営繕管財局技手などを務めた河口庄一。
基本は伝統的仏堂建築だが、細部にそれと違う意匠をまぎらせた特異な建築というので、見たいと思っていた。
それに四国に来て、お遍路さんの宿にも泊まったのに、札所にまったく行ってないから、1つくらいちょうどいかなという気持ちもあって寄り道した。
ところが、さらっとすませるつもりだったのに、駐車場から大師堂まで20分以上の坂道だった。今は車で札所巡りするのに便利なように、どこにも駐車場があるらしいのだが、ここがいちばん駐車場から歩く距離が長い札所ということだった。

上がりきると大きな岩山を背にして寺があった。
大師堂は細部にいろんな型破りをひそませているが、いちばん目立つのが正面の向拝の柱。
双子柱で、しかも上部を細くしたエンタシス。
上部にバラの花と房飾りを彫り出しているのが、やわらかく愛らしい表情をつくっている。

岩屋寺 岩屋寺 バラの花と房飾り

* 久万高原町から三坂峠を越え、砥部町に入る。
2日目に砥部を通ったが、そのとき月曜日で休みだった梅山古陶資料館に寄る。
森陶房と同じように、坂の住宅街をいくつも角を曲がりながら上がって着いた。


■ 梅山窯
愛媛県伊予郡砥部町大南1441 tel. 089-962-2311(株式会社 梅野精陶所)

司馬遼太郎は焼きもののまち砥部で、旧友を訪ねたのだが、その前にタクシーの運転手に案内されて梅山窯を見学している。
当時も今も、受付に申し出れば工場内を見学できるようになっていて、密集した住宅街にしては広い駐車場があり、大きな直売店がある。

梅山窯の発祥の地らしい家も梅山古陶資料館として公開されている。

工場の受付で須田剋太の絵を見てもらってたずねると、「かつては、今、資料館になっているほうで作っていたので、そちらではないか」といわれる。
入ってみると、展示室にするために壁や天井や照明が加えられているが、ところどころのぞいているもとの壁に柱が並ぶ具合がそれらしくもある。

須田剋太『砥部焼工場』 梅山古陶資料館
須田剋太『砥部焼工場』

工場では、すべて手仕事だが、作業工程ごとに区画が分かれていて、効率的に作られているようだった。

* 松山市街に戻って、市役所地下の駐車場に車を置いた。
地上に出て歩き出したら食堂があって、ランチに入った。


● 二番町ステクル食堂
愛媛県松山市二番町4-5-4 tel.089-904-4919

伊予鉄が走る広い通りから1つ裏の道で、たまたま通りかかってはいったのだが、正解だった。
日替定食にすると豆腐ハンバーグで、豆腐ハンバーグは何度か食べたが、豆腐をハンバーグにすればまあこんなもんだろうという味ばかりで、こんなおいしいと感じて食べたのは初めてだった。
サラダや味噌汁なんかもついて500円。
松山市 ステクル食堂

着いた日に入った「やまとなでしこ」もそうだったが、なにげな店が手ごろでおいしくて、松山市民は幸福だとおおげさなことを思った。

店員さんも、あっさりとしていてあたたかく好感。
司馬遼太郎も『街道をゆく』でなんどか伊予のひとのあたたかさをいっている。宇和米博物館、開明学校、宇和島第一ホテル、坂の上の雲ミュージアムとか思い返してみても、ふたことみことのやりとりだけなのだが、人柄のやわらかさのようなものを感じた。
とくに気にしていたわけではないが、ふだん関東平野ではぶっきらぼうな人に囲まれているような気さえしてきた。

■ 坂の上の雲ミュージアム
愛媛県松山市一番町3-20 tel. 089-915-2600
https://www.sakanouenokumomuseum.jp/

初日にコーヒーブレイクにだけ寄ったミュージアムにあらためて入った。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』という、ただ1編の小説を基にしてミュージアムにしようという、おおもとの発想がすごい。
その発想を形にして、「明治」という時代や、「松山市」がどういうところかを見せ、司馬遼太郎の思考や交流もうかがえて、みごたえのある展示だった。

ホールで「須田剋太挿絵原画展第2回」をちょうど開催中だった。
今回は『街道をゆく』の「檮原街道」で、檮原で須田剋太が描いた挿絵の原画と、このミュージアムの学芸員が最近に撮影してきた現在地の写真を並べて展示している。

坂の上の雲ミュージアム 須田剋太挿絵原画展

昨年(2013年)秋に第1回原画展が開催され、そのときは地元の松山市をはじめ愛媛県を旅した「南伊予・西土佐の道」だった。
この原画展の発案者は、坂の上の雲ミュージアム館長の松原正毅氏。
第1回を開催したときのパンフレットにこう書かれている。

須田さんの原画は、いずれも強いタッチで描かれたものだ。それだけ、歴史の記憶が画面をつきぬけてせまってくる迫力をもつ作品群といえる。
 須田さんの没後四半世紀に近い歳月が流れた現在、その作品のなかに歴史の記憶を確認する作業が重要な意味をもってきている。異能の画家がひとつの時点で凝縮した風景を透して、さまざまな記憶が確実にひろがってゆくだろう。

このところ僕が須田剋太が描いた地をたどっているのは、まさに「その作品のなかに歴史の記憶を確認する作業」をしているといっていいだろう。
ビジュアルな絵をたどると、司馬遼太郎の『街道をゆく』の文章にはないことも見えてくることがある。
松原館長の言葉に、僕がしていることのあとおしをされた思いがする。

その松原館長が、昨年の第1回原画展のとき、洋画家の智内兄助氏と『須田剋太「街道をゆく」挿絵原画の魅力』と題した対談をされた。
できることなら内容を知りたいと思ってミュージアムに照会すると、文字にしてはいないが、DVDに録画してあるのを見ることはできるとのことだった。
オフィスのわきの作業スペースに大画面の機器を用意していただいてあり、DVDを拝見した。

松原館長は1981年に『街道をゆく』の「中国・江南のみち」に同行したのが須田剋太との最初の出会いのようだ。夜行列車の車中で顔を描いてくれて、ものすごいスピードで、あっという間に描きあがったといわれる。
現在地の写真とあわせて原画を展示する企画は、毎年やってゆきたいとのことで、心強く、楽しみだ。(とはいえ関東平野かから毎年見に行くのはなかなかたいへんではある。)
智内氏は、画家らしく須田剋太の線に注目している。時代の影響もあるが、内からでるエネルギーが線の強さになったろうといわれる。

原画展担当で、DVD視聴の便宜をはかっていただいた学芸員の石丸耕一さんにお会いし、愛媛県内で描いた絵でわからなかったかったところのことなどお聞きした。
ミュージアムショップで一六タルトをみやげに買って出た。

坂の上の雲ミュージアム

(このとき訪れたのがきっかけで、2016年と2017年の挿絵原画展では、挿絵の地の現在の風景としては僕が撮った写真がつかわれた。→ [坂の上の雲ミュージアム『街道をゆく』挿絵原画展 2016.2017])

* 松山空港の近くでレンタカーを返す。
19時30分発の羽田行きに乗る前に、空港のレストラン東雲で夕飯。
車の運転から解放されて飲む生ビールがうまかった。
闇のなかを飛んで羽田に着いた。


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参考:

  • 『街道をゆく 14』「南伊予・西土佐の道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1981
    『街道をゆく 27』「檮原街道(脱藩のみち)」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1986
  • 『坂の上の雲ミュージアム通信 小日本』第18号 2014年夏号
    『司馬遼太郎対話選集(5)アジアの中の日本』(文藝春秋)
  • 『「坊っちゃん」先生 弘中又一』 松原伸夫 文芸社 2010
  • 映画『坊っちゃん』 監督:前田陽一 出演:中村雅俊 松坂慶子ほか 1977
  • 『町並み・家並み事典』 吉田桂二 東京堂出版 1986
    『反骨の公務員、町をみがく-内子町・岡田文淑の 町並み、村並み保存』森まゆみ  1944円
  • 『宇和島市誌』 宇和島市誌編纂委員会 2005
  • 『自伝アントニン・レーモンド』三沢浩訳 鹿島出版会 2007
    『アントニン・レーモンドの建築』三沢浩 鹿島出版会 1998
    『A・レーモンドの建築詳細』三沢浩 彰国社 2005
  • 『プレミアム10 ザ・ロード~わたしの旅』NHK総合テレビ 2007.6.29 
  • 須田剋太と夏目漱石と弘中又一の関わりについては[ 桜の洛北、漱石の嵐山-「洛北諸道」と「嵯峨散歩」2] の「二軒茶屋」~「夏目漱石と須田剋太」の項
  • 前に檮原を訪ねた旅(2010年)については [はじめの旅-「檮原街道」]
  • 5泊6日の行程 (2014.10/26-31)
    (→電車 =バス -レンタカー ~タクシー …徒歩)
    第1日 [松山市]松山空港=「松山市駅前」…やまとなでしこ…正宗寺…松山城…愛媛県美術館・愛媛県立図書館…「市役所前」→「大街道」…坂の上の雲ミュージアム…「大街道」→「道後温泉」…道後温泉本館…道後館(泊)
    第2日 「道後温泉」→「松山市駅前」…石手川公園駅…松山市駅~バジェットレンタカー松山店-伊予豆比古神社-伊丹十三記念館-
    [砥部町]大森彦七供養塔-森陶房-
    [内子町]大瀬の館…大江健三郎生家-内子町立大瀬中学校-道の駅フレッシュパークからり-内子町図書情報館…内子座…商いと暮らし博物館…本芳我家…上芳我家…内子町図書情報館-月乃家(泊)
    第3日 …内子中学校-内子町図書情報館-
    [大洲市]肱川橋-大洲市役所…大洲城…油屋…おおず赤煉瓦館…郷土料理 旬…大洲市役所-
    [西予市]宇和米博物館-先哲記念館駐車場…開明学校・二宮敬作墓…元見屋酒店…愛媛県歴史文化博物館…先哲記念館-まつちや旅館(泊)
    第4日 …卯之町駅-オフサイトセンター-法華津峠-
    [宇和島市]宇和島市役所吉田支所…シルビア…旭醤油醸造場…河合太刀魚巻店… 宇和島市役所吉田支所-国安-和霊神社-天赦園…神田川・大村益次郎の住居跡-愛宕山-宇和島第一ホテル…木屋旅館…斉藤鮮魚店…石丸ふとん店…宇和島城…宇和島第一ホテル(泊)
    第5日 [鬼北町]鬼北町役場-
    [松野町]松野町役場-末廣-滑床渓谷-目黒ふるさと館-
    [高知県檮原町]三島神社-農家民宿いちょうの樹(泊)
    第6日 [久万高原町]岩屋寺大師堂-
    [砥部町]梅山窯-大森彦七供養塔-
    [松山市]市役所地下駐車場…二番町ステクル食堂…坂の上の雲ミュージアム-松山空港