桜の洛北、漱石の嵐山-「洛北諸道」と「嵯峨散歩」2


春、4月半ばに京都にいった。
これまで行ったことがなかった京都市北部の鞍馬とか高雄とかをまわる。
関東の平野では、すっかり桜の時期は過ぎたのに、都の北の山中はまだ花盛りで、思いがけず2度目の花見になった。
『街道をゆく』の「4洛北諸道」をたどって嵐山におりてくる。
嵐山では、「26嵯峨散歩」の地をめぐった。思いがけず夏目漱石も関わって須田剋太の若いころの面影が見えてくるような展開があった。

第1日 京都駅から高雄にあがって「洛北諸道」をたどる [鞍馬寺 花背峠 美山荘 大悲山峰定寺 常照皇寺 山国神社 もみぢ家(泊)]  
第2日 嵐山にくだって「嵯峨散歩」をめぐる [高雄山神護寺 栂尾山高山寺 御経坂峠 水尾・清和天皇社 嵐山(二軒茶屋 大悲閣 渡月橋 天龍寺) 車折神社 法輪寺 新都ホテル(泊)] 
第3日 京都市内を歩く [本願寺伝道院 建仁寺]

* 「嵯峨散歩」は前年の暮れに一部歩いたところがある。→[雨の嵐山-「嵯峨散歩」1]

第1日 京都駅から高雄にあがって「洛北諸道」をたどる [鞍馬寺 花背峠 美山荘 大悲山峰定寺 常照皇寺 山国神社 もみぢ家(泊)]

* 関東地方は雨模様で、新幹線の窓からは湿っぽい眺めがつづき、富士山も見えなかった。
京都駅に着くと薄ぐもりで、雨の心配はなさそう。郵便局の隣にある駅レンタカーの営業所で車を借りる。車種を指定しなかったら、軽のワゴンRだった。

京都の市街地を北に抜けて、しだいに道が細く、のぼり勾配になっていく。
途中に京都産業大学があり、そこに向かう学生が乗るらしいバイクが連なっていく。大学の前にはバイクがたくさんとまっていて、バスはがらがらで走っていた。
すっかり山中の道になって、鞍馬に着く。


須田剋太『鞍馬街道』 須田剋太『鞍馬街道』

● 多聞堂
京都市左京区鞍馬本町235

朝早く出てきたのでおなかがすいて、鞍馬寺への階段を上がる前に昼にした。
同行の妻がうどん、僕はそば。
そのほかに名物という牛若餅を食べた。栃の実をねりこんだ餅に「牛若餅」という焼印を押してある。1個120円。
牛若餅

『街道をゆく』の取材で司馬遼太郎、須田剋太ほかの一行がここを訪れたときはこんなふうだった。
「鞍馬寺に登りますか」
 と、辻に立って写生していた須田さんが、急にふりかえった。
私は石段を登りかけたが、しかしそのあたりがコマーシャルだらけでなにやら騒々しく、登る気がしなくなった。
(『街道をゆく 4』「洛北諸道」 司馬遼太郎。以下別にことわりのない御経坂峠までの引用文について同じ。)
実際に来てみると、山門あたりはコマーシャルだらけというようなことはない。石段の向こうから木々がおおいかぶさってくるかのようで、むしろひっそりしている。
当時とはようすが変わったのかもしれないし、坂道の苦手な司馬遼太郎が敬遠したのかもしれない。

■ 鞍馬寺
京都市左京区鞍馬本町 tel. 075-741-2003

細い山道を上がりきると、広々とした本殿前の庭に出る。
関東の平地では桜の時期はすぎているが、ここにはたくさんの花が枝に満ちている。最後の階段をのぼりおえて境内のはしに上がると、ほわっと淡い明るさにくるまれて、別世界に入ったような気持ちになった。

鞍馬寺

今は鞍馬寺は特別な霊気がこもるパワー・スポットということになっていて、本堂前には、さらにその期待にこたえるかのように霊気を集めるという五芒星が描かれている。

* 北に向かう。京都市左京区のうちなのだが、道を走る景色としてはしっかり山地になっている。
つづら折りの花背峠を越える。


■ 花背村別所

花背峠を越えると、道は沢に沿ってゆらゆらとくねっていく。
別所という集落があり、のどかでおだやか。
家々の屋根は大きいが、茅葺きから瓦などほかの材料におきかえられている。

須田剋太『花背峠花背村別所』 花背村別所
須田剋太『花背峠花背村別所』

* やがては若狭湾にいたる道を北上して、花背原地町というあたりで右にそれる。
あいかわらず細い道だが、ただの山道ではなくなって、峰定寺の影響圏に入ったふうに独特な雰囲気がある。
車の速度をおとして走っていると、するする、しずしずと結末に向かっているかのような印象がある。
道がつきあたった先が峰定寺(ぶじょうじ)で、すぐ手前に美山荘がある。


● 美山荘(みやまそう)
京都市左京区花脊原地町375

峰定寺にいたる道の左右に美山荘の建物がある。
もとは峰定寺の宿坊だった宿で、料理が名高く、料金も高い。
ここに泊まった司馬遼太郎は、
宿の夕食に出た料理はひどくめずらしく、強いて名づければ杣(そま)料理というべきものである。
近くの山野でとれるワラビやワサビや山椒の実やウドやフキを素材にしているのだが、
といえば東北や信州の山菜料理のようだが、そういう野趣はなく、調理法や食器、盛りつけぐあいなどはまったく京風で、千家の会席といった風趣がある。
と感心している。

ここではランチもあるのだが、僕らはここまで来ると昼にはやや遅すぎるという時間的問題に加え、わが身の生活レベルからすると高額すぎるという経済的問題も加わって、鞍馬寺の門前で麺ですませてきた。
道の左の建物から右の建物に料理を運ぶ人、逆の方向に器をさげる人がときたまあり、笑顔で軽くあいさつしてくれる。

須田剋太『美山荘庭』 美山荘
須田剋太『美山荘庭』

■ 大悲山峰定寺(だいひざんぶじょうじ)
京都市左京区花背原地町772

美山荘のあいだを抜けて寺の領域に入ろうとするところに簡潔な門があるが、閉じられていて、鍵がかかっている。
雨のときには入山不可ということは承知していたが、今は曇り空ながら雨ではない。
司馬遼太郎はこの寺を訪れたとき、寺の管理者に会っている。
(僧侶の)衣を着て坊主商売をしているひまなどはなく、この寺と行場の山を守るために一日中山道を上下しているのである。
と、この寺のすがすがしさに感心しているのだが、今もその姿勢にかわりはなく、今日は朝方雨もようだったから1日雨と見切って門を閉めてしまっているようだ。

しかたなく引き返す。
美山荘のあいだをまた通りぬけると、その先に門前茶屋がある。
たまたま庭でなにかの作業中だったご主人に妻が声をかけて話しだし、遠くから来たのに残念だったというような話しをしている。
峰定寺の人は今日は病院に行ったと言われる。今日が雨だと予想された時点でそうすることに決めたのだろうとのこと。
ご主人が寺あての宅急便をあずかっているから、届けるのにあわせて鍵をあけてあげようといわれる。

峰定寺に戻り、鍵をあけてもらって、中に入る。
右に川があり、流れの音が涼やか。

木の橋が架かっているあたりにもう1つ寺としての山門がある。 
そこに長い年月を経ているらしい高野槙(コウヤマキ)がある。
須田剋太が描いたところだ。
数年前の雪で上部が割れ、橋までかかるような具合に落ちたということで、残った幹の上に屋根をかけてある。剋太の絵とはすこし様子がかわっている。
須田剋太『大悲山峰定寺』
須田剋太『大悲山峰定寺』

山門の上には、崖にかけて舞台懸崖造りの本堂がある。
 前面にさまざまの形の峰がかさなりあって、遠景と近景のぐあいと言い、稜線による空の斫(き)られようと言い、須田さんがしばらく鑑賞していたが、やがて「一流の風景です」といった。(中略)
「こういう大空間に本堂を据えた最初の人の感覚というのは大変なものです」
 と、欄干から両腕を泳がせるような動作をした。

前夜の雨で山道がすべりやすくなってもいて、今日はそこまでは行けなかったが、須田剋太が描いた木を眺められたのはありがたいことだった。

* 477号線を西に向かう。
鞍馬から花背へ、北に向かう道は細く走りにくかったが、西向きの道に入ってからはだいぶ広く楽になる。
空は明るく、もう雨の心配はすっかりなくなっている。


■ 常照皇寺
京都市右京区京北井戸町丸山14-6 tel. 0771-53-0003

『街道をゆく』の取材のとき、司馬遼太郎はこの寺に入れるかどうか危惧していた。気むずかしい人が住職で、「観光にきた」といえば追い返すし、服装にもうるさいときいていた。「禅宗のお坊さんの世界には憂鬱な記憶がいくつもあって」あえて入らなくてもいいと思っている。
須田剋太は「僕はここのシダレ桜が描きたいのです」と入りたがっている。
方丈の土間には小さな鐘が吊してあり、用があれば鐘を3つたたくようにと書いてある。
「どうしますか」
「たたきましょう」
 と、絵を描く以外の行動はあまりしたことのない須田さんが、めずらしく木槌をとりあげて鐘をたたいた。
司馬自身は軽装だがすれすれOKとしても、須田画伯はいつもの「ナッパ服装」で、刑事から泥棒に見られたことが二度あるというほどの人。
断られるのを覚悟したが「まあいい」と、かろうじて許されて中に入っている。

僕らはどうなることかと思いながら寺に向かって走っていると、道路管理者が設置している公式の標識に「常照皇寺」の文字が表記してある。こういう案内標示があるくらいなら、オープンな姿勢に変わっているのかも。

着いてみれば、広い駐車場に大型観光バスが3台に、乗用車もずいぶんとまっている。わきには農産加工品を売るテントまででている。いよいよ審査なしに入れるふうに変わっていることが明らか。
それでも、「観光料」をとらないという姿勢は維持されていて、受付のところの紙に「志納料300~500円」とある。細かいのがなかったので、ひとり500円のつもりで、ふたりぶんとして1000円札をだすと、黙って400円のおつりをくれた。

たしかにみごとな桜だった。
あとで京都市街に戻ってから、京都の人に、常照皇寺から高雄あたりは前の週には桜見物で大混雑で、道も渋滞したときいた。
いちばんの満開の時期はわずかに過ぎたかもしれないが、枝に花はじゅうぶんにある。黒い地面に散った花もあり、そのために地面もぼーっと白く、明るく、眺めの全体が花に満ちている。

須田剋太『常照皇寺桜(A)』 常照皇寺の桜
須田剋太『常照皇寺桜(A)』

国の天然記念物の九重桜という桜もある。八重と一重が同じ枝に咲く珍しい桜で、近寄ってみてそのとおりにあるのを見つけた。
九重桜は今が盛りで、上のほうにはまだつぼみも残っている。
となりに寿命を終えた先代の木がオブジェのようにうずくまっている。
いい時に来た。関東の平野ではすっかり桜は終わっているので、京都で桜に出会うことなどまったく思いがけなかった。

司馬遼太郎と須田剋太が「まあいい」と許されて入ったのは9月のことで、桜は咲いていなかったが、このときの桜の木の印象はよほど強烈だった。
4年後の「播州揖保川・室津みち」の取材で室津の宿に泊まったとき、ほかにも花好きの同行者がいて花のことで盛り上がって、常照皇寺の桜も話題になる。
須田さんや私どもが行ったとき、冬枯れのころで、植木職のいう木(ぼく)しかなかった。ぼくは樹霊がふるび、信じがたいほどに長い歳月を懸命に生きつづけて全体が奇怪なこぶのようになっているというすさまじいものであったが、このぼくが春になると、天を鳴らし地を響かすかと思えるほどに多量のうつくしい花を噴き出すかと想像するのが、何よりも楽しかった。(『街道をゆく 9』「播州揖保川・室津みち」司馬遼太郎)


そして挿絵として、須田剋太が常照皇寺の満開の桜を想像して描いた絵が掲載されているほど。
須田剋太『常照皇寺の桜』
須田剋太『常照皇寺の桜』
「播州揖保川・室津みち」から

枝垂れ桜
山門を出ると、ぽつんと1本だけあるピンクの枝垂れ桜もみごとだった。
駐車場にとまっている観光バスのコース名を見ると「誰にも教えたくないヒミツの桜の隠れ里 常照皇寺 九重桜」とある。
これだけにぎわっていたらヒミツでも隠れ里でもないだろうと思うが、かつての入りにくかったころの記憶がまだひきずられているのかもしれない。

* 平坦な道を走る。
カーナビにしたがって左折すると、まっすぐな参道の先に神社がある。


■ 山国神社
京都市右京区京北鳥居町宮ノ元 1

477号線からそれて鳥居にまっすぐ向かう参道があり、付近が公園ふうになっている。
須田剋太が描いた『山国村山国神社』では、鳥居の手前が田になっている。
1972年の「洛北諸道」の旅よりあとに、このへん一帯が整備されたようだ。
鳥居にわら細工がぶらさがっている。
山国神社

* 桂川と並行して、477号線をさらに西に走る。
桂川に弓削川が合流するところに周山という街があり、そこから南に向きをかえる。
高雄に近づいたところで、山道のひとつの角を曲がると眺めがさっと広がって、山の斜面がいちめんにピンクなのが目に入る。
おおっと驚く。
ツツジのようだ。
まもなく、神護寺への降り口にある宿に着く。


● もみぢ家本館・高雄山荘
京都市右京区梅ヶ畑高雄 tel. 075-871-1005


部屋は3階で、さっき見てきたツツジの斜面が窓の正面にある。
長い階段を上がったさきにある貸切露天風呂にはいった。向こうの山にちょうど日が沈んでいった。すっかり暮れきったのではないから、まだ明るい。
もみぢ家からのツツジ

夕食の席では、窓の外にもみじがある。紅葉の季節はきれいだろう。
暗くなると照明がついた。
素材をいかしたすっきりした味つけが僕には好みだった。

夕飯もよかったが、森嘉の湯豆腐もついた朝食がちょっと感動的においしかった。ありきたりでなく、手をかけていて、過剰でもない。
いい気分で1日が始まる。

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第2日 嵐山にくだって「嵯峨散歩」をめぐる [高雄山神護寺 栂尾山高山寺 御経坂峠 水尾・清和天皇社 嵐山(二軒茶屋 大悲閣 渡月橋 天龍寺) 車折神社 法輪寺 新都ホテル(泊)] 

* 車を宿に置かせてもらったまま、神護寺と高山寺に行った。

■ 高雄山神護寺
京都市右京区梅ヶ畑高雄町5 tel. 075-861-1769

宿のわきの階段を、いったん川まで下り、橋をわたってまた対岸に登ったところにある。
途中に、料亭や、席を設けた小屋がいくつもあるが、紅葉の時期のためのものか、今はみんな閉まっている。
広い境内は、よく掃かれていて、すがすがしい。
見覚えがある源頼朝の肖像画を所蔵している。

■ 栂尾山高山寺(とがのおさんこうさんじ)
京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8 tel. 075-861-4204

また川まで降り、川に沿った道を歩いて高山寺につく。
天皇が僧にプレゼントした学問所、石水院は国宝に指定されている。
鳥獣人物戯画を所蔵している。頼朝の肖像画といい、あれはここにあったのか、というたいそうなものが、このあたりで次々に現れる。

* 宿に戻って車に乗る。
『街道をゆく』の「洛北諸道」は、神護寺や高山寺には寄らずに、御経坂峠で終わっている。


■ 御経坂峠

司馬遼太郎が御経坂峠に寄ってみようと思ったのは、歴史的事件に関わってではなく、私的な思いに関わっていた。
司馬遼太郎の妻の祖父は尼崎で材木屋をしていた。
高雄あたりまで杉材を仕入れにきていて、ここの女性を好きになる。女性にはすでに嫁ぎ先が決まっていて、婚礼の日が迫っていたのだが、御経坂峠で待ち伏せ、花嫁行列にあばれこんで花嫁をさらった。それが司馬遼太郎の妻のおじいちゃんとおばあちゃん。
「ああ、そういう由緒ですか」
 須田さんはがっかりしたように峠の上で車を降り、道路を横切って土手の上にのぼった。
と須田剋太は素っ気なかった。

僕らが御経坂峠にかかった日は、道路工事で片側交互通行になっていた。
高雄から京都市街に向かう車は少ないが、反対側は、土曜日の午前中でこれから高雄方面に観光に向かうらしい車でかなりな渋滞になっている。峠の上で車をとめていられるような状況ではなく、降りるのは諦める。
須田剋太が描いた峠の絵は、のどかなふうだが、今は速い速度で車が走り抜けそうな道になっている。

須田剋太『御経坂峠』 須田剋太『御経坂峠』

『街道をゆく』の「洛北諸道」はこの御経坂峠で終わる。

     ◇     ◇

ここからは「嵯峨散歩」 になる。
半年ほど前に一度来たのが、ちょうど嵐に重なってしまった。天龍寺で湯豆腐を食べ、松尾大社に寄っただけで、大阪に出てしまった。

→[雨の嵐山-「嵯峨散歩」1]

今日はそのとき行きそこねた保津峡、嵐山あたりをまわる。
車を走らせ、いったん嵯峨野にくだってから、保津川に沿う山道に入る。
対岸はトロッコ列車が走る嵯峨野観光線が並行している。
司馬遼太郎は「巨岩絶壁相対する」と書いているが、そのとおりに、とても狭い、たいへんな道だった。
右は崖が切り立っている。左は保津川へ下る崖で、安全のためにがっしりしたガードレールがずっと続いている。両側をかちっと堅いものにはさまれているふうで、とても窮屈。
僕はかつてはひんぱんに山登りしていたことがあり、登山口に向かう狭い山道をずいぶん走った。でも山道でも、途中に待避所があったり、ふくらんだ路肩だの、木々の間だの、対向車があってもなんとかすれ違える。ところがこの道はそういう余裕がなかなかない。対向車がきたら、どちらがどこまで戻るのか、そうとうしんどいことになる。
ひやひやしながら走ったが、なんとか危機的出会いはなしに抜けられた。
借りているレンタカーが幅の狭い軽自動車でよかった。
保津峡駅が左に見えたところで、道は保津川を離れて右へ(北へ)向かい、ふつうに山里をいく道(といってもかなり狭いが)になる。
川沿いの道から離れたとき、大きく深呼吸する思いだった。

水尾の集落の入口に、自治会が設けた数台分の駐車場があり、無人の小屋に置かれた箱に駐車料500円をいれる。
そこはマイクロバスの発着所にもなっていて、JR保津峡駅とのあいだに1日往復5便の運行がある。次に来る機会があったら電車とバスを使うことにしよう。


■ 水尾・清和天皇社
京都市右京区嵯峨水尾清和

水尾には、とてものどかで心地よい山里の風景がひろがっている。
細い道はどれもゆるやかな坂になっている。その両脇に畑があり、家が点在している。


司馬遼太郎一行が訪れたのは12月初旬で、車から降りるとマーマレードの匂いがしたというほどのユズの季節だった。須田剋太の絵にたくさんの黄色があるのはユズだろう。
こういう絵ではよくするように、小さく切った黄色い紙片を撒くように貼りつけてある。
須田剋太『水尾(A)』
須田剋太『水尾(A)』

ユズの樹のあいだには南天が赤い実をつけていた。

南天(なんてん)も多く見られるのだが、 正月の需要を待つようにしてそろって赤い実をつけている。その赤さが、燭(しょく)をともしたようであった。(中略)
 燭といえば、柚の実も、だいだい色にともる燭のようである。村ひとつを、黄と赤の燭がつつんでいて、そのはるかな下に、保津峡へ落ちる支流の音がきこえている。(『街道をゆく 26』「嵯峨散歩」 司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)

「燭をともしたよう」という表現がすてき。
このあと、やや暗い背景から点々と花や実が浮きあがって見えるたび、その表現を思い浮かべるようになった。
僕らが水尾に行ったのは4月半ばで、ユズも南天もなかったが、夏みかんが実をつけていた。

ここには清和天皇(850-880)をまつる清和天皇社がある。
30年ほど生きたきりで亡くなった薄命のひとで、この地を気に入っていた。水尾で生涯を終えたいと願い、山寺を建てようとしたが、完成前に亡くなった。没後、水尾の人たちは、この地を愛でた天皇を祭神とする一社を建て、1000年をこえて護持していると、司馬遼太郎は清和天皇と里人の敬愛しあう関係をいとおしむように讃美している。

清和天皇社に向かう途中、石垣の前で作業しているひとに道をたずねた。
そこからすぐ先の坂を上がったところに小学校があり、その先だと教えられた。
たずねた相手は30代か40代くらいの女性で、石垣に向かってなんの作業をしているのかきいてみた。まもなく5月3日にお祭りがある、久しぶりに帰ってくる人もあり、迎えるために里をきれいにしている、石垣についたコケや雑草も取り除いているのだといわれる。
5月3日のお祭りというのは、清和天皇社例大祭のことで、なるほど今もこのように歴史が続いているのかと、水尾の暮らしぶりの一端を見た思いがした。

教えられたすぐ先の角に立ってみると、ちょうど須田剋太が絵を描いた場所そのものだった。
このあと坂を上がっていくと、絵の中央奥にある白い建物が小学校だった。

須田剋太『水尾(A)』
須田剋太『水尾(A)』

水尾小学校付近

 水尾の山峡(やまかい)には、立体感がある。
 道路の下に屋敷があり、さらにその下にも屋敷があって、見おろすと瓦屋根がうつくしい。もう一つ下にも屋敷があって、道路上からのぞくと、木(こ)の間(ま)がくれに細い林道がほの見える。(中略)
 それらの立体景観をつつんでいるのが、柚(ゆず)柚とシキミと南天(なんてん)という常緑の樹々なのである。

上の須田剋太『水尾(A)』は下から見あげる構図だが、その立体感がよく表現されている。

     ◇     ◇

水尾への旅は司馬一行が1984年、僕らは30年後の2014年だったが、その後の2016年6月5日の日本経済新聞の見開き2面の大きなスペースに『司馬遼太郎-異端へのまなざし』が掲載された。
文章を書かれたのは編集委員の中沢義則さんだった。
前に『街道をゆく』の挿絵の地をたどっていることを同紙に紹介していただいたことがあり、そのときお世話になった。(2015.11.18掲載。その記事の準備のためお会いしたときが初対面だったが、共通の知人がいて、なごやかにお話しできた。)
2016年の司馬遼太郎についての文章を書く前に、縁の深かった須田剋太についてもふれたいということで、中沢さんから連絡があり、またお会いした。
あれこれ話しているうち、須田剋太の絵を掲載したいが、どれがいいだろうかという話がでた。
須田剋太の全体を概観する意味で、具象画1点、抽象画1点、『街道をゆく』から1点がふさわしいかということになった。
それで具体的な作品として僕が考えたのは、作品(画像)の借りやすさも考慮して、次のようだった。
具象画としては、モンゴルの風景。
これは『街道をゆく』で訪れた地なのだが、その星空を見て幼ないころを思い出し、深い感銘をうけ、『街道をゆく』の挿絵だけでなく、その後に油彩画でもいくつか描いたほどだった。ほかに『街道をゆく』の挿絵が候補としてあるので、これも油彩画ではなく、大阪府所蔵の挿絵原画を借りることとして具象画の代表とする。
抽象画としては、『私の曼荼羅a』。赤い円2つが画面を占めて、抽象画のなかでもインパクトがつよい作品だし、僕がかつて勤務した埼玉県立近代美術館所蔵なので、依頼しやすい。
そして『街道をゆく』から選んだのが、『水尾(A)』だった。
がしがしと引いた強い線が生み出す高低差のある風景。
道の中央を降りてくる白い猫(?)がゆったりした暮らしを感じさせもする。
有名すぎないが魅力的な土地であるのもいい。
僕がすすめたままに中沢さんが決められて、その3点が新聞の1ページにレイアウトされてのった。
僕の好みの作品をそろえていただいたようなもので、この日の新聞は」たいせつにとってある。

     ◇     ◇

清和天皇社への上がり口
小学校の狭いグランドを抜けた先からわずかに坂をのぼると清和天皇社がある。
社殿に上がる階段の上がり口が桜に包まれていた。

社殿は簡素で、それが早逝の天皇と静かな山里にふさわしい感じがした。

 須田剋太『水尾の村』 清和天皇社
須田剋太『水尾の村』 清和天皇をまつる社殿の正面(写真では左)に小屋がかかっているのは、あとから加えたもののようだ。

* 同じ道を戻って嵐山に向かった。
今度は右に保津川が流れている。
保津川と崖に挟まれた道にもいくらか慣れて、往路より気持ちに余裕ができて走り抜けた。
「巨岩絶壁相対する」沿道の景観を経て嵐山に降りたとき、短い夢を見ていたような思いがした。
僕も同じように、外部の人を近づけにくくした難路の先の桃源郷を訪れてきたような気がした。

■ 保津川下り/ブルーノ・タウト

須田剋太(1906-1990)とならんで僕が関心をもっている人に、ほとんど同時代を生きた井上房一郎(1898-1993)がいる。群馬県高崎市で建設会社を経営しながら、群馬の文化振興の基礎を築いた人。
ナチスのドイツから逃れてきたブルーノ・タウトの日本滞在中の世話もした。
そのタウトの日記の1934年5月11日には、保津川下りをしたことが記されている。
碧い川波、相迫る両岸は鮮やかな新緑に蔽われている。赤い椿、燃えるような躑躅の花、ライラック色の藤、-絶景だ!山鶯の囀り、さまざまな調子で鳴く蛙。眼、眼!(『日本 タウトの日記』ブルーノ・タウト 篠田英雄訳)
もし時間がとれそうなら保津川下りの船に乗ってみたかったのだが、それほどの時間はなくて諦める。

* 嵐山に降りる。
ときおりハイカーを見かけるくらいだった水尾と違って、たくさんの観光客がいる。
あいている駐車場を見つけて車を置き、渡月橋の近くの店で昼を食べる。
きのう鞍馬では、妻がうどん、僕がそばだったが、今日は妻がそば、僕はうどんだった。
渡月橋の南がわ、保津川の右岸を上流に向かって歩く。
川岸に茶店がある。


● 二軒茶屋

司馬遼太郎一行は川沿いの道を歩いたとき、オデンの屋台に寄り道している。
屋台は路傍にあり、客席はそれより降りて瀬ぎわの平床几(ひらしょうぎ)だった。そばに、水でまるくなった岩場がうねっていて、その上に五、六点の濡れた下着が置かれていた。
「身投げでもあったんですか」
 と、須田画伯はゆるゆると老婦人にきいた。身投げがあれば、いくらこの老婦人ものんきにオデンを煮ていられまい。
「あれは私の干しものどす」
「そう」
 画伯はオデンを食べはじめた。
ここのところは読むたびに、つい笑ってしまう。

須田剋太『千鳥ケ淵』
須田剋太『千鳥ケ淵』

 店の名は、むかしから二軒茶屋というのだそうで、いつのほどか一軒だけになった。
とあるが、今はその一軒もなくなって、かつてそういう茶屋があったと記した札が道端の木にかかっていた。

二軒茶屋はなくなったが、渡月橋から大悲閣のあいだには今もいくつか茶店がでている。 保津川の茶屋

■ 夏目漱石と須田剋太

茶屋の屋台でオデンを食べているときに、須田剋太が「漱石がここにきています」といった。
漱石のそのときの経験が、『虞美人草』の一節になっている。 主人公たちが川を下っているとき、客をおろした船を、船頭が岸辺の道からロープでひいて上流の乗船地までひいていくところに出くわす。
急灘(きゅうなん)を落ち尽くすと向から空舟(からぶね)が上ってくる。竿も使はねば、櫂(かい)は無論の事である。岩角に突っ張った懸命の拳(こぶし)を収めて、肩から斜めに目暗縞(めくらじま)を掠(かす)めた細引縄に、長々と谷間伝ひを根(こん)限り戻り舟を牽いて来る。(『虞美人草』夏目漱石)
こういう文章を突然、須田剋太がぶつぶつと諳(そら)んじはじめて、同行者たちを驚かす。
大正時代、埼玉県の旧制熊谷中学の読本に出ていたそうである。
「池本先生が」
 と、須田さんは、私どもの周知の人名のようにいった。
「国語の先生で、漱石の大(だい)のファンでした。これはただの文章じゃない、みな襟をただして読め、というから、みな憶えてしまったんです。」

旧制熊谷中学、今の熊谷高等学校は、僕の母校でもある。
僕らが在学中の国語の先生は、池本先生からずっと後輩にあたる船戸安之先生だった。
授業のとき、船戸先生が佐渡金山の水替無宿の墓を訪れたときに作った自作の詩をきかせてくれたことがあった。
それから40年以上経った去年の秋、『街道をゆく』の「佐渡のみち」をたどって佐渡の水替無宿に行ったとき、わきに立つ解説の案内板に船戸先生の詩の一部が引用されていた。
長い年月を経て詩を覚えていたことに驚いて、船戸先生の詩の原文を探したことがある。→[はるなか佐渡] 

そんなことの経過を報告するのにあわせて、この京都の旅から帰ってから熊谷高校の同窓会の事務局に行き、古い名簿を調べてもらった。
 [池本正頴 大正7.4-大正12.3 国語]
とあるのが、「池本先生」だろう。
名簿は異動や退職で学校を去った順に並んでいるが、数行上に
 [弘中又一 明治33.4-大正8.3 数学]
とある。
弘中又一は、熊谷中学の前の勤務地が愛媛県の松山中学で、漱石と同僚であり、『坊っちゃん』のモデルとなった人。
大正7年度は、熊谷中学で池本先生の最初の年であり、弘中先生の最後の年と重なっている。
池本先生は、弘中先生をとおして漱石についての理解を深めたことがおおいにありうる。

須田剋太が熊谷中学に入学したのは、弘中先生が京都の同志社に移ったあとの大正9年4月で、昭和2年3月に卒業した。
そのうち大正11年から3年間は病気で休学しているから、池本先生に教わったのは大正9年と10年の2年間か、どちらかの1年間ということになる。
弘中先生が国語の池本先生に漱石のことを話す。
池本先生は授業で漱石をすすめ、青年・須田剋太がいっしょうけんめい漱石の文章を覚えようとしている。
須田剋太の「池本先生が」というひとことと、それを司馬遼太郎が記録しておいてくれたおかげで、100年ほど前の母校のおもかげがうっすら思いうかんでくる。

熊谷高校の同窓会の事務局で、昭和2年(1927年)の須田剋太の卒業時のアルバムを見せてもらった。
「埼玉県立熊谷中学校 第28回卒業生写真帖」とある。
判型は小ぶりで横長。
校長ひとりの写真、校舎の写真、職員一同の写真(職員名はない)のあとに、卒業生の写真と名前だけが並ぶ。

校舎の写真。
尖った塔は理科棟だったという。
僕が通ったころにはなかった。
熊谷中学校の古い校舎

1ページに8人の写真がならんで、16ページ、最後のページだけ7人で、総数127人。
氏名の文字は印刷されているが、顔写真は印刷されていない。
それだけの人数の楕円形の空白に、楕円形の写真が1枚ずつ貼りつけてある。

おもしろいのは並びの順序で「卒業生(トリナ)順」とある。
50音順やイロハ順のほかに、トリナ順などというものがあることを初めて知った。1903年に万朝報(よろずちょうほう)という新聞社が、新しいいろは歌を公募して1等に当選した「とりなくうた(鳥啼く歌)」のことという。
 トリナクコエス ユメサマセ 
 ミヨアケワタル ヒムカシオ(ヲ)
 ソライロハエテ  オキツエニ
 ホフネ ムレイヌ モヤノウチ
鳥鳴く声す 夢覚ませ
御世明け渡る 東を
空色映えて 沖つへに
帆船 群れいぬ 靄のうち
イロハにはかなり濁音が混じっているが、トリナはほとんど清音で無理がなく、意味もとりやすい。20年ほど後の公立中学校の出版物に採用されるほどに普及していた(生き残って使われていた)ことになる。
写真帖では、そのとおりに、戸田、中田、栗崎、小林、須藤-というふうに並んでいる。

須田剋太はきりっと学生服を着て、胸ポケットから白いハンカチがのぞいている。
男子ばかりの学校で、ほとんどが学生服だが、数人は着物を着て写っているような時代だった。ほかの学生たちがいかにもその時代の田舎の青年らしい風貌なのに比べ、須田剋太は、表情も、学生服の着こなしも、スマートで都会ふうに見える。襟元に白いカラーをのぞかせているが、こういうものをしているのも数人だけ。
(名前は須田剋太を名乗る前なので本名の須田勝三郎になっている)
須田剋太の中学卒業アルバムの写真

『街道をゆく』で司馬遼太郎が書いた須田剋太は、しばしばおかしい。世間のファッション感覚から浮いた服を、場所にも季節にも関係なく着とおした。言葉は長く関西に暮らしているのに、熊谷あたりの無骨なイントネーションを貫いた。
でも若いころはなかなかダンディで、ちょっと意外な気がする。

● 星のや京都(もと嵐峡館)
京都市西京区嵐山元録山町11-2 tel. 075-871-0001

右岸をさかのぼる道がつきあたるところに宿がある。
 路傍より下の崖に、料理旅館があり、嵐峡館とあった。二十年ほど前、この旅館にきたことをおもいだした。そのとき、右岸を歩かず、渡月橋からいきなり舟でここへきた。
今は嵐峡館の名はなく、全国で老舗旅館の再生を手がけている星野リゾートにより、2009年から「星のや京都」になっている。渡月橋のたもとから送迎の舟が往復しているのは今も同じ。

手前が星のや京都の船着き場。
向こうを保津川下りの舟が過ぎていく。
星のあ京都の船着き場

* 星のや京都の入口前から、左へ折れて石段を上がる。

■ 大悲閣
京都市西京区嵐山中尾下町62 tel. 075-861-2913

上がりきると崖からせりだして大悲閣がある。
眼下を保津川が流れている。
対岸のこんもりした緑の向こうに京都市街が広がっている。
市街より春が遅く、大悲閣のあしもとの木がさわやかな緑色をしている。
ここ2,3日でようやく新緑が芽吹いたところという。
大悲閣

室内に角倉了似の木像がある。
遠目には仏像のようだが、手にしているのは石割斧で、工事につかう太い綱を巻いた上に座っている。
角倉了似は保津川(大堰川、桂川)を水運につかえるように整備した人で、大悲閣はその工事で亡くなった人を弔うために創建したもの。

須田剋太『大悲閣上にある角倉了似の木像』 大悲閣にある角倉了似の像

左の絵が須田剋太『大悲閣上にある角倉了似の木像』。
『街道をゆく』の取材時には、工事中だったために石段の途中で引き返していて、ここまでは上がって来れなかった。写真をもとに描いたようだ。

『街道をゆく』の一行が渡月橋付近に戻ったところで、大悲閣の僧に出会っている。
やっと渡月橋の南畔ちかくまできたとき、むこうから品のいい老僧が、新聞の束をかかえてやってきた。(中略)近づいてあいさつすると、老僧は当方まで誘いこまれるようないい笑顔で腰を何度もかがめ、ふところをさぐって名刺をとりだそうとした。

今の住職、大林道忠さんは、一転してわかわかしく、活動的。
渡月橋からここまでの川沿いの道に大悲閣へ誘う看板がいくつもあったのは、住職の手書きのもの。


渡月橋あたりは人混みなのに、川をさかのぼる道を歩く人はまばらだった。維持費を得なくてはならない事情があるのだろう、なんとか人を招くように、「京都一絶景」とか「The Best in Kyoto <GREAT VIEW>」とか、英文やら略地図までくわえて、元気のいい看板を作って立ててあった。
僕らが寺に着いたときも、お堂のまえの屋外に大きな机を置いて図面をひろげていて、工事の現場事務所のような雰囲気があった。
住職の手描きの大悲閣看板

■ 渡月橋

保津川に沿った道を渡月橋まで戻る。
 渡月橋は、古来、嵐峡という自然の造形をひきしめてきた人工の部分である。部分としてのたしかさは日本の風景のなかでも比類がない。

須田剋太『大堰川 渡月橋』
須田剋太『大堰川 渡月橋』

■ 天龍寺
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 68 075-881-1235.

天龍寺に入る。
須田剋太は、大方丈の、池に面した側を描いている。

 須田剋太『天竜寺』 天龍寺
須田剋太『天竜寺』

天龍寺には奥まで広い庭があって、花盛りだった。

* 嵐山駅から京福電気鉄道嵐山本線の電車に乗る。
3つ目の車折(くるまざき)神社駅で降りる。
駅に架かる屋根や柱まで、神社の朱色をしている。


■ 車折神社
京都市右京区嵯峨朝日町23 tel. 075-861-0039

駅前からすぐにはじまる参道を歩いていくと車折神社があるが、その先の境内に芸能神社という末社があり、そちらの眺めにビックリ。
「芸能・芸術・技芸・人気運の神様」で、芸の向上と人気を願う人が奉納した朱塗りの玉垣がずらっと並んでいる。

眺めていってたまたま目にとまったところでは、観月ありさ、押切もえ、はいだしょうこ、五木ひろし、林家三平なんていう名前がある。辺見まり、辺見えみりと、親子で並んでいるのもある。知らない名前のほうが多いから確かではないが、芸術や技芸の人より、圧倒的に芸能の人が占めているようだ。 車折神社/芸能神社

宝塚歌劇団とか、○○プロとか、組織でまとめて奉納していらしいるのもある。
奉納料1万円で期間は2年とあるから、ずっと売れ続けているには、2年ごとに更新しなくてはならない。
それでもたいへんな数の玉垣があって、駐車場の塀や、駐車場の中の植え込みを囲む柵まで朱色の玉串で囲われている。

『街道をゆく』の嵯峨散歩では、ここが最後の訪問地だった。
司馬一行は松尾大社に長い時間いて、たいそうりっぱな神社なだけ窮屈な思いにもなってきていて、息抜きのような感じで訪れた。
この嵯峨散歩の最後をすこしあでやかに終わりたいとおもったからである。(中略)
 境内に入ると、思わぬいろどりに、須田画伯が足をすくませてしまった。
「いやな色ですね」
 といったが、私はむしろ車折神社の境内の色調はわるくないとおもっている。画伯に、神社といえば森厳(しんげん)なものという先入主があったためではなかろうか。参道の両側は、赤い。板製の玉垣のせいなのだが、つかわれている朱は、上辺を黒でおさえているために決して下品ではない。
 須田さんもすぐ馴れたようで、石畳の上をポクポク歩きつつ、名をいちいちのぞきはじめた。
須田剋太も名前を見ていて「ああ、あの人だ」と思いあたる芸能人がだれかいたかどうか。

* また電車に乗って嵐山駅に戻る。
渡月橋を南に渡って、法輪寺に入った。


■ 法輪寺
京都市西京区嵐山虚空蔵山町 tel. 075-862-0013

司馬遼太郎は、空海の思いへの推測をまじえて法輪寺の成立を簡潔に記している。
奈良朝のころ、嵯峨は草深いいなかに過ぎなかったが、平安朝になると美しい山水の地として意識されるようになる。「よき山水に対しては人工を加える」という中国の美意識にしたがい、空海が対岸の峰に塔か堂を加えて景観のアクセントにしようと思い立ち、弟子の道昌(どうしょう)にゆだねて法輪寺を建立させた。寺を参詣するための橋が架けられ、当初、法輪寺橋といわれ、のちに渡月橋となった。
『街道をゆく』の取材時には、そうした嵐山や渡月橋の歴史を説明するために法輪寺が登場するが、実際に寺には行かなかったようで、須田剋太の絵もない。

ここには保津川下りのあとブルーノ・タウトが訪れ、1934年5月11日の日記に記している。
 保津川沿いに亀山公園を通りぬけて法輪寺(嵯峨虚空蔵)に行く。寄付者の名札のなかに『金三百圓也 下村正太郎殿』と記した牌もまじっていた。京都の子女は十三歳になると、桜の季節にこの寺へ参詣して、やがては端麗な容姿と綺麗なキモノとを授かるようにと祈るのである。(『日本 タウトの日記』 ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975)

そんなこともあって、僕らは渡月橋を渡って法輪寺に行った。
十三参りというのは関東に住む者にはなじみがないが、京都では七五三よりふつうのものらしい。お参りは4月13日だが、僕らが行ったのは4月19日だった。それでも13日に都合がわるかったかしたのか、ちらほら晴れ着を着た子を見かけた。
タウトの日記にある下村正太郎は、京都の大丸の経営者で、ナチスのドイツから逃れて日本にきたタウトを世話するパトロンのひとりだった。
文中の「牌」というのは、石に刻んだようなパーマネントなものではなかったのか、気をつけながら歩いたのだが見つからなかった。

高い位置に舞台があって、京都市街を広々と見渡せる。
大悲閣と、ここと、こういう景色を期待していなかったところで次々に大展望があって、とくをしたような気分でもあった。
正面に渡月橋を見おろす。さらに右の方には京都中心部が広がっている。
法輪寺からの展望

* ずいぶん歩いたので、駐車場に戻る途中で見かけた店にコーヒー・ブレイクに入る。

● 蓼(たで)
京都市西京区嵐山中尾下町32-3 tel. 075-882-4868

嵐山だからといって和風ではなく、遠い国のどこか静かな通りにあるふうな、主張しすぎないデザインで落ち着く。
コーヒーとミニケーキのセット。
長く歩いた疲れと、いろいろなものを見た興奮が静まる。
嵐山のカフェ蓼

* 京都駅前まで戻ってレンタカーを返す。
八条口からすぐにあるホテルにチェックイン。


● 新・都ホテル
京都市南区西九条院町17 tel. 075-661-7111

観光のピークの時期ではないが、チェックインを数人の人が受けているのに、それでもちょっと待つほどに客が多い。
中庭をみおろす6階の部屋に入った。

* 外に食事に出る。
四条通を歩くと、大丸京都店の外側が白く囲われていた。中はふつうに営業していて、外装だけの工事らしい。
とおりかかった居酒屋に入る。


● 清水家錦
京都市中京区烏丸錦小路西入ルスグ南側 tel. 075-212-1271

魚系や焼き鳥も美味だが、野菜もおいしかった。
おつまみキューリは小どんぶりにごろごろ入っている。さっぱりしていいので、しばらく飲んだあとに、もう一度これを注文した。
たけのこ醤油焼きは、皮をつけたまま焼いてあって、ぺりぺり剥がして食べる。ダイナミックで香ばしくうまい。
どれもたっぷりな量があるが、最後にたのんだおむすびも重いほどに大きいし、もりそばもたっぷりの盛り。
生ビールに冷酒に焼酎と飲んでいって、たっぷり満ちたりてふたりで5500円だった。

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 第3日 京都市内を歩く [本願寺伝道院 建仁寺]

* 新・都ホテルに荷物をあずけて出る。
JRの高架線を堀川通でくぐって北に向かう。
「天使突抜(てんしつきぬけ)」というかわった町名のところに、通崎睦美さんという、マリンバと木琴の奏者のお宅がある。小さいころ、京都大丸の新年の企画で数人の画家が希望者の肖像画を描くというものがあり、10年を越えて須田剋太に描いてもらっていた。お姉さんもいらして、ふたりあわせると二十数枚になるとても珍しい作品群で、それを見せていただきに行く。

油小路にそれて細い道を歩く。
本願寺のあたりで「法衣店」という看板を見かけた。「仏具店」は京都でなくても他にあちこちで見た覚えがあり、買い物もしたが、「法衣店」は初めてで、しかもいくつもある。僧侶だけでなく、ふつうの家でも仏事のときに「法衣」をつけるものだと、京都に暮らしたことがある人にあとできいた。



■ 本願寺伝道院

京都市下京区東中筋通正面下ル紅葉町

小さな家が並ぶなかに、煉瓦造りの建築があった。本願寺伝道院で、前に立つ案内板に、伊藤忠太の設計によるとかいてある。1912年竣工というから100年をこえている。どこかしら異国風をただよわせ、周囲に比べると大きい建物だが、100年の効果か、違和感なくおさまっている。
本願寺伝道院

伊藤忠太といえば、僕になじみがあるのは東京の築地本願寺。
そこを目指していなくても築地あたりを歩いているとつい通りかかって、ふつうのお寺とはかけ離れた、さすがに伊藤忠太というスタイルが目に入る。
須田剋太『築地本願寺』
須田剋太『築地本願寺』1937
若いころの須田剋太がその本願寺を描いている。ぐにゃぐにゃと歪んで、その姿を写す川の水までゆらゆらうごめいている。須田剋太の数多い作品のなかでも際立って異様で、いちど見たら忘れがたい。
1934年に建ってまもなくの1937年の作品で、須田剋太がこの建築から受けた衝撃の大きさが思いやられる。

(この旅から帰ったあと、本願寺伝道院が重要文化財に指定されるというニュースがあった。)

* 東中筋通(かつて天使突抜通といった)を北上して、通崎睦美さん宅に伺う。
肖像画群を間近に拝見できて珠玉の時間だった。
5月20日から開催される東大阪市民美術センターでの通崎睦美展にも出品され、その展覧会にはあらためて見にくる予定でいる。(→[大阪から奈良へ竹内峠を越え、京都でコンサートを聴く]
松原通とか高辻通とかを道草しながら東に向かい、鴨川をこえて建仁寺に着く。


■ 建仁寺
京都市東山区小松町 tel. 075-561-6363

京都にくる直前に、東京国立博物館で開催中の『栄西と建仁寺』展を見てきた。
俵屋宗達の『風神雷神図屏風』ほか、数々の名品をたんのうした。
建仁寺の法堂(はっとう)には、小泉淳作氏(1924-2012)が描いた龍の天井画がある。2002年に、建仁寺創建800年を記念して奉納された。額に入った絵や、ふすまに描いた絵は、東京の博物館に展示できるが、大きな天井画はここでしか見ることができない。

建仁寺の天井画、小泉淳作の龍

バレーボールのコートほどもある大きな絵を描くには広い場所が必要で、東京・日本橋にある一番星画廊の星忠伸さんが世話をして、北海道の廃校の体育館で描かれた。
僕は星さんと縁があることから、埼玉県長瀞町にあった星さんの美術館や、鎌倉のアトリエに近い小町通り裏の小料理屋で小泉画伯とご一緒したことがある。絵のこと、表現のことこそが重大事で、ほかのことはすべて小事にすぎないと覚悟しているふうで、人に対すると、かすかなはにかみを感じているような、独特な雰囲気があった。
(前掲の日本経済新聞の中沢義則氏と僕の共通の知人というのは、この星忠伸さんのこと。)

須田剋太と小泉淳作とは、表現することがすっかり頭のなかを占めていて世俗の栄誉といったことにこだわりがなかったことや、東大寺と深い関係があったこととか、似たところがある。
(須田剋太は若いころ東大寺で世話を受けたことがあり、いくつもの絵をのこしている。小泉淳作は80歳を越えて東大寺の大きな襖絵にとりかかり、しあげてから力尽きるように亡くなった。)

鎌倉・建長寺にも小泉画伯が描いた天井画がある。
2012年に画伯が亡くなられたときには、告別式がその龍の天井画の下で執り行われた。壁にかかった小泉淳作の写真と見比べて、参列者のすべてが-といっていいと思うが-「龍の目が小泉淳作さんとそっくりだ」という感想をもった。
建仁寺の龍も同じ目をしていて、きっかりとして深い絵の魅力にあわせて、画家の目を思い出して懐かしくもある。

* 寺町通りを歩く。

ユニークな選書で知られる三月書店。買いたくなる本がチラホラあるが、重くなることを思って思いとどまる。
茶の名店の一保堂茶補で茶を買う。これなら軽い。
錫の専門店の清課堂。ぐいのみを2つ買った。中程度の大きさのと、やや大きいの。(大きいほうを妻が使う。)
酒をさす器(石目片口1合)も買う。あわせて3万円ほど。姿がいいうえに、気をつかうほどの手入れが不要で、焼き物のように割れる心配がないこともいい。
(帰ってからためすと、わがやの簡素な食卓でも錫の器が3つあるとひきしまる。いい買い物をした。)
三月書房

京都市役所前から地下鉄で京都駅へ。
ホテルで荷物を受け取り、弁当を買い、新幹線のなかで食べながら帰った。


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参考:

  • 『街道をゆく 4』「洛北諸道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1974
    『街道をゆく 26』「嵯峨散歩」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1985
    『街道をゆく 9』「晩秋揖保川・室津みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1977
  • 「司馬遼太郎-異端へのまなざし(上)」中沢義則 『日本経済新聞』 2016.6.5
  • 『日本 タウトの日記』 ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975
  • 『「坊っちゃん」先生 弘中又一』 松原伸夫 文芸社 2010
    『実録 熊谷の坊っちゃん』 宮崎利秀 北むさし文化会 1981
  • 「大先輩の須田剋太をめぐって、国語の船戸安之先生や、「坊っちゃん」の夏目漱石のこと」 渡辺恭伸 『熊谷高校百二十周年誌』 埼玉県立熊谷高等学校/編・刊 2015 → (PDF 4.3MB)
  • 2泊3日の行程 (2014.4/18-20)  (→電車 -レンタカー …徒歩)
    第1日 [洛北諸道]:京都駅-鞍馬寺-花背峠-花背村別所-大悲山峰定寺・美山荘-常照皇寺-山国神社-もみぢ家(泊)
    第2日 …神護寺…高山寺…もみぢ家本館-御経坂峠-
    [嵯峨散歩]:水尾・清和天皇社-渡月橋…大悲閣…天龍寺…嵐山駅→車折神社→嵐山駅…法輪寺-新・都ホテル(泊)…清水家錦
    第3日 新・都ホテル…通崎睦美さん宅…六道珍皇寺…建仁寺…三月書店…一保堂茶補…清課堂→京都駅 
    * 通崎睦美さんは木琴奏者。須田剋太がその肖像画を描いていて、見せていただきに伺った。→[大阪から奈良へ竹内峠を越え、京都でコンサートを聴く]